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言葉の消費が言葉に重みを与える.

note毎日チャレンジに思うこと

note毎日チャレンジを始めて1週間以上が経ちました。正直かなりしんどいです笑 ネタはたくさんあるものの、やるからにはしっかりとしたコンテンツの質も求めてしまうので、時間の捻出が一番難しい。今日は少しライト目な内容でこれまでのnoteを自分自身で振り返りながらnoteに綴ることについて書いていきます。

今日は、言葉の消費についてです。

noteを大体4000字くらいで毎日収めているのですが、今日が毎日noteチャレンジを開始してから9投稿目なので、32,000字以上もの言葉を綴ってきました。もちろんnote以外にも会話等で言葉を使っているわけで、それをふまえるととてつもない言葉を日々扱っています。

表題にもあるように、言葉というのは不思議なもので、5歳がいう"ありがとう"と80歳がいう"ありがとう"は同じ5文字でも、重みに違いがあると感じることがあります。

皆さんもそのような経験はないでしょうか。

たまにある人が、会話の中で一言ズバッと言ったことに対して、その人が言うから価値がある、みたいなことでもあります。

非常にこの考え方自体が人間らしくて好きなのですが、人間には常に社会性がまとわりついているわけで、人間が人間たるべく営みというのはこういう違いを感じ取ることができることだと思うんですよね。

AIであれば、1億回でも1兆回でも同じ言葉を使っても、きっと重みは変わらないでしょう。

では、一体何がそうさせているのか。その真相について迫ってみたいと思います。

言葉を利用した回数と有限性

言葉の重みについて考えてみると、その背景として言葉を利用した"回数""有限性"にあるのかなと思いました。

それぞれの切り口について書いていきます。

言葉を利用する回数から重みについて考える

まず回数についてですけれども、これは冒頭でもあったように、たくさん使えば使うほど重みを増す感覚です。

なぜそう重みが積み重なっていくのかというと、同じ言葉を使ったとしても、そのシチュエーションやその言葉を使った時の背景が異なっており、そのバリエーションが増えれば増えるほど、言葉に重みが乗っかっていくのではないかなと考えます。

"ありがとう"という言葉についてわかりやすいのでまた例にあげます。

たとえば、仕事で全然うまくいかず、ある失敗した業務に対してクライアントが激怒をして、取引がなくなってしまったケースがあったとします。

もちろんその時には大変へこみますし、自信を失ったりするわけです。特に新人の頃ははじめてのことも多いので、うまくいかないケースが重なったり、辛い状況が続いたりしまく。

しかし、ある時いつも同じようなところでうまくいかなかったところで、つまづくことがなくスムーズに行ったとします。そしてクライアントはこう言いました。"ありがとう"と。ああ、有難いとはこういうことか。なんて気づくわけです。

それまで、親や学校の先生から、相手が何かしてもらったらありがとうっていうんだよ、と教えられた通りに使っていただけでしたが、始めてありがとうという言葉の素晴らしさに気づきます。

そのような経験があれば、次回以降は"ありがとう"という言葉の意味が変わってきます。面白いですよね。

これは一つの作り話ではありますが、たくさんのその言葉が出るときの場面に遭遇することによって、一つ一つの言葉の意味について理解が深まり、また個々人の人生にとって、その言葉にストーリーが宿ります。

こうして、言葉に重みが加わっていく、というわけです。

そして、ストーリーに遭遇するには、その後が一定の使用回数利用するという経験しなければなりません。最初の一言目の"ありがとう"で全てを悟ることはできないのです。

とはいえ、稀に数回しかその言葉を使っていないのに、衝撃的な体験をした、みたいなこともあると思います。身内に不幸があったりとか、衝撃的な成功体験があったとか、そういう時には稀にその後に重みが一気に乗っかる場合もあると思います。

ただその確率を上げるというよりは、とにかくたくさんの打席にたって、語に遭遇する絶対数を増やしていくことが言葉の重みにつながっていきます。

言葉の有限性から重みについて考える

続いて有限性について。

パッとみた感じだと、何を言っているのかわからないかもしれません。言葉に有限性なんてあるのか、と思うかもしれませんが、間違いなくあります。

なぜなら、人間には死が待っているからです。人間は死を迎えると言葉を紡ぐことができなくなります。

私たちは1日1日を過ごしていますが、過ごしている=死に近づいている、ということも言い換えることができます。では、そうなると以下のようにも言えますよね。

死に近づいている=言葉を紡ぐことができなくなる日が近づいている

こういうことです。

ちょうど今朝、落合陽一さんのブログを読んで、なんと美しい文字の羅列なのかと魅了されていましたし、まさにテーマとしては少し共通点もありました。

人生は積み減らしだと岡本太郎は言ったけれど,色々なものを積み減らしすぎて何が残っているのかよくわからない.今はお薬を飲んでも大して変わらない.生命への渇望がいる.デスソースは良い.直感でできる仕事はできる.記憶が長くは持続しない.写真を撮るのも失われつつある記憶への防衛本能みたいなものだろう.しかし,どんどん壊れていく精神と身体は心地が良い.昨日できたことができなくなることの心地よさは,何にも代え難い終わりへと近づいていっている証跡である.やがてアムロくんのお父さんみたいになって死ぬのではないかと思う直感がある.それもまた「ダサくない死に方をする」よりは「ダサくない」.老いは甘美であって完備でもある.ピントが合わない気難しいレンズを目指して社会的に孤立していくようなものだ.自己完結には近づいていく.遺作という響きは実に素晴らしい.毎日遺作をめざすだけで日々が過ぎていく,これは儲けものだと思う.
落合陽一さんのブログより

人間は大体1日に平均して1万5000~6000語を話しているという調査が出ています。

仮に、あと50年しか生きられないとしたら、2億7375万語しか話せないということになります。こうみると大きな数に見えますが、1日1万5千後無くなっていくわけですから、意外とすぐなくなってしまうのかなとも思えてきます。

となると、ちょっとずつ私たちに残されている語数は減っていくのであって、減れば減るほど、残りの言葉を大切に、そして一つ一つの語自体の価値は上がっていくのではないでしょうか。

確かに若いうちから大切にする必要あると思いますし、気持ちのもちような部分もありますが、やはり余命宣告をされて残りの命が限られた人が紡ぐ一言一言と健康に毎日を生きる人が紡ぐ一言一言には重みが異なるでしょう。

それは言葉の有限性から重みが変化していること、なのではないかと考えるわけです。

私は、この本を手に取った時に衝撃を受けたのですが、世の中から「あ」が消えてしまえば、「愛(あい)」が消えてしまう世界観を描いた本です。

少しこれまでの文脈とは離れますが、それだけ言葉というのは尊いものであり、神秘的なものであると認識せざるをおえないなと思いました。

noteに何を残すか

これらを踏まえて、自分自身がnoteに何を残すのか、を考えた時にそもそもnoteに想いを綴るということ自体が素敵な体験であるということです。

言葉は有限ではあるものの、人によっては1つの人生を全うする上で、言葉の総量を相対的に増やす、ということは可能です。

noteの毎日チャレンジは、毎日noteに思いの丈を綴るわけですから、何もしなかった時の自分よりも言葉の総量を増加させることができます。

言葉の総量が増加すれば、それだけ一つ一つの言葉に重みも変化する機会が増えていきます。

より一語一語に向き合って、言葉を理解しようと努力すれば、今まで見えなかった景色が見えるでしょう。


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