大統領選、二大政党を中心に見る米国政治史  

大統領選、二大政党を中心に見る米国政治史  2022年12月5日に掲載

 米国では2022年中間選挙が終わり2024年大統領選も実質的にスタートしている。2024年大統領選も2020年に引き続き「大混乱」となる予感がするが、ここで大統領選や二大政党を中心の米国政治史を建国時まで遡って振り返っておきたい。コロンブスまで遡っても500年ちょっとしかない米国の政治史である。
 
 このシリーズは2020年大統領選の直前に書いたものであるが、ほとんど変更は加えておらず、最後に2024年大統領選の「現時点における」ポイントを付け加えた。

その1  米国の建国史から

 もともと北米にはモンゴロイド系の先住民(いわゆる「インディアン」)が住んでいたが、国家としてのまとまりは全くなく、部族毎に農業や狩猟を中心に生活していた。全体的に文化水準は低く、資本の蓄積も産業の発達も強力な武器の調達もなく、次々と入り込んできた欧州人に簡単に支配されていった。

 最初に北米に(といってもカリブ海の小島だったが)到達した欧州人は、1492年にスペインのイザベル女王に派遣されたコロンブスである。その結果、北米にもスペイン人が最初に入り込んだ。スペインは1500年代に入ると現在のフロリダ、カリフォルニアとその周辺、テキサスの大半など広大な地域の領有を宣言するが、当時のスペインは中南米やカリブ海の領土拡大に積極的だったため、カリブ海に近いフロリダ以外はほとんど放置したままだった。

 ポルトガルと並んで海外の領地拡大に積極的だったスペイン(スペイン人)の目的は、新しい領地の資源など財産を奪い、原住民を労働力として確保すことだった。後に北米に本格進出した英国人の目的も、大半がこのスペイン人と同じだった。

 スペイン人の次にフランス人が北米に入り込む。ヴァロア朝のフランソワ1世(在位1515~1547年)の時代に探検家ジャック・カルティエが3度にわたりセントローレンス川流域を探検し、後にカナダのケベックを植民地とする。

 後に同じくフランス人探検家のラ・サールが1682年にメキシコ湾からミシシッピ川を遡りケベック植民地に至る広大な地域を探検し、当時のルイ14世が自分の名前を取ってルイジアナ植民地として領有を宣言する。現在のルイジアナ州はそのほんの一部である。当時のフランスはケベック植民地と合わせて北米最大の土地を領有していたことになるが、その目的は主にカトリックの布教と通商だったため、先住民との衝突も少なかった。というよりこれらの地域は先住民そのものも非常に少ない「空白地域」だった。

 後にルイ15世時代の1720年、巨額の負債を抱えたフランス実業家(というより詐欺師)のジョン・ローが、フランスが領有するミシシッピ川流域の開発貿易計画を株式会社化して株式を大々的に売り出し、有名な「ミシシッピ・バブル」を生み出してしまう。

 最初に北米に入った英国人は1607年に国王ジェームス1世の勅許を得て北米東岸を目指した商人のトマス・スミスで、現在のバージニアにやはり国王の名前から取ったジェームス・タウンという英国人最初の入植地(植民地)を作った。日本では徳川家康によって徳川幕府ができた直後である。つまり米国とは徳川幕府よりも後から出来上がったことになる。

 ここで入植したトマス・スミスの目的は、スペイン人がインカやアステカから徹底的に略奪したことと同じであった。ところが先住民をいくら脅しても何も得られず(要するに金銀財宝などどこにもなかった)、そのうち食料が尽きてしまった。

 そこでそれまで散々脅していた先住民から食料を分けてもらって生き延びる。そして先住民が栽培していたタバコに目をつけ、これまた先住民を強制的に働かせて大量に栽培し1614年には早くも英国に輸出する。これが英国人最初のバージニア植民地となる。

 一方で現在のマサチューセッツには、英国で迫害されていた清教徒(ピューリタン、プロテスタントの一派)が1620年に最初にメイフラワー号で漂着し、プリマス入植地となる。プリマスとは清教徒が出航した英国南西部の港町であり、現在もボストンの南東にある人口5万人ほどの町である。清教徒は原住民を脅したりはせず、餓死・凍死寸前となり原住民に助けられる。

 ところで現在のニューヨーク・マンハッタン島は、オランダ東インド会社に雇われていた英国人のヘンリー・ハドソンが、後年その名前がつけられるハドソン川と共に1609年に発見した。ここだけオランダ領のニュー・アムステルダムとなる。有名な25ドルで買い取ったという話はウソである。当時の欧州人はすべてタダで土地を奪っていたからであるが、そのマンハッタンも1664年に英国人に奪われる。オランダ人はマンハッタン島南端に防衛のための木製防護壁(Wall)を築いていたため、後にWall Streetと呼ばれるようになる。

 こうして当時の米国東岸には13の英国植民地(入植地)が出来上がった。北は現在のニューハンプシャーから南はジョージアまでの地域であるが、出来上がった時期は1607年のバージニアを最初に1732年のジョージアまで100年以上かかっている。その13の英国植民地は現在そのまま同名の州となっているが、当時の植民地は現在の州よりも小さい。そのすぐ西隣にあるフランス領(ルイジアナ植民地)や、1763年に英国領となったカナダにある同じフランス領(ケベック植民地)がはるかに広大であった。

 そして13の植民地も同じ英国領とはいえ、同じ国としての一体感などまるでなく、それぞれ独自の自治体制を敷いていた。後年、米国はさらに広大なフランス領、スペイン領、ロシア領(アラスカ)などを統合して新たな州(または準州)とするが、これらの州は旧宗主国まで違うため余計に同じ国としての一体感などなく、そのまま現在に至る。

その2 米国独立

 それではそのバラバラの13の英国植民地がどのように独立してアメリカ合衆国(以下、まとめて「米国」と書く)となっていくのか?

