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自分を信じる方法

小4の時のクラスは、学級崩壊が起きていた。いじめが大っぴらに行われ、殴り合いの喧嘩もしょっちゅう、授業中に大声で会話するのも当たり前だった。

当時、担任は大柄な男の先生だった。しかし、完全に舐められていた。

力も強くて怒らないわけではない。生徒を抑えられないわけではないのだが、怒るポイントがずれているのだ。誰が誰をいじめていて、どちらに非があるかという判断ができない。子供といえど、教員の判断力のなさを見抜くのだ。

悪いことをしても怒られないとなると、人間の本性にまだ抑えが効かない子供は、ひたすら増長する。

教室内はいじめ、盗み、暴力が蔓延した。ベランダで手を離すチキンレースが流行して、教室内で殴り合いの喧嘩が起きた時などは、ヤジが飛び交いクラス中がお祭り騒ぎだった。女子は男子に「パンツ見たかったら言うことを聞け」と言って、嫌いな女子をいじめさせたりしていた。小さい頃から知っている同級生の、野性の部分を目の当たりにして怖くなった。

そんな荒廃したクラスでも、所詮は小学生であり、怖い学年主任のおばさん先生が来た時などはちゃんとピリッとした空気になった。そもそもそれまではそんなに悪い子達ではなかったのに、担任が変わるだけでこんなにも変わってしまうのかと驚いたものだ。
それまで優しくて若い女の先生だった時も、ここまで治安は悪化しなかったのに。

例えばAさんがBくんを叩いたとする。その時Aさんを怒らずに、見てみぬふりをする。
この時、Aさんは担任を舐めてしまう。一旦舐めると、次に同じような場面で叱ったとしても「気分で叱っている」と認識するだけなので、効果がない。

この時の担任がしたことは、悪事を見過ごした、それだけである。たったそれだけのことで、「この社会は無法地帯だ」と子供は認識した。

何をしたら怒られるか、というラインをはっきりさせることで、「これ以上やったら怒られる」という意識が自然と働くようになり、善悪の判断がつくようになるのだ。

大抵の人は親や教師からその判断基準を受け継ぐのだが、ごくたまに、この判断がつかないまま大人になる人がいる。
何をしても怒られなかった人もそうなのだが、何をしても怒られていた人や、どこで怒られるのかわからない世界で育った人もそうなってしまう。

そういう人が社会に出て上司になると、同じように組織の治安が悪化してまともな人が去り、自分勝手な人が残る。

そういう意味でも、善悪の判断というのは重要だ。
私はここに自信がないまま大人になってしまったので、社会に出る前に善悪の判断のトレーニングが必要だった。

正義と罪、善と悪についてに納得のいく答えを探し続け、自分なりの軸が持てるようになった。

すると、ずっと低かった自己肯定感が、いつの間にか気にならなくなっていた。自己肯定感が低いと思っていたのは、善悪の判断力に自信がなかったところが大きかったのだ。自分の判断が是か非かわからない。だから人に任せてしまう。自分の判断を肯定できないことこそが、自己肯定できない原因だったのだ。

親や先生から判断基準を受け継げなかったことは不幸だが、その代わり人から貰ったものではない基準を自分で作ることができるのだ。自分の頭で考えた基準は、人から貰ったものよりずっと強力だし、柔軟なのだと思う。

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