悪女考察(結)日本三大悪女
日本三大悪女ってご存じでしょうか?
北条政子、日野富子、淀殿だそうです。
でも、この人達って本当に悪女なんでしょうか?
彼女達が悪女と言われた所以などを探ってみたいと思います。
北条政子
北条政子の生涯
1157年、伊豆の豪族・北条時政の娘として生まれる。母は同じく伊豆の豪族・伊藤祐親の娘とされる。父を同じにする兄弟は、宗時、時子、義時、阿波局、時房、稲毛重成室、政憲、畠山重忠室、平賀朝雅室、三条実宣室などがいて、そのうち時房までが母も同じだと言われているが定かではない。上の順番はWikipediaに倣ったが、政子は宗時と時子の間ということになっている。この順番も時子のほうが姉という説もあるらしい。また阿波局と時房は異母弟妹という説もある。宗時が三郎、義時が四郎なので、上に一郎と次郎がいたことも考えられる。
1177年(20歳)ごろ大恋愛の末に源頼朝と結婚する。この時頼朝は30歳、二人とも当時としてはかなり晩婚のようだった。その後、治承・寿永の乱で平家が滅び、1192年には頼朝が征夷大将軍となり政子も御台所となる。しかし、1199年に頼朝が急死すると長年・頼家が将軍職を継ぎ、政子は尼御台として死ぬまで幕府に影響力を及ぼす。
政子伝説1:婚礼の席を抜け出して恋人のもとへ走る
当時頼朝は流人であったから当然父親は反対する。政子を他の男と娶せようとしたが、当の政子は婚礼の場を抜け出し、裸足で駆けて行った・・・
という逸話があるが、これはどうやら映画か小説か何かの演出だったらしい。花嫁姿で逃げるほうが絵になるから…ということらしい。
政子伝説2:夫の浮気相手の家を叩き壊す
これはどうやら史実らしい。頼朝は女癖が悪くあちこちの女に手を出した。ただ当時頼朝位の地位にいる人は妻を複数持つこともまかり通っていたので本人はそれほど悪気はなかったようだ。だが政子は人一倍嫉妬深い。妊娠中に夫が通っていた亀の前という女の家を叩き壊させた。やきもちの焼き方もここまで来ると逆にあっぱれだ。
政子伝説3:大演説の末御家人達を戦へと奮い立たせた!
これが最も有名な逸話。そもそも後鳥羽上皇は義時追討の院宣を出したのだが、朝廷が鎌倉幕府を潰そうとしていると話をすげ替えて御家人を奮い立たせた。ドラマなどでは勇ましく演説する政子の姿が描かれているが、あれも演出で、本当は政子が書いたと思われる文章を安達景盛が代読している。
それにしても、朝廷に矢を向けた人物なんて他にいただろうか?そう考えると何気にこの姉弟、凄い。
政子伝説4:邪魔な奴に濡れ衣を着せて追い払う
実質的に幕府の政権を担ってきた弟の義時が亡くなると、長男の泰時が後を継ぐのだが、義時の後室・伊賀の方と伊賀氏が謀反を企てたという噂が流れる。しかし、それは伊賀氏を潰すために政子側がでっち上げたデマであると言われている。その後伊賀一族は伊豆へ追いやられる。
政子伝説5:事前に息子達が暗殺されることを知っていた?