 英仏間で1756~63年に「七年戦争」があった。その「七年戦争」は当時の米国においても英仏政府の援助を受けて植民地間でも戦争となった。米国における英国植民地とフランス植民地は隣接していたからであるが、この米国における「七年戦争」を「フレンチ・インディアン戦争」とも呼ぶ。結果は英国の勝利となり、フランスは1763年のパリ条約で広大なルイジアナ植民地のうちミシシッピ川以東を英国に譲渡する。

 しかし英国政府も時の国王であるジョージ3世が新たに獲得したルイジアナ東部を国王直轄地とし、13の植民地からの入植を禁じる。さらに「七年戦争」あるいは「フレンチ・インディアン戦争」の戦費を取り戻そうと、米国の13の植民地に印紙法(すべての出版物に課税する)や茶法(英国東インド会社の紅茶しか販売を認めない)を押し付けた。

 そして13の植民地が英国からの独立を求めた米国独立戦争(1775~83年)となる。この戦争は13の英国植民地がフランス、スペイン、オランダ、プロイセンなどと共に英国本国と戦った「れっきとした国際戦争」である。英国以外の国が参戦した理由は、もちろん米国で新たな利権を獲得するためだった。

 そして戦争開始直後の1776年に13の植民地がまとまって一方的に独立を宣言し、1783年のパリ条約で(フランスからミシシッピ川以東のルイジアナ植民地を譲渡させた1763年のパリ条約とは違う)英国も正式に米国の独立を認める。

 英国は、時のフレデリック・ノース首相が米国内の植民地がまとまって1つの独立国を維持できるとは考えず(そう考えても不思議ではない)簡単に米国独立を認めてしまった。

 しかし独立した米国は、共に戦ったフランスなどに何の「お返し」もしていない(できなかった)。とくに1783年のパリ条約で何も得られなかったフランスではルイ16世は完全に国民の支持を失い、フランス革命(1789年)の原因ともなる。

 米国が独立を求めて各州(元植民地)の上に連邦政府を作った理由は、元植民地の集合体では国際社会においては国家としての存在感がなく、また外交や軍事や予算なども連邦政府が一括して掌握すべきと考えたからである。現在でも議会、軍隊、警察、裁判所などは連邦政府にも各州政府にもあり、州知事の権限は大きい。

 連邦政府は1787年に米国憲法を制定する。それには連邦議会は二院制と規定され、二院のうち一院は世論に敏感な人民の院(下院)として、もう一院は各州を代表する院(上院)とされた。現在でも下院議員は人口を反映して選出されるが、上院は当初から(現在も)各州2名と決められている。また各州を代表する上院議員は、1913年に米国憲法修正第17条が追加されるまで、有権者による投票ではなく州議会が選出していた。

 独立した米国の元首である初代大統領は、1789年4月30日にジョージ・ワシントンが選ばれた。ワシントンは政党に属しておらず、無競争で大統領を2期(8年)勤め上げた。米大統領選は各州で選ばれた選挙人による間接選挙であり、各州に割り当てられる選挙人の数は各州の上院議員(2名)と下院議員(人口を反映)の合計とする現在の仕組みは、1788年12月15日~1789年1月10日に実施された最初の大統領選の際に決められた。最初の大統領選は無競争だったが、無選挙だったわけではない。

 その最初の大統領選における選挙人総数は71名だった。選挙人総数は1959年にハワイが加わり50州となった後の1964年以降は現在まで538名であるが、その各州の割り当てはたびたび変更されている。

その3  自由州と奴隷州

 独立した米国でも、13州のうち南部の州は農業中心のプランテーション経済である。とくに集約的な労働力を必要とする綿花を欧州に輸出していたため、黒人奴隷の労働が必要であった。

 一方で北部の州では工業化が進み、新たな流動的労働力が必要となり移民を広く募ったが、奴隷制度とは相入れなかった。清教徒が多かったこともあるが、独立直後の米国は奴隷制を認めない自由州と奴隷制に依存する奴隷州に分かれて対立を深めていく。

 独立直後の1780年における13州の人口は、白人(ほとんどが英国人)が2205万人、黒人(ほぼすべてが奴隷)が575万人だった。黒人はバージニア州の228万人をはじめ南部のメリーランド、ノースカロライナ、サウスカロライナの各州に集中していたが、自由州である北部の州にも数万人ずついた。

