みなさん、こんにちは。
月に1本の更新を目指していましたが、先月の更新が難しく今のタイミングとなってしまいました。なので、今月は2本を投稿予定です。
さて、今日は表題にあるように「社会教育」「学校教育」「家庭教育」について考えていこうと思っています。
先月7月29日、30日と沖縄の本島へ以下のイベントを実施しにいきました。
沖縄、那覇市にある繁多川公民館にて開催され、参加者には社会教育士、PTA、小学校の校長先生、公民館スタッフなど教育に関わる様々なセクターの人がおり、沖縄という地域性や社会教育などを中心にあれこれ語り合うイベントとなりました。
そこでテーマとして個人的に考えさせられたのは「社会教育」の重要性です。これまで日本教育に関わる中で、私は主に「学校教育」の文脈で関わってきました。反対に言えば、「社会教育」や「家庭教育」にはなんとなく存在については認識しているものの、それが子どもたちへの影響としてどのように関わっているのかを考えたことはありませんでした。
しかしながら、繁多川公民館で子どもたちと遊んだり、触れ合う中で、彼らにとって公民館がかけがえのない"居場所"になっており、その居場所が生きる原動力になっているとでさえ思えるような温かい空間でした。
こうした背景から、社会教育、学校教育、家庭教育のそれぞれの意味や役割について知りたいと思い、本ブログにまとめるに至りました。
まず初めに、それぞれがどのように定義として違うのかを確認してみます。
社会教育、学校教育、そして家庭教育の定義
社会教育とは?
まず今回の本テーマである社会教育についての定義を確認します。
社会教育は、教育基本法の第7条にあたる部分になります。
上記の内容を見る限り、非常に広義な意味で社会教育について書かれているため、ひとまず学校教育と家庭教育についても確認していくことにします。
学校教育とは?
上記のような記載がある。この記載の中で印象的なのは、特に「学校」という言葉が使われていないところにあります。とはいえ、「組織的・計画的な教育の制度」と明記がされているため、これが学習指導要領などにあたる部分かとは思いますが、特有の場所などには囚われていないことが興味深い点でした。
ただ、イメージとしては、専門的な指導能力を要する「教師」が、組織的・計画的な教育の制度を有している「学校や学習指導要領に基づいたカリキュラム」を活用し、一生を通ずる人間形成の基礎として必要なものを共通に習得させ、個人の特性に応じて豊かな個性と社会性を発達する機関であるという印象で良いかなと思います。
なので、乱暴に言ってしまえば、普段私たちが想像する学校で学ぶこと=学校教育、と言っても大きくは間違っていないのかなと思います。
そして以下の文章は少し本ブログの主旨とは脱線しますが、上記の提言の続きも興味深かったので共有します。
長い文章でありますが、注目すべき点は、それぞれの提言が出された年です。例えば、"【中教審経過報告「教育内容等小委員会審議経過報告」S58.11】"この報告については、S58と記載されており、昭和58年の内容であることがわかります。1983年にあたり、今から40年前です。
40年前に書かれた提言ではありますが、今まさに強調されている内容とほとんど変わっていない点がかなり衝撃的です。
上の内容については、まさに「個別最適な学び」や「総合的な探究の時間」の学習指導要領に書かれている以下の文章にもかなり当てはまります。
この内容についてはまたの機会で取り上げたいと思います。
家庭教育とは?