政子は二人の娘を病で亡くし、二人の息子は暗殺され、母としては恵まれない人生を歩んだ。ドラマや小説などでは彼女も政権争いの被害者として描かれている。しかし一方で、二人の息子が暗殺されることを事前に知っていたという説もある。これが本当だとするなら、悪女としか言いようがない。そうであってほしくないと願うが、首謀者と思われる義時との関係は生涯良かったと言われていることを鑑みると、まったく違うとも言い切れないものもある。ただ、政子は頼朝の起こした鎌倉幕府を何が何でも守ろうとする意気込みは半端なかったのだと思う。
日野富子
日野富子の生涯
1440年、山城の国(京都府)に生まれる。父は日野重正、母は北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光、永俊、資治、良子がいる。日野家は代々娘を足利将軍家に輿入れさせている家系で、武家ではなく藤原氏系列の公家。富子も幼少時より将来は将軍の御台所になるよう育てられてきた。
1455年(16歳)室町幕府八代将軍・義政の正室となる。義政の母・日野重子は姑であると同時に大叔母でもある。
結婚後なかなか子どもができなかったため、1464年、義政は出家した弟・義尋を還俗させて義視と改め後継者に指名する。しかし翌年富子に男子が生まれると我が子に将軍を継がせたい富子側と義視側の間に対立起こり、それが応仁の乱のきっかけともなった。戦が続くと諸大名が家臣に報酬が払えなくなってくる。富子は自分の属する東軍だけでなく敵方西軍の大名にも金を貸し付け利益を生んだ。
1473年、息子の義尚が第9代将軍に就任し、兄の日野勝元が将軍代となる。3年後に兄が亡くなると実質上富子が親政を担った。義尚が亡くなると義視と実妹・良子の息子・義材を次の将軍にする。しかし将軍としての資質に欠けると見抜き、義材を廃し、義政の甥・義澄を11代将軍に就けた。1496年57歳で亡くなるまで政治の表舞台で実権を握った。
富子伝説1:邪魔な夫の乳母と側室達を追い払う
武家に嫁いだ女の一番重要な勤めは跡継ぎを生むこと。もし正室に男子が生まれず側室が生んでしまったなら家中の均衡が崩れてしまう。富子としては是が非でも男子を生みたい。しかし、子作りを邪魔立てする輩がいる。それは義政の乳母・今参(いままいり)の局、通称お今。彼女は義政に自分の息のかかった側室の所に行かせて富子のほうへ行かせなようにした。一説によるとお今自身も義政と男女の関係にあったらしい。
富子の最初の子どもが流産したとき、お今が呪ったと言って流刑にした。なんだかひどい言い掛かりに思えるけど、本人も認めたらしいので、呪ったのでしょう。お今も相当気の強い人だったようで、流刑地に行く途中で自ら切腹した。日本史上初めて切腹した女性と言われている。ついでにお今派の側室4人も追い出した。
富子伝説2:幕府の財政を立て直すためのマネ活
この時代、武家の勢力争いが激化して世の中が混とんとしていた。富子は社会が不安定な一番の要因は、幕府に武力がないことだと悟った。もはや尊氏の時代のような威厳はない。しかも財力もない。武力はどうすることもできないが、財力なら女でもつけられるんじゃないかと動き出した。
富子は『預銭(あずけぜに)』『合銭(あいぜに)』という策を打ち出した。
・『預銭』は利子はつかないが、貸し手から返してほしいと要求があった時はすぐに返さなければならない。
・『合銭』は利子がつくが、貸し手が返却を要求してきても半年なり1年なり猶予期間がある。つまり即返す必要がない。
正に銀行業務や国債発行のようなことをしていた。最もブレーンがいたことと思うが、この時代は財産と言えば土地という概念しかなかったが『金』に目をつけた彼女の先見の明は凄い。
富子伝説3:敵味方関係なく金を貸し付け反戦パフォーマンス
応仁の乱では、富子は一応東軍のほうに入っていた。しかし、戦が続くと武将たちは財政難になり家臣に報酬を与えることができなくなる。そこへ富子が東軍だけでなく西軍の武将にも金を貸し付けた。
しかし、中には返済できない武将も現れる。すると富子は担保として馬や武具を没収する。馬は転売するが武具は民衆の見ているところで焼き尽くす。豪快な反戦パフォーマンスでなはいか!