 とりあえずこの段階では、独立した米国の中では自由州と奴隷州の均衡が辛うじて保たれていた。しかし米国が領土を拡大していく中で、間もなく対立が深刻化していく。連邦議会(上下院)の議員数に直接影響し、米国政治のイニシアティブを左右するからである。

 1803年に米国は、度重なる戦争で財政難に陥ったフランスのナポレオン1世から残った(ミシシッピ川以西の)ルイジアナ植民地を1500万ドル(現金1125万ドルと当時の借金375万ドルの帳消し)で買収する。これが「ルイジアナ買収」であるが、1763年のパリ条約で譲渡されていたミシシッピ川以東を除いても現在のアイオワ、アーカンソー、オクラホマ、カンサス、サウスダコタ、コロラド、テキサス、ニューメキシコ、ネブラスカ、ノースダコタ、ミズーリ、ミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングの15州にまたがる。この広大な土地が米国領となり、そのまま各州となっていく。

 ここで当時の1500万ドルとは、どれくらいの現在価値なのか? この1803年は金本位制がスタートする1817年の少し前であるが、その金本位制は金1オンス=4.247ポンド=20.67ドル=41.443円で第二次世界大戦前まで固定されていた。直近の金価格は1オンス=1760ドルなので、当時の1500万ドルは現在の12億8000万ドル(1800億円)ほどとなる(2022年11月18日現在)。2021年9月に電通が売却した汐留本社ビルの3000億円より安い。

 ちなみにこの資金はオランダのホープ商会と英国のベアリング家が、米国政府が発行する国債を割り引いて用立てている。

 それに続くテキサスとカリフォルニアの併合はもう少し複雑である。

 1821年にスペインから独立したメキシコ合衆国(以下、「メキシコ」と書くが、現在のメキシコとは別の国である)は、スペインが領有していたフロリダ、カリフォルニアとその周辺、テキサスの大半をそのまま引き継ぐ。つまり当時のメキシコは現在の米国内に広大な土地を領有していた。

 そのメキシコが領有していたテキサス(スペイン語ではテハス)には、ルイジアナ植民地が米国領となったため移動しやすくなった米国人が多数入植していた。そのテキサスの米国人入植者がメキシコと戦ったテキサス独立戦争(1835~36年)を経て、テキサス共和国として独立する。もともと米国人入植者の国であるが、米国連邦議会はテキサス共和国の独立を承認したものの米国との併合は拒否する。奴隷州だったテキサスを州として併合すれば、辛うじて保っていた自由州と奴隷州の均衡(すなわち連邦議会のバランス)が崩れるからである。最終的にテキサスは1845年に米国に併合される

 その時点において米国はメキシコとの国境をリオグランデ川以北としていたが、メキシコはそれより北にあるヌエセス川以南としており、両国の間に意見の相違があった。米国連邦議会は1846年5月に国境衝突を理由にメキシコに宣戦布告し戦闘状態となる。トランプが現在もメキシコとの国境にこだわる理由は、こんなところにもあるのかも知れない。

 その直後の1846年6月にカリフォルニア共和国がメキシコから独立する。ここでカリフォルニアといっても現在のカリフォルニアだけではなく、周辺のネバダ、ユタ、アリゾナ北部、ワイオミング南部を含む広大な土地である。この広大な土地は1848年2月に米国領となるが、ここでもカリフォルニアが自由州なのか奴隷州なのかで揉めることになる。

 最終的にカリフォルニアは1850年に自由州として米国最初の西海岸の州として併合される。またネバダ、ユタも準州として同様に併合される。ここでも米国はメキシコに1825万ドル(現金を1500万ドル、325万ドルの貸し付けの相殺)を支払っている。実はカリフォルニアが米国領となった1848年2月には、すでに大金鉱が発見されゴールドラッシュが始まっていたからである。またカリフォルニアでは豊富な油田も次々と発見されていく。

 もう1つのスペイン領(つまりメキシコ領)だったフロリダはどうしたのかというと、まず「七年戦争(米国ではフレンチ・インディアン戦争)」でフランスと共に戦ったスペインが英国に敗れたため、1763年のパリ条約でフロリダはいったん英国領となる。しかしその後の米国独立戦争でスペインは米国側について勝利したため、1783年のパリ条約でスペイン領に戻されていた。

 そして米国の独立後は、南部のプランテーションが急拡大したため隣接するフロリダを併合したいとの声が強くなる。そして1819年に500万ドルでスペインから買収し1845年に州となり米国に併合される。もちろん奴隷州である。

 1回目はここまでである。全体的に記載してある年代が、大変新しいことに気づかれたと思う。米国が独立した1776年とは、日本でいうと江戸時代も半ばを過ぎた10代将軍・徳川家治の時代である。しかしそこからわずか77年後の1853年にはペリーが来航する。

その4  独立時の米国政治

 1776年に英国から独立した米国は、東岸の13の植民地がそのまま合衆国を構成する州に昇格している。米国は独立前のフレンチ・インディアン戦争で勝利し、1763年のパリ条約で広大なフランスのルイジアナ植民地の東半分(ミシシッピ川以東)を米国領としていたが、まだ人口が少なく州に昇格した地域はなかった。

