「哲が句」を語る 裸の誕生~裸構造 存在の真実

あるものの「誕生」を探る、というやり方で、私は色々なことを考えてきました。
今回のテーマは「裸」です。

ではさっそく参りましょう。
裸はいつどのように誕生したのでしょうか。
かつてヒトはずっと裸でした。
だとすれば、裸の誕生は人類の誕生と同時だったのでしょうか。
これは事実としては何ら誤りはありません。
もっとも、体毛がなくなってすっかり素肌が現れたときではないか、とおっしゃる方はいるかもしれません。それはご意見として拝聴しておきましょう。

しかしいずれにしても、最初から裸であるだけなら、わざわざ「裸」と言う必要はありません。何しろ、裸しかないのですから、「裸だ」と言っても何も意味をなしません。
つまり、裸しか知らない大昔の人々に「あなたは裸だ」と言っても、言われた方は何を言われているのか分からないはずです。
裸が裸と言う意味を持つためには「非裸」が対置される必要があります。
「非裸」というのも変な言い方ですから、これを「着衣」と言うことにします。
すると、裸が誕生する前に「着衣の誕生」が必要だということになります。着衣の誕生によって、裸が意味を持ち、かつ如実に意識されることになります。これこそが「裸の誕生」です。

とは言え、着衣誕生前の裸も、着衣誕生後の裸も、事実としては同じものです。ただ、同じ裸ではあっても、その意味合いが違うものとなります。
裸は、本来、何の変哲もない普通の事態でした。ところが「着衣」が出てきたことによって、それまでとは全く違った様相を帯びることになります。
「裸」の再発見が起きます。
「着衣」以前の「裸」と「着衣」以後の「裸」とは全く別物です。
私は、以上の一連の事態を「裸構造」と呼びたいと思います。

ヒトが「着衣―裸」という対比構図を持ったことは大変意味深いものだと思います。
恐らく「着衣―裸」という対比があるとか、「裸が恥ずかしい」と思うような生き物は他にはほとんどいません。これは明らかに、「死とは何か生とは何か」シリーズで述べた「宇宙の陰謀」の仕業であろうと、私は考えます。
ということで、「裸」は大事なテーマには違いないのですが、いまはその指摘だけにとどめておきたいと思います。
今回の記事でお伝えしたいのは、上で述べた「裸構造」をもつ幾つかの概念があり、我々にとって極めて重要なものであるという事実です。

この裸構造を図式化すると、
「裸→非裸→裸」
となりますが、左の裸と右の裸は、同じ裸と言う言葉で指し示され、かつ事実としては同じものであっても、意味するものは大いに違います。
そこで、裸構造をさらに一般化して、
「A→非A→A’」
と表せばよいと思います。
「Aしかないところに、非Aが登場することで、AがA’に変わる(変質する)」
つまり、AとA’は、同じAという言葉で指し示されていても、意味するものが大いに違うものであることを示します。

裸構造には2つのポイントがあります。
1.非Aが誕生する以前からAはあるが、はっきり意識されることはない。
2.非Aの誕生により「Aの再発見」が行われ、AはA’に変質する。その結果、同じAという名であっても、AとA’という2種類があることになる。

さて、ここからが本題です。
下記で、裸構造という視点を用いて、4組の対概念についてご説明します。
それら4組の対概念は最高度に基本的な概念です。ですから、それらが裸構造という共通の構造を持つということを通して、裸構造の重要性をご理解いただけるものと存じます。