上記のような定義となっています。
やや直接的な表現にはなっておらず、他の家庭教育に関する定義をみても、内閣府が出している明確な定義は見当たりませんでした。とはいえ、こちらもイメージ通り、家庭における教育についてのことであるといえます。また、上記を見るとわかるように、家庭教育は家庭だけの話ではなく、国及び地方公共団体の努力も重要であることが明記されています。
さて、ここまで見てきて、社会教育を表すならばざっとこんな感じではないでしょうか。
つまり、社会教育は、学校教育でもない、家庭教育でもない場所が社会教育です。非常に広範囲のことを指していることがわかります。
社会教育が果たす役割
さて、ここまではまず定義を見てきましたが、社会教育が果たす役割につい見ていきたいと思います。
そもそも社会教育とは具体的にどのようなものか、少し事例を見ていきます。
高知県の社会教育に関する資料が非常にわかりやすかったので、以下の資料からいくつか引用します。
公民館や図書館、博物館などを指します。
そして、これらの場所がどのような役割を果たすかというと、以下のような記載がありました。
以上のような意義があることについて高知県の資料では言及されています。
「人づくり」「地域づくり」「絆づくり」どれも非常に重要な項目ですね。
特に、「地域づくり」や「絆づくり」については、学校教育ではカバーできない点についてかと思っています。これは家庭教育にも通ずるところもありますが、少子高齢化等の日本社会の課題において、核家族化が進んでいったり、地域とのつながりが希薄になっていたりする現実があります。
今までは引っ越してきたら隣の住民に挨拶にいったりしますが、今は防犯的な意味合いでもほとんどそのようなことは見られなくなってしまいました。
こうした中で、上記にある公共施設は大きな役割を果たすポテンシャルがあると言っても過言ではありません。
一方で、"ポテンシャルがある"とあえて表現したのは、現状のこれらの公共施設において、本当にその役割を十分に果たせているかというと疑問点が残ります。
繁多川公民館で感じた私たちの「居場所」
沖縄でのイベント前、私たちイベントスタッフは、繁多川公民館プレーパークにて子どもたちのイベントにも参加してきました。
長縄をしたり、水鉄砲をしたり、竹馬をしたり、異学年がわいわい、ぎゃあぎゃあ楽しむ空間がそこにはありました。
みんなの顔は本当にイキイキとしていて、誰もが自分が主役かのように堂々と立ち振る舞っていました。大人にも気負うことなく、年下には先輩のように頼りになるような行動をしていたりして、非常に素敵な空間が繁多川公民館には広がっていました。
しかし、彼らに学校は楽しいか?と聞くと、
「楽しくない」とほとんど口を揃えて言っていました。
自分の中ではこれまで一所懸命に学校教育に携わってきた立場としては、半ばショックのようなものもありつつも、ここが彼らの居場所なんだ、と強く感じることがありました。
地元の小学校の校長先生にも後で聞くと、この公民館に来る子どもたちの中には、学校では別室登校をしている子がいる、とも言っていましたし、教育イベント中でも、私の息子はほとんど不登校だったのだが、音声通話で匿名で知り合った人と行ったこともない地に集まって旅行に行った、と言っている方もいました。
私たちには、心が休まる「居場所」が必要です。
それは別に学校でなくても良い。家でなくても良い。
それが社会教育の非常に大きな一つの役割なんだろうなと痛感しました。
一方で、私の実家の近くにある公民館は外から見ると本当に今もやっているのかと目を疑うほど老朽化が進んでいたり、実際にWebサイトを見ても、老人向けの囲碁教室やパソコン教室などが目立っており、うまくワークしているとは到底思えません。
おそらく日本にあるほとんどの公民館の実態はむしろ後者側にあるのではないかなと思っています。(厳密に調べたわけではありませんが)
これらを踏まえても、公民館や図書館など公共施設が私たちの生活を支える上では極めて大きな役割を発揮できる場所であることがわかります。
現代社会には、生きづらくなっている若者は多くいます。
核家族になり、親との関係も良くない、学校でも友達とうまくやっていけない、そんな若者はきっと少なくはありません。(これもまた別の機会に統計を見てみます)
こうした方達には、公共施設が一つの"居場所"となって、生き生きと過ごせる環境を提供することが必要だと感じました。
また、社会教育、学校教育、家庭教育のそれぞれがしっかりと連動しながら、居場所は1つでなく、複数の居場所が確保できる社会にしていかなければなりません。
その中で、私たちは皆で手を取り合いながら、互いに支え、支えられながら幸せに生きていく社会を作っていきたいものですね。