 そこでもう一度、独立時まで遡って米国政治史を振り返ってみる。現在の大統領選における混乱の芽が、その頃に形成されているからである。まず独立時の中心人物で、後に初代米国大統領となるジョージ・ワシントンを正確に理解しておかなければならない。

 ジョージ・ワシントンは1732年に13の植民地では最大のバージニア植民地で生まれた。今風に言うと英国からの移民2世で、母親は英国ブランタジネット朝の国王・エドワード3世の末裔らしい。

 ジョージ・ワシントンが生まれた頃のワシントン家は、中流のプランテーションを経営しており、当然のように黒人奴隷を使用していた。ジョージ・ワシントンは当主となるとプランテーションの規模を拡大し、1754年にはバージニア市民軍の大佐となる。当時の植民地はすべて市民軍(つまり民兵組織)が自衛していた。最大の敵は西隣のフランス領で、その中心は現在のオハイオであった。フランス領のルイジアナ植民地の東半分が米国領となるのはフレンチ・インディアン戦争後の1763年のことである。

 そのフレンチ・インディアン戦争(1756~1763年)においても、軍人としてのジョージ・ワシントンの功績は凡庸で、1758年には早くも除隊してバージニアの農園主および地元政治家として16年間を過ごす。その間に大農園主の未亡人と結婚してバージニアでは上流階級の仲間入りをする。もちろん100人以上の黒人奴隷を使用していた。

 ところが1775年に米国独立戦争が始まると、そのジョージ・ワシントンは推薦されて植民地軍全体の総司令官となる。軍人としての実績より、最大規模のバージニア植民地で「顔役」となっていたからである。

 13の植民地は独立戦争開始直後の1776年に一方的に独立を宣言し、首都をフィラデルフィアとする。ワシントン率いる植民地軍はアメリカ合衆国軍(以下、米国軍)となるが、何とその緒戦のロングアイランドの戦いで英国軍に大敗し、1779年には首都・フィラデルフィアまで英国軍に占領され米国軍はニュージャージーまで撤退を余儀なくされる。

 この米国独立戦争には米国軍にフランスやプロイセンなどが加勢していた。そのおかげでワシントン率いる米国軍は徐々に英国軍に対して優勢となるが、余裕が出たワシントンは原住民(インディアン)に対する徹底的な攻撃と絶滅を命令している。また「姿こそ違え、インディアンは狼と同様の猛獣である」とまで言い放っている。

 1781年に英国軍が降伏するが、ワシントン率いる米国軍は英国軍と9回戦って3回しか勝っていない。米国独立は英国軍と戦ったフランスやプロイセンなど「反英国連合軍」のおかげであるが、米国政府は何の「お礼」もしていない。それどころかワシントンはこれら「反英国連合軍」の士官への給料遅配分まで踏み倒してしまった。

 いずれにしても1783年のパリ条約で正式に米国独立が承認されるが、この時点における米国とは米国東海岸に沿った13の旧英国植民地だけであった。フランスの広大なルイジアナ植民地の東半分(ミシシップ川以東、五大湖を含む現在の米国のほぼ東半分)は米国領となっていたが、その(もっと広大な)西半部はまだフランス領で、フロリダ、カリフォルニアとその周辺、テキサスはスペイン領だった。

 1783年11月に英国軍が最後まで占領していたマンハッタン島を開放したところで、ワシントンは米国軍総司令官を辞任する。その時、部下に別れを告げた場所がマンハッタン島南端にあるフランシス・タバーンで、独立前の1762年に完成した現存する米国最古の建物である。現在は博物館となり併設されるレストランは今も営業中である。本誌も訪れたことがあるが(味はお勧めできない)、当時の情景に思いをはせることができた。日本の歴史は米国の何倍もあるが、同様の感覚を日本で味わうことはなかなか難しい。大政奉還のあった二条城の大広間でお茶が飲めるわけではない。日本人が日本の歴史をもっと身近に感じるための機会は作られるべきと感じる。

 話を戻すが、ジョージ・ワシントンの最大の「功績」は、独立後の米国で独裁的な権力を保持できたにも関わらずそうしなかったところである。ワシントンは米国民の平等を最優先とする国家体制を作り上げた。しかしここでいう米国民とはあくまでも白人それも旧英国人の上流社会人のことで、黒人奴隷やインディアンなどはその存在すら気にされていなかった。また同じ欧州人でもスペイン人や、北部に移民労働者として押し寄せていたドイツ人、アイルランド人、スコットランド人、イタリア人、東欧人なども低く見られていた。

 つまりワシントンが掲げた米国民それも旧英国人の上流社会だけに対する平等な国家体制が現在まで維持され、そこから現在まで米国の人口構成が大きく変わっている中でもこの体制が「頑なに」維持されているため、様々な軋轢が発生することになる。

 その「頑なに」維持されている体制の最たるものが、1789年1月10日まで実施されたに最初の大統領選挙の仕組みである。当時の交通事情から各州で選挙人団を選ぶ現行の間接選挙方式となったが、確かに有権者全員の意向を反映する形になっている。有権者が(白人それも旧英国人の上流社会の男性だけであるが)直接的に国家元首を選出する形は、当時の世界でも画期的なものだった。その米大統領選の仕組みは、選挙人団も含めて現在まで「ほとんど変わらず」継続されている。