よく富子は戦を利用して金儲けしたと非難されるが、戦を収束させる一因にもなっていることは否めない。
富子伝説4:夫の銀閣寺建設費用をしぶる
足利義政は将軍としては大した実績はないけど、芸術的センスは秀でていて、中でも庭園の建設には力を注いでいた。義政が東山山荘造営のための費用を捻出に苦労していた時、富子は一銭も援助しなかった。自分は潤っているのに夫のために金を使わないなんて、『天下の悪妻』と世の人々から非難を受けた。
これは、まあ、価値観の問題でもありる。富子からしたら山荘の造園なんて無駄なこと、そんなことする位ならもっと政治家らしいお金の使い方をして民衆の心をつかんでほしい…と思っていたのでは。
東山山荘は別名慈照寺、もっと我々に馴染みのある名前は銀閣寺。銀閣寺の砂山や庭園は確かに趣があって好きな人も多いと思う。本来は金閣寺のように全面銀箔で覆う予定だったが予算が足りなくてあのような姿になったのだとか。あの渋いたたずまいは逆に幽玄でいいように思う。が、一方でもし富子が渋らなかったら完成したであろう銀色の建物も見てみたい気もする。
富子伝説5:あろうことか天皇と不倫⁉
戦火で御所が焼け落ちて、後土御門天皇は一時期足利邸に避難していた。しかし天皇の家族は都から離れたもっと安全な別の所に避難していた。天皇が足利邸に留まったのは公務をやりやすいためではあるが、これを世間が天皇と富子の間に何かあるのではと憶測する。一説によると天皇は富子の侍女のところへ通っていたとも言われている。
実際はどうだかわからないが、この時代の権力者はみな政略結婚で夫婦間の情愛など望めない。富子は男子2人を生んだ後は義政が側室達とどう過ごそうと関与していないようだ。一方で富子のような才女が魅力的に見えることも十分あり得る。ま、あってもおかしくない話ではある。
富子伝説6:首をすげ替え政権に座り続ける
応仁の乱のあと、富子は京都の7か所に関所を設け、内裏の修復費などに充てた。しかし集めた金を自分の懐に入れて民衆から非難される。そのうえ成人した義尚が富子を疎んじ始め、一旦政治の表舞台から去る。
しかし、義尚が戦死するとかつては対立していた義視と自分の妹・良子の息子・義材を将軍に祭り上げた。政権の座に居座る富子と義視、義材親子の対立は続く。そこで富子は細川政元と結託してクーデターを起こし、義政の甥で堀越公方・足利政知の子・義澄を11代将軍に就けた。その3年後、1496年に57歳で亡くなるまで政権の座に居続けた。
淀殿
淀殿の生涯
1569年(一説によると1566年)近江の浅井長政の長女として生まれる。名は茶々(ちゃちゃ)として一般に知られているが、菊子(きくこ)という記述もある。母は織田信長の妹・お市の方。兄弟は万福丸(まんぷくまる)という兄がいたが小谷城の戦いの後、信長の命令で処刑された。初(はつ)(京極高次正室)と江(ごう)(徳川秀忠正室)という妹がいる。いずれも美人と誉れ高く、浅井三姉妹と呼ばれている。
父の長政が信長に反旗を翻し、逆に信長に滅ぼされると母と姉妹達は一旦織田家の傘下に入る。その後本能寺の変で伯父・信長が暗殺されるとお市の方が柴田勝家と再婚し、娘達も共に北の庄(福井市)に行く。やがて勝家が羽柴秀吉と対立して賤ケ岳の戦いで敗れると母と義父はそこで自害、三姉妹は今度は秀吉の傘下に入る。
1588年ごろ茶々は秀吉の側室になり、第1子・鶴松君を生むが夭折する。1593年に第2子・秀頼を生む。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が事実上天下を治めるのだが、彼女は時代の変化についていけない。最後まであがいて1615年、大阪夏の陣で城と共に自害した。
淀殿伝説1:親の仇・秀吉の側室になる
秀吉は浅井長政とお市の方を亡き者にした張本人。そんな奴の側室になるなんて…と非難されてもおかくないが、時の権力者である秀吉に逆らえなかった…というのが最もしっくりくる。ただ、『江姫~姫たちの戦国』などでは秀吉は茶々を強引に我がものにせず、茶々のほうからも好きになるような演出をしている。また今年の大河ドラマでは、まるで秀吉をたぶらかすような演出がされている。
