毛利敬親って名君だよね。毛利家ラブを語る回。

私の地元・広島の英雄は誰かと問われたらただ一人、それは

毛利元就

ということになる。ここから先の私の毛利ラブワールドへ、是非ご一緒してみないだろうか?

元就が広島最強の人物というのは、私の中では揺るがない。深謀遠慮にして緻密、時に天運も味方につける「ラッキーボーイ」にして、小さな勢力から国一つに影響を与える程の大大名に一代にして毛利家を巨大にしてみせたまぎれもない戦国史に残る「レジェンド」の一人。関ヶ原の戦いの際、元就の孫輝元は敗れ長州へと移封されることとなり、以降毛利家は山口の主として認知されるようになり、今に至る。

そんな毛利家についての私のリスペクトはめちゃくちゃ強い。そのことについて、「名君」とは・・・なんてことを考えてみたいと思う。必ずしも名君とは、豪腕の持ち主ではないと思うのだ。

毛利家の立ち振る舞いは、拙著「虚弱体質の生存戦略」に書いてあるものをさらに発展させたような内容といっていい。それもそのはず、戦国時代は生きるか死ぬかの世界なわけだから、一つの家に生まれた以上、家族や民を守るためには個人的な世渡りの巧みさだけでは滅亡する。生きるために攻撃的な謀略を張り巡らせる様子が、大河ドラマでも再現された事があるのは周知だろう。

巨大になった毛利家は、ご存知の通りその後長州(山口県)のボスだ。よく幕末を語られるときに「薩長」とか言われるが、あれは大名家という存在よりも藩にスポットライトを当てられた時代だからこそのネーミングだと個人的には感じていて、私的には「島津家・毛利家」である。だから、「長州征伐」なんてのは私の頭の中では「毛利徳川戦役」なわけだ。ていうか、実際そうだ。少し話が逸れた。

幕末の動乱の時毛利家は台風の目だったといっても過言ではない。そんな時、藩主だった毛利敬親(たかちか)の墓にこの前行ってきた。というより、放浪していたらたまたま行き着いた。それで、色々調べていたら成程、元就から数百年経った毛利家にこんな名君が、と改めて気づかされたものだ。

毛利敬親は、大河ドラマ「花燃ゆ」で北大路欣也さんが演じていた。だから、大物感あふれる人物として描かれていた。だが、亡くなった時が53歳というから、実は老人としてのイメージはない。どちらかというと若い。この人は、「そうせい候」と呼ばれて、とりあえず全て家臣任せにしていたという人物らしい。いわゆる強いリーダーシップというのとはかけ離れたように思われる一方で、幕末の志士たちをたくさん輩出しているから優れているという声もある。かなり評価が分かれている。だが、これに関しては毛利家ラブの私が声を大にして言いたいことがある。

毛利敬親は紛れもない名君である。

ということだ。根拠を説明しよう。

まず、毛利家は元々広島の人間だ。山口に行ったのは前述した通り、そして皆さんもある程度ご存知の通り輝元が関ヶ原で負けたからというのがある。そのゴタゴタの中で、吉川広家という人が裏で動いていた。これも有名な話だ。吉川広家は、毛利家の存続のための根回しを徳川家康を相手に頑張っていた。徳川の敵にならない代わりに、毛利を存続させてくれ、というものだ。おそらく広家としては勝ち負けはどうでもよかった。彼もまた、評価が分かれる。毛利家を小さくしてしまったとか、西軍の負けを引き起こしたとかいう噂が立つ。だが、その後彼は自身の出世を拒んでも毛利家の存続を望んだ。毛利家を語る上で大事なキーワードは「家」だ。家を守るというのが、毛利元就の「根本」にある。だから、家を脅かす存在になっていた大内家・尼子家を滅ぼさなければならなかった。殺される前に殺さなければならなかった。さらに元就は、「天下を望まないように」という遺言を残している。とにかく元就は「家を存続させること」が一番大事な事だった。その視点で見れば、吉川広家は少なくとも家康と戦おうとした輝元に比べれば「元就の遺志を継ぐ者」だったと私は解釈する。

話を戻してみよう。毛利敬親だ。彼はいわゆる豪腕タイプではなく、人任せな藩主だったと言われる。実際、目立った行動は彼にはない。その配下の大村益次郎とか、桂小五郎とか、挙げればきりがないきら星のような面々の方が圧倒的に知名度がある。幕末の時代というのは、日本が生まれ変わった時代だ。だから、その骨組みを作ろうとした人達の方が当時は必要だった。だが、毛利家は存続した。あの先が見えない難しい時代にあって、家を潰すことなく明治時代を迎えた。藩祖である元就の遺志は「天下を望まず、家を残す」だ。家臣は天下どころか新国家を目指したが、敬親は長州藩主として、いや、毛利家当主として立派に仕事を果たしたとは思われないだろうか。評価する尺度、基準によって人の評価とはかなり変わってくる。

人としてはダメだけど職人としては最高っていう人、いませんか?

敬親は、「毛利家当主としては最高」の働きをした。私はそう思う。

往々にして名君は地味だ。存在感がない。

冒頭で、毛利元就を「戦国史のレジェンド」と称した。だが、その息子隆元にはスポットライトが当たりにくい。毛利隆元は自身でも偉大な父親に対する劣等感が常にあったということが書物にも記されている。だが、彼の内政能力は非常に高く、死後その存在の大きさがわかったといわれる。元就より早く亡くなったが、その後毛利家が存続していったことを考えれば隆元も名君だったといっていいだろう。元就にはたくさんの子供がいたが、隆元の弟の吉川元春(広家の父)、小早川隆景も非常にバランスの取れた武将たちで、およそあんなド田舎から生まれたとは想像しがたいが「全国レベル」の名将だ。愛を語りだしたら止まらない。もっというと、四男の穂井田元清という人物も味があるし、関ヶ原で広家に出陣を止められていた秀元も捨てきれない。毛利家には素敵な人たちがたくさんいる。もちろん家臣団も楽しいが、毛利家からは特に「ファミリー」としての強い結束が感じられるのである。これは複雑な家庭に生まれ育った私ならではの、「ファミリー」への憧れが産んだ記事といってもいいかもしれない。

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