 当時の英国でも国会議員は直接選挙で選ばれていたが、その中から国王が首相を選ぶ方式で国家元首はあくまでも国王であった。神聖ローマ帝国(のちのドイツ)は諸侯による選挙で国王を選んでいたが、一般国民は参加できなかった。またフランスのルイ・ナポレオンは第二共和政の1848年に選挙で大統領に選ばれていたが、1852年のクーデターで国王(ナポレオン3世)として即位している。そして1870年の普仏戦争でプロイセンの捕虜となり退位を余儀なくされ、フランス最後の帝政も終了となる。

その5  米国大統領選と「二大政党」の歴史

 最初の米大統領選は、結果的にジョージ・ワシントンが無競争(対立候補なし)で米国初代大統領となるが、選挙人方式による大統領選は行われた。対立候補がいなかったが無選挙だったわけではない。

 その1789年の最初の大統領選は、選挙人団の選出方法は各州に任された。全13州のうち10州のみで選挙人団を選ぶ投票が行われ、そのうち有権者の投票で選挙人団が選ばれた州は5州だけだった。結果的に選ばれた71名の選挙人がすべてワシントンに投票し、ワシントンは史上唯一の選挙人獲得率100%で大統領に選ばれた。

 ここで問題は「選挙人団の選出方法は各州(正確には州議会)に任された」という部分で、憲法にはそうとしか規定されていない。つまり「有権者による投票で選挙人団を選ぶ」とは規定されていない。今でも選挙によらず各州(州議会)が選挙人団を勝手に選べることになっており、実際に有権者の選挙で選挙人を選んでいる州はほとんどない、

 大統領選には憲法上の不備がもう1つあり、半分くらいの州では選挙人団は選挙人投票で(大統領選の約1か月後)あらかじめ誓約した大統領・副大統領候補に投票する義務がない。実際に2016年の大統領選挙では、トランプにもヒラリーにも造反が若干名出ている。
州によっては造反した選挙人を差し替えたり、造反者に罰金(1000ドル)を課したりしているが、依然として半分くらいの州では造反を禁止しておらず、造反票もそのままカウントされる。連邦最高裁は造反した選挙人を差し替えて罰金を課すことは「合憲」と判断しているだけで、造反そのもの(正確には造反を禁止しない州政府の判断)を「違憲」とはしていない。

 これらの大統領選の不備が最近、深刻な問題なっている。大統領選に限らず連邦上下院選、知事選、州上下院選などすべての選挙は各州の権限で行われ、その選挙方法や集計方法などは各州によって微妙に違っている。そこで争いが発生すると訴訟は州裁判所に持ち込まれ、連邦裁判所は各州の判断が憲法違反かどうかを判断するだけで、個別の選挙結果については判断しない。つまり国政選挙である大統領選や連邦議会選も、実施方法や選挙結果の決定権限はすべて各州政府(正確には州知事と州務長官)にあり、これらのポストも各州政府が規定する選挙で選ばれる。つまり連邦政府、連邦議会、さらには大統領でも、大統領選や連邦議会選に直接関与できない。

 話を初代大統領のジョージ・ワシントンの時代に戻す。ワシントンは(対立候補のいなかった)大統領選前に副大統領にジョン・アダムスを指名し、大統領就任後に国務長官にトマス・ジェファーソン、財務長官にアレクサンダー・ハミルトンを指名した。

 ワシントン自身はどの政党にも属しておらず、また米国政府の主要メンバーが党に分かれ、米国の政策が党の意向に左右されることを嫌った。しかし間もなく米国の政治には対立する2つの政党が現れることになる。

初代大統領のワシントンは1792年の大統領選で再選された。この大統領選は東部13州に新たに州となったケンタッキー州とバーモンド州を加えて15州・135人の選挙人団で争われた。ここでも無競争だったが無選挙だったわけではない。

 ワシントンの任期は1789年4月20日~1797年3月4日となったが、3選を辞退したため(1799年に死去)長く米国大統領の任期は慣習的に2期までとなる。実際には3選(連続しているとは限らない)を求めた第18代大統領のユリシーズ・グラントや第26代大統領のセオドア・ルーズベルトのような例がないわけではないが、いずれも3期目は大統領候補に指名されなかった。そして4選のフランクリン・ルーズベルトの死後、1947年に米国憲法修正第22条で正式に「3選禁止」となる。

 ところが大統領を2期務めた後、その後の大統領の副大統領となることは禁じられていない。そこで大統領に「もしも」があると、その副大統領が繰り上がって通算3期目となってしまう。このように米国大統領を巡る憲法規定には、驚くほど不備が多い。

 話を戻すが、ワシントンの在任中に早くも政党が出来上がっていた。当時の2大政党とはワシントン政権の副大統領だったジョン・アダムス(そのまま第2代大統領)と、同じく財務長官だったアレクサンダー・ハミルトンを中心とする連邦党と、トマス・ジェファーソン(第3代大統領)とジエームス・マジソン(第4代大統領)を中心とする民主共和党である。

