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 カウンターのスツールに女と男が並んで腰かけている。
 女は痩せていて、顔は細長く、あごも細長く、目尻には何本もの深いしわが刻まれている。
 男はまだ若い。ぽっちゃりした体つき。野暮ったいセーターに、寝癖を直しただけの無造作な髪型。ずっとうつむいたきりほとんど口を開こうとしない。
 女がフウッとタバコの煙を吐く。遠慮なくタバコを吸える喫茶店は近ごろでは珍しい。

「いまならまだ若いから、いくら失敗したって大丈夫よ」
 女が言う。
「わたしだって、これまで何度失敗したことか。ボーナスの計算を間違って少なくしたり、反対に払わなくてもいい残業代を支払っちゃったり」
「人生なんて、失敗してナンボだよ。案外、どんなやり方をしたって生きていけるものよ」
「だからさ、あんたも思いきって辞めちゃえばいいんだよ」
「税務署の職員のおじさんが、何でも丁寧に教えてくれるよ」
「わたしの旦那なんか、突然仕事クビになって、仕方なく会社立ち上げたんだから。それと比べたら、心構えをして準備できるのは絶対に有利だよ」
「例えば、あなたが社長やって、わたしが事務をやれば、上手く役割分担できるんじゃない?」
 聞くともなく話を聞いていると、どうやら女は、不動産関係の仕事を始めたいと考えているらしい。
 男がトイレで席を外す。女がマスターに話しかける。
「あの子さ、しゃべるの苦手だから、いつも説明しないまま行動しちゃうの。それで会社でも誤解されてトラブルになる」
「……ぼくもそういうところあるから、すごくわかりますよ。それもあって、こうして一人で働くことにしたんですけど。会社を辞める前はすごく怖かったけど、いざ辞めてみると、想像していたよりも全然怖くなかったっていうか」
「でしょう? でも、あの子ったら、肝心の辞める勇気がないのよ」

 まだ熱の残ったマンデリンをひと啜りする。
 今日の《本日のコーヒー》はマンデリンである。モカもコロンビアもキリマンジャロもそれぞれ美味しいが、マンデリンはマンデリンで好きだ。ここのマスターはドリップが抜群に上手なのだ。

 帰りに駅地下の書店に寄り道をして、前から気になっていた文庫本を探そう。通帳の記帳も忘れずに済ませなくては。

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