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Zen

最近、ときどき坐禅を組んでいる。
自己流だし、さほど長い時間ではないし、ましてや悟りからは程遠い。
きっかけは、一冊の本を読んだこと。『禅マインド ビギナーズ・マインド』は、鈴木俊隆という一人の僧の講話を、弟子たちがまとめた禅の入門書だ。
鈴木俊隆は、壮年、曹洞宗の布教のためアメリカに渡ったのち、一生涯を彼の地での禅の普及に尽くした。飄々かつ温かい人柄で、新しい宗教との出会いを求めたアメリカ人に愛されたらしい。

僕自身に関してして言えば、ここ数年、メンタル的に苦しい時期が続いたことが背景にあって、何か生きていくための支えのような言葉に出会えないかという(ややさもしい)思惑に駆られて、この本を手に取った。
書かれてある言葉は平易だった。無用な難解さを避けようとする心配りが、言葉の隅々に感じられた。
平易さとは、喩えるなら、取っ掛かりのないツルンとした壁のようなものだ。壁ははっきりと見える。触ればそこにある。だが、攀じ登るとなると、どこに最初の足がかりを見出したらよいか皆目見当がつかない。
少なくとも、悟りの訪れを期待して日がな坐り続ければ、どこからか都合のよい脚立が現れるぞよ、とは書かれていなかった。

少し前に、ツイッターで、「スナップはマインドフルネスに似ている」という趣旨のことを呟いている方がいた。
なるほど、と感心した。
スナップ写真を撮るとき、我々は、自分の心のかなりの部分を外の世界に預けてしまう。自意識を撮るのではなく、ただ目の前に現れた現象をすくい上げようと努める。いや、撮影に没頭しているあいだに、いつの間にかそうなっている。
放心。大きな世界の中の無名の一部になること。
スナップの真髄とは、きっと、そういうものなのだろう。

僕はまだ、「写真の奴(やっこ)」になりきれていない。

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