 両党の基本的な考え方は、連邦政府が各州政府に権限を委譲する連邦主義を支持する連邦党に対し、民主共和党はより各州の権利を主張するものであったが、基本的に大きな違いはない。単なる勢力争いの旗頭となっただけである。

 また初代副大統領のジョン・アダムスは北部のマサチューセッツ植民地の出身であるため、南部のバージニア植民地出身のワシントンが南北の地域バランスを重視したことになる。

 ここで初代財務長官のアレクサンダー・ハミルトンは国立銀行を創設するが、出自が貧しいことに加えて不倫疑惑や不正利得疑惑があり大統領にはなれなかった。ハミルトンは1800年の大統領選で同じ連邦党の第2代ジョン・アダムス大統領を追い落とそうとして、結果的にライバルである民主共和党のトマス・ジェファーソン大統領を誕生させてしまった。ちなみにハミルトンは1804年に何と決闘で命を落としている。

 ここでそのハミルトンが創設した国立銀行について簡単に触れておく。独立直後の米国には統一通貨がなく、旧宗主国である英国のポンドなど欧州通貨や、旧植民地から各州がバラバラに発行した通貨(らしきもの)や公債(らしきもの)が混在して流通するなど、およそ先進的な金融システムではなかった。

 そこでハミルトンは米国の国際的信用を安定させ回復させるには国立銀行の創設が必要と考えていた。そして1791年2月に米国議会は最初の国立銀行である第一合衆国銀行を首都のフィラデルフィアに設立する。20年の時限立法だったため、1816年に第二合衆国銀行が設立される。

 これら国立銀行の役割は、旧植民地時代から各州がバラバラに発行した通貨や公債を米国政府が買い取り、同時に合衆国通貨を発行して通貨を統一し、連邦物品税を徴収して連邦政府の財源とするなどで(合衆国通貨がただの紙切れではなく財政的裏付けを与えるため)、

金融システムを整備して米国政府の国際的信用を安定させ向上させることだった。米国の中央銀行となるFRBの設立は1913年であるが、FRBは国立銀行ではなく純粋の民間銀行(すべてユダヤ系)である。

 ハミルトンは米国も財政規律を守り、経済と物価を安定させ、通貨の価値を維持するためにできるだけ早く金本位制を採用しようと考えていた。先述のようにハミルトンは1804年に決闘で死亡しているが、間違いなく米国金融制度、ひいては将来基軸通貨となるドルの「生みの親」である。10ドル紙幣の肖像に使われている。

 ここで歴史的にはあまり有名ではないが1812~1815年に米英戦争が起こる。これは米国が、英国とその植民地のカナダとの間で、五大湖周辺など米国各地の「インディアン領地を争った」不思議な戦争である。当然に米国も英国もインディアンによる代理戦争となる。結果はほとんどのインディアンが全滅寸前となり、米国自身はほとんど戦わず広大なインディアン領土を手に入れたが、ひそかに狙っていたカナダ領土の獲得はならなかった。

 当時の2大政党のうち連邦党は第2代ジョン・アダムス大統領を輩出しただけで1824年に解散する。一方の民主共和党も第3代大統領のトマス・ジェファーソン、第4代のジェームズ・マディソン、第5代のジェームズ・モンローと続くが、対立していた連邦党が解散していたため一党独裁となり、お決まりの仲間割れを引き起こす。

 1824年の大統領選では何と同じ民主国民党から4人も大統領本選に立候補し、当然にどの候補も選挙人の過半数を獲得できなかったため、史上最初で(今のところ)唯一の下院議員による投票となる。その結果、ジョン・クィンシー・アダムス(第2代ジョン・アダムスの息子)が選出され第6代大統領となるが、民主共和党の分裂は決定的となる。

 ちなみにこの制度は今も有効で、米大統領選には再投票(決戦投票)がない。実際の仕組みは大統領を下院議員が、副大統領を上院議員が別々に選ぶため、大統領と副大統領の政党が違うこともあり得る。

 話を戻すが1828年の大統領選では、先述の米英戦争で活躍したアンドリュー・ジャクソンが第7代大統領となり、これが現在まで続く民主党の正式なスタートとなる。民主党は第8代のマーティン・ヴァン・ビューレンが続き、最初の英国人がルーツではない(オランダ系)大統領となる。

 一方で連邦党は解散していたが、その流れを引き継ぐ(党としては別組織)ホイッグ党のウイリアム・ハリソンが、1840年の選挙で現職のヴァン・ビューレンを大差で下してホイッグ党最初の大統領となる。しかし68歳と高齢だったハリソンは就任後わずか1か月で病死し、任期を全うできなかった最初の大統領となる。後任は副大統領だったジョン・タイラーで、これも副大統領から昇格した最初の大統領となる。

 さて現在の共和党は、この連邦党、ホイッグ等を引き継ぎ(党としてはこれも別組織)1854年に創設される。その現在の二大政党が最初に激突し、リンカーンが共和党最初の大統領に選出された1860年の大統領選挙となるが、その背景は共和党、民主党の基本政策も含めて詳しい説明がいる。

