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依存なき自立は身を焦がす①

こんにちは!あいでんです!(最近、愛の伝道師を省略して「あいでん」というニックネームで呼んでいただく機会が多く、僕もそう話すことに慣れてきました(笑))

さて、以前僕は個人のイベントとして、「愛の伝道師プロジェクト第4弾」を実施しました。このイベントでは、「愛」の概念について、教育や子育ての様々な面から考えてみようという企画です。その企画を通して、学校の在り方や学校での指導の仕方、子育てについて、「私」が成長することについて、色々と皆様の考えを基に対話しています。

今回は、養育者が抱える「両義性」という概念についてみました。「両義性」とは、「人間存在が他者と共に生きていこうとするときに必ず経験するような様々な相容れない気持ちと気持ちの葛藤、あちら立てばこちら立たずの二律背反的な事態」のことです。

ここで「葛藤」とは書いていますが、この概念は別々の2つの概念が存在しているというわけではなく、ベン図でいうところの重なりの部分が「両義性」であるイメージを持っていただくとよいでしょう。

人間存在はまず、「誰かとつながりたい」という気持ちと「自分の思いを貫きたい」という2つの気持ちがあり、その気持ちと折り合いをつけながら生きていく存在です。欅坂46の歌に「アンビバレント」という歌があります。この歌にもまさに上のようなことを歌っている部分があります。

好きだと言うなら否定しない
嫌いと言われたって構わない
誰かの感情 気にしてもしょうがない
他人に何を 思われても
何を言われても聞く耳持たない
干渉なんかされたくない 興味がない

(中略)

あっちを立てる気もないし
こっちを立てる気だってまるでない
人間関係 面倒で及び腰
話を聞けば巻き込まれる
いいことなんか あるわけないじゃない
それでも誰かがいなけりゃダメなんだ

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まさにこの歌はこの「両義性」の内容を説明するために書かれた歌詞かと思うほどです!歌詞の中にも「好きだというなら…嫌いと言われたって…」とは書いていますが、中盤で、「人間関係面倒で…それでも誰かがいなけりゃダメなんだ」と言っています。人間存在は、自分の思いを貫きたいという気持ちが強すぎると、他者との軋轢を生んだり、社会の中での自分の価値に気付けず、自分存在の意義が問われます。

なら、「人とつながりたい」という気持ちを持てばよいのか?そうでもありません。皆様も経験ありませんか?誰かとつながることで、自分の存在が消えてしまう可能性に遭遇したこと。自分という感覚がなくなり、集団として見られてしまうという事です。「あなた」ではなく、「あなたが所属する集団」として評価されてしまいます。そうすると、本当はこうではないのに…と主張したい気持ちがありますが、集団のために自分を我慢するのです。

誰かとつながりたい気持ちは、それにより、自分の思いが主張できないというデメリットもあるのです。なら、自分の思いを貫けばいいのでは…となり、この2つで堂々巡りをして、決着がつきません。それでも、私たちは、生きています。なぜでしょうか?

そもそもこんな問いに決着つけることなんてできない!」のが結論です!人間存在は、先ほどの2つの気持ちに永遠と問い続け、その中で、自分が今置かれている状況と照らし合わせてベストな解答(と思われるもの)で行動するのです。まあ、解答という言い方もあれですが、そもそも「解答」なんてものはないのかもしれません。死ぬまで決着をつけることのできない問いに我々は生きながら挑んでいるのです。そのことは頭に入れておいてください。(なお専門用語でこれを「根源的両義性)といいます)

ただ、こうした両義性を我々はなぜ持つのでしょうか?

例えば、私が生き延びるために誰かとつながりたい!と思っているのでしょうか?生命維持のためには、どうしても他者の存在が必要だから、それもあるでしょう。現に、乳児は親の存在(あるいは親に代わる人間)に世話をしてもらわないとどうしようもできません。しかし、その後、自分で歩くこともできて、ある程度の会話ができて、一人で生活ができる段階になっても、なお、「つながりたい」という気持ちが消えないのはなぜでしょうか?それは、気持ちを共有したり、つながったりすることに対して喜びを抱いているからでしょう。

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私たちは、誰かとのつながりによって、表現できないほどの喜ばしい気持ちを感じることがあります。乳児が見せるかわいらしい笑顔は、親(特に母親)とつながれたことの嬉しさが表情として現れたからです。言葉をつかえるようになると、言葉でも表現するでしょう。それが、私たちが生きることで感じる喜びなのです!

その2つの思いを我々は克服することよりも、これをどう引き受けて生活しているのか一度皆様考えてみるのもよいのかもしれません。

「愛の伝道師」として「愛」について考えるとなったとき、なぜ皆様は(僕も含めて)興味や関心を抱いたのでしょう?それは、先ほど申したようにつながることのこの上ない喜びを知っているからこそ、より良いつながりが欲しいということで考えるのでしょう。”より良いつながり”。それは、量のつながりもあるでしょう。今よりも、たくさんの人とつながりたい!と。同時に、一つ一つのつながりを強固にしたい!という思いもあるでしょう。我々は、永遠不変のものは存在しないことを知っています。「行く川の流れは絶えずして しかも元の水にあらず」世の中は諸行無常ですからね。ただ、できるなら、永遠不変なものにしたいはず。付き合っているパートナーと未来永劫つながりたい!子どもとずっと一緒にいたい!そう思うでしょう。

永遠不変なものを自ら作りたいと思うからこそ、そのための方法として、あの人から「愛されたい」と思うはず…。しかし、そうではなく、私があの人を「いかに愛するか」が大事なのです。

少しずつ「依存なき自立は身を焦がす」の意味を明らかにしていきます。今回は人間存在がもつ両義性についてご理解ください。そこから、養育者が子どもを世話する時に抱く両義性についてお話ししていきます。

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