見出し画像

「自由ってこんなものなんだな」という言葉

ミャンマーとバングラディッシュの国境沿いでロヒンギャの方々を撮り続ける写真家、新畑克也氏から、ロヒンギャ問題に関する番組を教えてもらい、視聴した。

前半はロヒンギャ問題について、そして後半は日本の難民の受け入れについてのお話だった。
番組はロヒンギャについて基本的なことを伝えていたため、ミャンマーに二年間住み、クーデターで日本に帰ってきてからもミャンマーに関わる人たちとつながっていた僕にとって、情報自体に目新しいものはなかった。

一方で、お話をされていた写真家の方が撮影した、普段アクセスすることの叶わないロヒンギャの難民キャンプの中でも特に酷いものの写真に僕は戦慄した。
写真に写っていたのは生の細木と竹で作られた骨組みにビニールシートをかぶせ、屋根に葉っぱを敷き詰めただけの住居。
言って仕舞えば難民支援の広告でよく見られるような写真なのだが、その住居がミャンマーの厳しい気候を過ごすのにどれだけ不十分であるかというのは、実際にミャンマーに行った自分だからこそ一入に感じることができるものだと思う。
ミャンマーは半年以上もの期間、激しい雨が一日中降り続ける雨季がある。昼間は外に出られないほど暑い日もあり、山間部であれば夜は薄着では風邪をひくほど寒くなる地域がある。
僕は海外の財団が主導する難民のための学校、地域の寺院の方が開いているモナストリー、いくつかの州の難民キャンプなどを直に見ている。
そしてその全てがある程度の雨季への備えが為されていた。
それすらもないあのキャンプ地では、多少の薬や食糧の支援だけでは彼らが生きるために必要な条件を根本的に揃えることができないと感じた。

https://www.youtube.com/watch?v=gnPIBxOR5Z4

後半はバングラディシュ国籍を持つロヒンギャ民族の方が日本に在住するまでの話だった。
彼女の父親はロヒンギャ難民であるというアイデンティティを隠し、バングラディッシュ人として国籍を取得した。
ロヒンギャであることが露呈した時はミャンマーに強制送還されてしまう。厳しい検査で自分のアイデンティティが露呈してしまうリスクから彼女は本国で夢であった医者になることを諦めた。
難民であることが学びの妨げであってはいけない。その想いから難民の学習支援に関心を寄せていく。
その後、結婚した日本で難民として認められた夫と共に日本へ移民することになった。19歳の時だった。
しかし、夫は日本で難民として生きてきた五年間。夫は携帯すら自分の名前では持っていない状況だった。
日本にいる難民は、難民として認められる書類を持っている。しかし企業はそれをパスポートにようには認めてくれない。

さらに障壁はいくつもあった。まず日本語が難しい。学費が高すぎる。そして”保証人”がいないということだった。
不動産はどこも保証となるパスポートがなければ外国人に物件を提供しない。そもそも住む家を見つけるのも難しかった。
難民という存在について、国籍という制度について、多くの日本人が無知無関心であるが故に、きちんと制度上受けられるはずの権利が阻害されている実態について語ってくれた。
「ゼロからのスタート」とよく難民は言うらしい。
言葉も話せない。助けてくれる人もいない孤独で不自由な世界を、言葉を学び会話ができるようになって助けを求めることができるようになり、さまざまな制度を受けて自分で自由を獲得していくためだ。だが彼女は、同時にバングラディッシュにいた頃と違い、「自分はロヒンギャ民族です」といっても逮捕されることもない環境に生きることができて、初めて自分は自由を得たのだ、と。
その後彼女は日本語を徹夜しながら学び、学習の機会を得て、難民雇用制度のインターンシップを受け、企業に就職しながら現在は修士課程を納めている最中だ。

「自由ってこんなものなんだな」
障害が原因で日本を離れ、オランダで学ぶ自分も同じようなことを感じる瞬間は何度もある。(それについてはまた記事にしたいと思う)
だが、難民であることを隠し、そしてゼロから日本語を学び日本の大学へ進学した彼女の言葉には、自分が感じる以上の重さを感じた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?