 ここからは次回であるが、ポイントは二大政党の(とくに民主党の)基本政策や支持基盤が当時から大きく変わっているところである。例えば当時の民主党は奴隷制を支持し、共和党は奴隷制の廃止を求めて南北戦争(1861~65年)となる。実際の背景はもう少し複雑であるが、現在の民主党はその黒人などマイノリティーを重要な支持基盤としている。

その6 1860年の大統領選

 エイブラハム・リンカーン(1809~65年)は米国の第16代大統領(任期は1861年3月4日~65年4月15日)で、米国史上「最も偉大な大統領」との評価が多い。その理由は「奴隷を解放したから」と教科書に出てくるが、決して人道的な立場だけで奴隷を解放したわけではない。

 リンカーンは当時未開の地だったケンタッキー州の丸太小屋で生まれた。原住民に殺害された祖父はバージニア州から移ってきたため、英国移民3世となる。また母親ナンシーの旧姓はハンクスで、俳優のトム・ハンクスはその末裔である。

 リンカーン家は貧困で、自由州(奴隷制を認めていない州)のインディアナ州、次いでイリノイ州に移転する。奴隷州は大規模なプランテーション農家が経済も政治も牛耳っていたため、少しでもチャンスが残る自由州に移転した。イリノイ州でリンカーンは苦学して弁護士資格を取り、やがて弁護士として頭角を現す。また1836年からイリノイ州の下院議員(ホイッグ党)を4期・8年間、さらに1846年から1期・2年間務める。ホイッグ党は共和党の前身とも言える政党で、当時から民主党と対立していた。

 1850年代まで南部の州では奴隷制は合法であったが、イリノイなど北部の州では違法としていた。当時の中央政界の最大論点は米国各地で領土が拡大して新たな州がアメリカ合衆国(以下「米国」)に加わると、それが自由州なのか奴隷州なのかということであった。各州から連邦上院議員が2名ずつ選出され(1913年までは有権者の投票ではなく州議会が選出していた)、人口に比例して下院議員が有権者の投票で選出されるため、連邦議会の多数派が自由州と奴隷州のバランスで決まるからである。
 
 1854年に成立したカンサス・ネブラスカ法は、新たに州に昇格する地域は自由州であるか奴隷州であるかを有権者の投票で選ぶというものである。一連の争いでホイッグ党は解散に追い込まれたが、リンカーンは奴隷制度廃止を前面にホイッグ党の残党と民主党から分離独立した北部の自由土地党などを集め、同じ1854年に共和党を結成する。

 つまり当時最大の政治論点は連邦政府の主導権を自由州が握るか奴隷州が握るかであり、必ずしも伝統的な民主党と新興の共和党のイデオロギーが対立したものではない。共和党は米国北部各州(旧英国植民地だけでなく五大湖畔を含む旧フランス領ルイジアナ植民地の東半分を合わせた広大な地域の北部)それに西海岸を合わせた自由州を地盤として奴隷制に反対し、民主党は米国南部(旧スペイン領のフロリダとテキサスを含む)を地盤として奴隷制に賛成していた。現在の共和党と民主党の勢力基盤と「ほとんど」正反対である。

 1860年の大統領選においてリンカーンは新興の共和党の大統領候補に選出される。また分裂した民主党も、本流の南部民主党は第15代ブキャナン大統領の副大統領だったジョン・ブレンキンリッジ、消滅の危機にある北部民主党もスティーブン・ダグラス、そして振興の立憲連合党のジョン・ベルの4候補が大統領本選に進む。

 この時点ではカンサス・ネブラスカ法は成立していたが、自由州と奴隷州の主導権争いは全く決着していなかった。しかし人道的な見地から奴隷制の是非が議論されていた形跡はない。また最終的に奴隷を解放したリンカーンも初代大統領のワシントンも、インディアンは容赦なく消滅させるべきと考えていた。インディアンは黒人奴隷と違い労働力にならない野蛮な存在だったからである。

 1860年の大統領選時は米中西部の空白地帯を除き33州・303名の選挙人で争われた。リンカーンが北部18州(選挙人180人)を獲得し、南部11州(選挙人72名)を獲得した南部民主党のブレンキンリッジを大差で下して大統領となる。しかしリンカーンは南部で1州も獲得できず、また大統領候補者として登録もできていなかった州も多く、あくまでも人口の多い(選挙人数が多い)米国北部を地盤としていたことが勝因となる。

当時も選挙人数は各州2名の上院議員と人口に比例した下院議員の合計だったが、リンカーンが獲得した北部の選挙人は、NY州の35人(現在の選挙人は29人)、ペンシルベニア州の27人(同20名)、オハイオ州の23人(18名)、イリノイ州の13人(20人)、カリオリニア州の4人(55人)などで、ブレンキンリッジの獲得した南部の選挙人は、ノースカロライナ州の10人(15人)、ジョージア州の10人(16人)、フロリダ州の3人(29人)、テキサス州の4人(38人)などで、現在の選挙人数とかなり違う。

