学習支援が付け焼き刃にしか思えない件

まず、九月入学について、友達がちょっとした議論する場を作ってくれた。感謝。その影響もあって、ぼーっと教育格差についてのテレビを見ていて、思ったことがあったから急いで書き残そうと思った。

えーと、まず、(忘れかけてる)、今回のコロナの問題で教育格差という言葉が世の中に溢れかえった。学校で負うはずの学力担保の責任が、家庭環境に委ねられて、格差が生まれている、というのがある一面での僕の認識。

確かにそれはかなり大きい問題だと思う。そしてこれに対する一つの対策として、挙げられていたのが夏休みや放課後の学習支援に教員を追加配置するという策。

個人的には、学習支援という言葉にはやはりすぐに引っかかってしまうようになってしまった、、、どこかのnoteでも書いたけど、その言葉だけで言い含めてしまうものが多すぎる。

僕が疑問に思ったのは、学習支援によって、得られるはずの学力がどの程度取り戻されるのか、ということ。
もっとぶっちゃけていうと、学習支援をかなり入念に、丁寧に行っていかなければ、付け焼き刃の学習支援では、学力を取り戻すなんてことは到底無理なのではないかということである。

それにはこういう理由がある。

まず学習には順序があると思ってる。別にこうすべきというわけじゃなくて、コロナ前はこういう風に学習してたよねって感じ。
どんな教科を想像してもらってもいいのだが、先生に習って、宿題で自分でやってみて、丸付けで確認するっていう順序。

もっと詳しくいうと、

①分野全体を体系的に習う(例 二次関数)
②それぞれ個別の問題を解く(例 頂点を求める問題)
③丸付け・解説で理解を深める(例 解いた問題の答えを見て確認)

おおかた、この順番で学習は進んでいくのではないだろうか。

それで!言いたいのは、学習支援と呼ばれるものは、(少なくとも自分の経験からは)②③についてのサポートしかできないということ。①はカバーすることがなかなかできない。

この点がまさに僕が学習支援の無力さを感じるところである。

もっと具体的に落とし込んでしまうと、学習支援の場では、生徒がわからないって言った問題を一緒に考えて教えてあげて、解説する。別にその分野全体を講義することもないし、できるほどの時間も技術もないことが多い。

このコロナ期の学習支援も同じように、無力なものになってしまうのではないか。まるで学習支援をすれば、学力は戻ってくると短絡的に考えてしまってはないか。それは自分の中の問いとして、心から離れない。

もちろん学習支援が事態を悪くするなんてことは1ミリも思ってない。でも、魔法の薬ではないことも確かだと思ってる。

限られた学習支援という場で、わからない問題を逐一教えてあげることは、傷口に最低限の応急処置をしているだけのものではないだろうか。

それでは、傷口はまたいつか開き始めてしまう。そして取り返しがつかないことになってしまうことも考えられる。担保されるべき学力を取り戻すということには、いったい何が必要なのかを改めて考えなければならない。

①を担当する学校の先生と、②③を補うスクールサポーターや追加配置される教員との連携も非常に大事になってくるだろう。
「学校の先生と放課後の先生は教え方が違う!頭がごちゃごちゃになる!」と思われたら支援になっていない。

その一方で、子どもの第三の居場所としての、学習支援の場の意義は大きいと感じる。

「どうやって勉強すればいいかわからない」
「勉強しても意味あるのかな」
「実は、、、先生には言いづらいけど、授業に全然ついていけなくなった」

こんな子どもたちの悩みを丁寧に丁寧に拾い上げる可能性があるのは、これもまた外部の人が関わる学習支援なのではないだろうか。そう見ると、意外とちゃんとおしゃべりの時間を作った方がいいのではないかと思えてくる。

結局、言いたいのは、

「学力を取り戻すための」学習支援ならば、それは一度立ち止まって、考えなければならないのではないか。

学習支援の場の意義は、学習という建前を持ちながらも、子どもたちの悩みを丁寧に拾い上げる場となりうることではないか。

この辺になってくるだろう。
付け焼き刃の学習支援にならないように切に願うし、何ができるのかを考えていきたい。


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