①    生と死


生と死については、これまでの記事で、言葉を尽くして述べて参りました。その中ですでに、生と死が裸構造を持つことは、それなりに触れたつもりです。
裸構造の図式にしてみると、
「A(生)→非A(死)→A’(生)」
となります。
これを裸構造の2つのポイントに当てはめてみます。
1.「死」(非A)が誕生する前から、「生」はありましたが、それは死ぬことのない「死なない生」(A)ですから、取り立てて意味のあるものではありませんでした。
2.「死」(非A)が誕生することで、「生の再発見」が起こり、「生」は「死ぬ生」(A’)へと変質します。同じ「生」という名であっても、「死なない生」(A)と「死ぬ生」(A’)の2種類があります。
40億年ほど前に生まれたとされる生物は、「死」という仕組みができるまでは、生存条件さえ揃っていれば「死ぬ」ということなしに生き続けてきました。現在でも「死」の仕組みを持たない生物は「死ぬ」ことなく生き続けています。
しかし、「死」の仕組みが生まれ、生きたのちに死ぬ生物にとって、「生」の意味は一変します。「死なない生」は「生存条件が揃っている」こととほぼ同義に過ぎず、わざわざ「生」と呼ぶ必要すらなかったものが、「死」の誕生によって「生」は如実な意味を持つものとなります。「死なない生」と「死ぬ生」とは、同じ「生」という名で呼べないほどに別物です。
詳しい内容については、「「死」とは何か 「生」とは何か」シリーズの記事をご参照ください。

②    始まりと終わり


「認識する」とは、何らかの区切りを了解することであり、「考える」とは、区切りを整理することに過ぎません。人間の精神活動とは区切りをつける営みにほかなりません。
時間的な区切りをつけるものが、「始まり」と「終わり」です。
このことを「始まりの誕生」と呼んで、これまでにもいくつかの記事でご説明して参りました。
始まりと終わりの裸構造は、上で述べた生死とほぼ似たようなものだと考えていいと思います。ただし、生死については、一応自然界に(宇宙の中に)ある事実を指した概念だと言ってよいと思いますが、始まりと終わりは果たして宇宙の事実としてあるものなのか、単なる人間の認識形式なのかが不明です。
ですから、生死については、まず「生」に当たるものが最初からあって、そこに「死」というものが現れることで、「生の再発見」があったと言えるのに対して、始まりと終わりについては、「終わり」の誕生と「始まり」の誕生はセットだと考える方が妥当だと思います。
なお、「始まりの誕生」についてはこれまでに書いた記事をご参照いただきたいと思いますが、必ずしも明確に説明しきれているとは言い難い部分があります。

③    あるとない


裸構造の極めつけは「あるとない」です。
あるとないの裸構造は
「A(ある)→非A(ない)→A’(ある)」
となります。
ここで極めて重大な事に気づきます。
「ある」にはA(ある)とA’(ある)の2種類があるということです。
順を追ってご説明します。

私たち人間も、あらゆる生きとし生けるものも、さらにすべての存在者も、「ある」ものの中に生き、「ある」ものの中にあります。すべてがただそのままあるだけならば、あることはただの普通のことであって、わざわざ「ある」と言う必要もないでしょう。
ところが、「非ある」である「ない」が誕生することで「あるの再発見」が起こります。
それによって、「ない」誕生以前のある(A)と、「ない」誕生以後のある(A’)の2種類があることになります。

もう一度、「裸」に戻って考えてみましょう。
非裸=着衣が生まれる前の裸(A)は、それ自体としては何ら意味を持つものではありませんでした。
一方、非裸=着衣が生まれた後の裸(A’)は、着衣と対置されることで、差しさわりのある、恥ずかしい、いわくつきのものに変質しました。
裸(A’)と対比してふり返ってみると、裸(A)はおおらかで純粋無垢なものに見えてきます。

「ある」においても、これと同じような事態が生じていると考えます。
もともとのある(A)は取り立てて意味のあるものではありませんでしたが、ない(非ある=あらず)が誕生し、「ない」に対置される「ある」(A’)を意識した後に、改めてふり返って「ある」(A)に向き合ってみると別の意味が見えてきます。
すなわち、それは純粋真正な「ある」に見えてくることになります。
この「ある」が、パルメニデスの描いた「不生不滅、不変不動、不分不断」の完全球体です。この「ある」は、「ない」(あらず)と対置されるものではありません。ですから、パルメニデスは「あらぬはあらぬ」と言います。これは絶対的な「ある」です。
それに対して、「ない」と対置されることで意識された「ある」(A’)は、「ないのではなくわざわざある」という意味を持ち、相対的な「ある」に変質しています。