それは後世の演出で、やはり実際はやむにやまれず親の仇の側室になったのだと思う。
淀殿伝説2:褒美は城‼
鶴松を身ごもった時、秀吉が喜び勇んで
「領土でも城でもそなたがほしいものなら何なりと授けよう」
と言ったら、すかさず
「では、城がいたたきとうございます」
と答え、秀吉は茶々のために淀城を建てて住まわせ、そこから彼女が淀殿と呼ばれるようになった。
何とスケールの大きな褒美!あげるほうもあげるほうだがねだるほうも…と思える。しかし茶々のためにわざわざ城を造ったのかと思えたが、どうやら淀城という城はもともと存在し、改修して茶々の産所として与えただけらしい。
淀殿伝説3:花見の席でマウンティング
秀吉は派手なことが大好きで大阪城や伏見城の築城や黄金の茶室、北野の茶会など度肝を抜くようなことを次々と行い、民衆を楽しませた。自身の死を予期したのか亡くなる3年前に親族や側室達、有力大名の奥方や女房衆など女性ばかり1300人を集めて京都、醍醐寺で盛大な花見が開かれた。このために前もって約7000本の桜も植樹されている。
宴の席で秀吉はまず北政所に酒を酌み、次に松の丸殿と言われている京極竜子に杯を授けようとしたところ、淀殿が待ったをかけた。
「正室である北政所様の次は、世継ぎを生んだ私でしょ!」
と主張した。しかし竜子のほうも
「私のほうが先に殿下の側室になっているし、そもそも家柄も私のほうが上でしょ!」
と張り合った。そこに前田利家の妻・まつが
「歳からいったら次は私ね」
と割って入ってその場はなごんだ。
京極竜子は淀殿の従姉に当たり京極高次の姉。もともと京極家は浅井家の主筋で、一説によると竜子はわざとそんな態度をとって淀殿へ当てつけたようだ。
淀殿伝説4:珍しい黒百合を雑に扱って当て付け
佐々成正(さっさなりまさ)という武将は秀吉からあまりよく思われてなく、越中(富山)から肥後(くまもと)に飛ばされた。なんとか秀吉の機嫌を取って自分の立場をよくしようと、北政所に加賀白山の黒百合を取り寄せ、これは白山でしか取れない大変珍しい黒百合ですと献上した。
北政所は大阪城の女達を茶会に招いて、黒百合を高価な花器に飾ってみせた。ところが淀殿がそれは白山の黒百合であると言い当てた。
しばらくして今度は淀殿が茶会を開いた。その席では大量の黒百合が粗末な花器に生けられていた。北政所は成正に騙されたと思い、これがもとで成正は切腹を命ぜられた。黒百合の情報は淀殿が事前に掴んでいて、自ら大量に取り寄せ、北政所の鼻を明かした。
と、あるが、佐々成正が切腹を命ぜられたのは淀殿が大阪城に入る前で、そもそもこの頃は茶会を催すのはもっぱら男で女が茶会を開くのはもっとずっと後だと言われている。なのでこの逸話の信憑性はかなり怪しい。淀殿だったらこんな嫌みな当て付けをやりかねない…という後世の人の捜索と思われる。大河ドラマ『天地人』では淀殿は黒百合を生けもしないで、大量に捨てて踏みつけていた。
淀殿伝説5:秀頼は秀吉の子どもではない?
これはずっと言われていることで、以前は石田三成が秀頼の父親なんじゃないか?などとも言われていた。が、最近最も有力とされているのが大野治長説。治長は淀殿の乳母・大蔵卿の局の子どもで淀殿の乳兄弟。近親者以外入り込めないプライベートな空間にも母の手引きがあれば入れるので可能性は大きい。
秀吉は大勢の側室を抱えながら淀殿以外には子どもを産んだものがいないと言われている。一方で淀殿が側室になるずっと前に南殿と呼ばれる側室が男女一人ずつ子どもを産んだが夭折したという話もある。また松丸殿も解任したという話もある。
実際にどちらが真実であるかはわからないが、秀吉は生まれてきた秀頼をそれはそれは可愛がった。騙されてもいいくらい茶々がかわいかったのかもしれないし、私が思うに、嘘でも自分の子どもだと思いたかったのではないだろうか。
子どもを授かるということは、本人が意識している以上に大きな安心感を得られる。それは我が子の性質が良くなくても、親子の仲が悪くても、子どもが存在するだけで何かが違う。寿命が尽きてこの世を去る時、子どものいない人の寂しさや怖さは、より大きいのではないかと思われる。
なぜ悪女と呼ばれたのか?