「A(ある)→非A(ない)→A’(ある)」という過程でどのようなことが起きているのか、私なりの考えを述べさせていただきます。
A(ある)における「ある」ものは、あらかじめ、また明確に、区切られているものではなく、その必要もありません。混然一体となった「ある」の世界は、境目があいまいでもいいし、境目があってもなくてもいい、そのようなあり方をしていました。
しかし、「ない」ものは区切られることになります。ないものがないものであるためには、区切られる必要があります。「ない」を意識するためには(つまり、「ない」が誕生するためには)、「ない」は、全体でも一体でもありませんから、何か区切られたものを意識する必要があります。ないのは「何か」がないのです。ですから「何か」が区切られる必要があるということです。「何だか分からないが、ないものがない」ということもあるでしょうが、そのような「ないもの」は、そのときどきで様々ですから、「何だか分からない」ながら、それぞれが別々に区切られているわけです。
そして区切ることを伴う「ない」に対置される「ある」(A’)はやはり区切ることを伴わざるを得なくなります。
「ある」(A)は区切りのない「ある」、「ある」(A’)は区切りのある「ある」と、2種類の「ある」があることになります。

なお、純粋真正な「ある」にこだわり過ぎたパルメニデスは、私の目から見ると、「ある」に2種類あることに気づくことができませんでした。(この話は記事を改めて述べたいとぞんじます。)
パルメニデスは裸構造の一歩手前まで来ていたかもしれないのですが、「裸」といういい題材に出会わないと裸構造は分かりにくかっただろうと思います。
ですから、パルメニデスはもやもやした状態のままでいたのではないかと思います。

「あるとない」について述べるということは、すなわち「存在論」と呼ばれる分野に足を突っ込むことになるのかもしれませんが、正直に言って私は「存在論」と呼ばれるものがどんなものなのかを全く理解していませんし、従って「存在論」を論じることができるとは思っていません。ですからここで述べさせていただいたのは、全くの平場に立って「ある」とか「ない」という普通の言葉について私が考えたことであることを断っておきます。
ただ、少々独学したパルメニデスについてだけは触れさせていただきました。

④    違うと同じ


「違うと同じ」は「あるとない」以上に重要な概念だと考えています。
裸構造の成り立ちは「あるとない」に似ています。
裸構造は
「A(違う)→非A(同じ)→A’(違う)」となります。
原初の「ある」(A)の世界、つまりただ「ある」世界では、すべてが違うものでした。
裸だけの世界には「着衣」はなかった。それと同じように、あるだけの世界には「ない」はなかったし、違うだけの世界には「同じ」はなかった。
そこに、「ない」が誕生した。「同じ」が誕生した。
それはまるで雷に打たれたような衝撃だったことでしょう。哲学する人がタウマゼインなどと呼ぶようなものでしょうか。

ところで、「ただある世界では、すべてが違う」と述べましたが、その言い方で、「違う」(A)がどんなものか、ご理解いただけたでしょうか。もう少しご説明しましょう。
そこはまだ「同じ」が生まれていない世界ですから、何についてにせよ、「違う」という必要はありません。世界にあるすべては、それぞれがそれぞれであるだけです。
それぞれがそれぞれ「である」という言い方も、厳密には不正確かもしれません。「である」という“同一性”も成立していないと言うべきでしょう。
あえて言えば、それぞれが互いに違うという状態だった、といったところでしょうか。

ありとあらゆるものが、それぞれ互いに違うことは、それぞれが別なのだから、特に不思議なことではありません。モノが違うし、場所が違うし、向きが違うし、などなど色々違うのが当たり前です。
ところが、ふと、我々が言うところの「同じ」という場面に出会うことがあったのでしょう。最初は「似ている」という感じだったかもしれませんが、それをさらに強烈に感じたとき、その「同じ」という感覚は、何か強烈なものだったのではないかと想像します。
ですが、その強烈な感覚は、きっとひどく戸惑いを感じさせるものではなかったでしょうか。なぜかと言うと、その感覚は、我々が持つ「同じ」という言葉、あるいは概念で名づけてくくらないと、極めてとらえどころのない、すごくもやもやとしたものだっただろうからです。
もしも「同じ」という言葉がなかったとしたら、あそこでも「同じ」を感じ、これについても「同じ」を感じ、さっきも「同じ」を感じても、それらの感じが何を共通しているのか、了解するのはとても困難なことです。
このことは、上で述べた「ない」についても同じだと思います。色々な場面で「ない」を感じることがあっても、「ない」という言葉を持たないと、その共通性を了解するのは困難です。
「似ている」とか「同じ」とか「ない」というのに近い感じ方を、ヒト以外の動物なども感じているかもしれません。ですが、それは言葉や概念で名付けないと、もやもやした不思議な感じ、という以上にはならないだろうと思います。
そのもやもやした不思議な感じに「同じ」という言葉を名付ける瞬間があったはずです。「同じ」の誕生です。