さて、この方々を悪女と言っていいのだろうか?意見は分かれると思う。
ではなぜ悪女と呼ばれたのかを考えてみたい。まず、3人に共通する特徴は次の3つではないかと思う。
気が強い
嫉妬深い
政治に口出しする
気が強いということ
武田信玄の正室・三条の方や徳川家康の正室・築山殿も気が強いと言われている。現代社会でも海外でも、悪女と呼ばれる女は決まって気が強い。人間誰しも腹黒い感情の1つや2つは抱えているのだが、気の弱い人はそれを表に出さないだけだ。表に出さなければ「なかったこと」、表に出せば評価もされる反面叩かれもする。
では、気が強いことは悪いことなのか?
人の上に立つ人は気が強いくらいでなければやっていけないと思う。これが男なら気丈夫な対象として崇められるだろう。女から見て気の強い女は頼もしくもあるけれど、男から見ると
「女のくせに気が強い」
と退くのだと思う。歴史的な価値は男目線で見られている事も一つの要因と思われる。
嫉妬深いということ
嫉妬の感情も誰しも持ち合わせているのだろうけど、やはり気が強いゆえにそれが表面化している。ただ、嫉妬の質は3人それぞれのような気がする。
富子がお今の局や側室達を追い出したのは、単なるやきもちと言うよりも御所内の日野家の対抗勢力を追い出したいという政治的なにおいがする。
淀殿の醍醐の花見での行動は正にマウンティング。「わたしのほうがランクが上よ!」と。常に自分が注目されていて、一番でなければ気のすまないタイプ、現代でもいますね。常々不思議に思うのだが、一番になりたがるマウント女子ほど何故か既婚者の愛人になる傾向にある。
一方で政子の嫉妬は単純な独占欲によるやきもち。ただ、やり方がダイナミック過ぎて退かれてしまったのだろう。たらればの話だが、もし政子がこんなに嫉妬深くなくて、頼朝に側室を持つことを認めていたら、中には将軍に適した子どもも生まれたことだろうし、源家の血統を絶やさずにすんだのではないだろうか?政子は頼朝の築いた鎌倉幕府を存続させようという気持ちは人一倍強かったと思われるが、その点に関しては矛盾しているようにも取れる。
しかしながら、幕府の存続も大切だけど、それよりも自分の感情を正直にぶつける政子の姿勢は人間味があって好感が持てる。
政に口出ししたこと
淀殿が政にあれこれ口出しするようになったのは、秀吉の死後であろう。彼が生きている間はとうていそんな隙はなかったはず。ただ、淀殿の口出しがどれほど効果があったのか?どれほど彼女の意見が通っているのか?はなはだ疑問だ。おそらくガミガミ口うるさく話しているのを家臣達が、はい、はい、と聞き流していただけなのではないだろうか?
彼女には富子のような政治力も政子のようなカリスマ性もなく、私には単なる子どもに依存している過保護ママにしか見えない。
政子が政の表舞台に立ったのは、自らの意思というよりも義時に担ぎ上げられたのだと私は思っている。女を上に立たせるほうが印象が柔らかくなり下の者が従いやすくなる。それだけでなく政子自身にも人を引き付ける魅力や人を説得させる力を持っていたのだと思う。
富子はもともと男の感覚を持っている人なんだろう。彼女は妻とか母とかいう以前に政治家であり財界人であった。母であれば息子を将軍にしたらそれでお役御免だろうけど、彼女はそこで終わらない。
幕府の財政を立て直したこと、応仁の乱を収束させたことは評価に値する。しかし彼女は調子に乗ってしまった。欲が深すぎた。応仁の乱が治まったあと、しかるべき地点で身を引いていたら後の評価は変わっていたことだろう。賄賂もたくさんもらっていただろうし、政権の座に居座ることはおいしかったのだろう。
ところで、女が政治も表舞台に顔を出すのはいけないことなのだろうか?ここでもやはり男目線で「女のくせにまつりごとにしゃしゃり出る」のはよくないという考え方が垣間見られる。世の中の考え方もだいぶ変わって来ていいるので、この辺の評価もどう変わっていくのか見ていきたい。
書いているうちにどんどん長くなってしまいました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。歴史は不明瞭な部分も多く、ここに書いたのはあくまでも私個人の捉え方です。リンクしたのは最近読んだ本のレビューです。よろしけば併せてご覧いただくと嬉しいです。
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