ところで「何かがある」と言う場合、この「同じ」という言葉で了解されていることが伴わないと、「ある」が成立しません。
「何かがある」が成立するためには、複数の人があるとし、複数の場面であるとし、複数の角度からあるとし、複数の時間からあるとしなければなりません。そのように複数にわたって「ある」ためには、それらに何らかの意味で「同じ」だと共通するものがある必要があるからです。
上の言い方は必ずしも緻密な説明になっていないかもしれませんが、「存在」には何らかの意味で「同じ」ということが要件として必要です。(ちなみに「である」についても「同じ」が必要だと考えます。)
このことを端的に言うと、「同じ」は存在の契機である、と言えると思います。
一方、「時間」が成立するためには、何らかの意味で「違う」ということが要件となっています。ある瞬間から一切合切が違わないとしたら、次の瞬間に向かって時間が経ったと言える根拠がないからです。むしろ「違う」ということが生起していることを「時間」と言っていると考えてよいのではないでしょうか。
時間についての上の言い方も必ずしも緻密な説明にはなっていませんが、「時間」には何らかの意味で「違う」が要件として必要です。
つまり、端的に言って、「違う」は時間の契機である、ということになります。
(ただし、ここで言う「違う」は、「違う」(A’)だと言った方が正確だと思います。)

以上のことを「哲が句」の形で、次のように表しました。

あるは同じ
ときは違う

これは、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が仮名12文字で見事に言い表しているのに対抗して、何とか12文字以内で表現したいというケチな野望のために、妙な言い方になってしまったものです。

さて、以上のことは、存在と時間が「同じと違う」という一つの軸で結ばれている、ということを示しています。
そのことに気づいてから、ハイデガーの「存在と時間」は、そのあたりのことを解き明かしてくれているのかもしれないと、いくつかの説明書を当たってみましたが、どうやらそうではないらしいと分かって、ガッカリしました。

「同じ」については、もう一つ大事な話があります。
「同じ」とは、宇宙の事実なのか、それとも人間の認識形式に過ぎないものなのか、という問題です。「始まり」と「終わり」と似たような問題です。
そこで気付くことがあります。完全に「同じ」と言えるものが一つあるということです。
それは「言葉」です。
「犬」という言葉は、誰が言おうと、どこに書こうと、漢字だろうとひらがなだろうと、同じ「犬」という言葉です。
むしろ、言葉を成り立たせている事態のことを「同じ」と言うのではないか、と思います。
これを端的に言うと、「同じ」は言葉の契機である、と言えると思います。
(ただし、ここには微妙な問題があります。人間の認識形式とか言葉とかは、宇宙の事実なのか、宇宙の事実ではないのか、ということです。これについては、記事「「死」とは何か 「生」とは何か (6)一発逆転 最後のピース」をご参照ください。)

さて、「同じ」は存在の契機でした。
ですから「同じ」は、存在の契機であり、言葉の契機である、と言うことになります。
そこから、「存在と言葉とは同等である」という発想に飛躍します。
話が長くなりましたので、ここではこれ以上のご説明は控えさせていただきます。

存在と知は同じである

いずれまた、これについてはご説明いたします。



今回の記事にはかなり思い切ったことも書いてしまいましたので、一通りの達成感があります。
十分に言葉を尽くしていない部分はたぶんありますので、補足しなければならないことが出てくるでしょうし、派生した話としてパルメニデス関係のことなども書こうと思っていますが、当面はやや気楽に記事にしたいと思っています。


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