それでも当時は北部の自由州と南部の奴隷州の勢力がもっと接近していたはずであるが、 その説明は少し後に出てくる。

 そして必然的に1860年の大統領選直後から南部各州が米国から脱退する動きが続く。まず同年12月にサウスカロライナ州が米国から脱退し、フロリダ州、ミシシッピ州、アラバマ州、ジョージア州、テキサス州が続く。これら6州は独自憲法を採択し、アメリカ連合国(南部連合)として「独立」を宣言し、ジェファーソン・デイビスを暫定大統領に指名する。

 1860年の大統領に当選したリンカーンはワシントンに向けて出発するが、暗殺の危険性があり軍隊の戒厳下に置かれた。そして1861年4月12日に南部軍がサウスカロライナ州のサムスター要塞(南部にあるが米国政府の軍事施設だった)を攻撃し、南北戦争が始まる。

 開戦後、南部連合にバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州が加わる。また当初は旧ルイジアナ植民地の中心だったルイジアナ州も南部連合に加わり合計11州となったが、ルイジアナ州は間もなく北部連合(米国軍)に降伏して脱落している。南部連合の首都はバージニア州・リッチモンドとなったが、1791年に米国の(北部連合の)首都となったメリーランド州・ワシントンから160キロしか離れていなかった。

 しかし当初から奴隷州でありながらメリーランド州、デラウエア州、バージニア州から分離したウエストバージニア州、ケンタッキー州、ミズーリ州は南部連合に加わらなかった。これらの州は奴隷制度維持を掲げたまま所属は北部連合(米国政府)という中途半端な位置づけとなる。先ほどの1860年の大統領選でリンカーンが圧勝できた理由は、奴隷州か必ずしも1つにまとまっていなかったからで、この状態のまま南北戦争に突入していたため、南部は数的に不利のままとなる。

実際に南北戦争を戦った北部連合の人口2900万人に対して南部連合は黒人奴隷の500万人を加えて900万人しかいなかった。厳密にいえば南北戦争は自由州と奴隷州が戦った戦争ではなく、奴隷解放をめぐる戦争でもなかった。それでもリンカーンは南北戦争中の1862年9月に奴隷解放を宣言している。

 またリンカーンは直接戦闘に参加することはなかったが米国軍の(北部連合軍の)最高司令官となる。現在も米国大統領はすべての米軍の最高司令官であるが、その最初がリンカーンである。初代大統領のワシントンは独立戦争の総司令官を辞任した後に大統領となっている。

 南北戦争は当然のように数的に有利な北部連合軍(米国軍)が優勢となる。そして南北戦争中の1864年にも大統領選が行われ、リンカーンはタカ派民主党とも選挙協力して大統領候補となり、まだ北部にいた民主党のジョージ・マクレランを大差で下して再選される。南北戦争中の南部各州は当然に大統領選に参加せず、選挙人数は234名まで減っていた。

 ここでリンカーンと選挙協力したタカ派民主党のアンドリュー・ジョンソンが副大統領となるが、リンカーンは共和党である。つまりリンカーンの2期目はその後も例のない大統領と副大統領の政党が違う政権となるが、そこからさらに大きな問題が出てくる。

 1865年3月4日に2期目の大統領に就任したリンカーンは、その直後の4月14日に知人を誘ってホワイトハウス近くのフォード劇場で観劇していた。そして劇場の高い位置にある特別席にいるところを南部連合シンパの俳優であるジョン・ブースに至近距離から銃撃され翌15日に死亡する。暗殺された史上初の米国大統領となってしまった。

 後任には副大統領のアンドリュー・ジョンソンが昇格するが、このジョンソンは民主党である。そしてこのジョンソンもウイリアム・スワード国務長官も襲撃リストに入っていたが、リンカーンと行動を共にしていなかったため命拾いしている。

ブースの目的はリンカーンなど米国(北部連合)の主要人物を殺害して南部連合の戦況を好転させることで、後年のケネディ暗殺とは違い特別な陰謀とは関係がなさそうである。ブースは同年4月26日に取り囲んだ騎兵隊に射殺される。共犯とされた8名が捕らえられ軍法会議で全員有罪となり、うち4名が絞首刑となった。その中に米国連邦政府によって最初に処刑された女性となるメアリー・サラットがいた。サラットについては2010年に映画化されている(「声をかくす人」、監督はロバート・レッドフィード)。当時から軍人ではないサラットが軍法会議で裁かれたなど、やや疑念が残る裁判ではあった。

 このリンカーン殺害時にはまだ南北戦争は終結していなかったが、南部連合はすでに崩壊寸前で、まもなく停戦となる。しかし後任となったアンドリュー・ジョンソンは当然のように共和党からも民主党からも不人気で、1868年に弾劾裁判にかけられ上院の評決がわずか1票差で罷免を免れている。ジョンソンは次の1868年の大統領選にも出馬できたが、民主党の指名を受けられず失職している。1868年の大統領選は南北戦争の英雄であるユリシーズ・グランドが共和党から出馬し当選している。

 同じように命拾いしたスワード国務長官は1867年にロシアからアラスカを720万ドルで購入して散々批判されたが、その後のアラスカから豊富な天然資源が発見され米国の国富に大いに貢献している。こうして考えると米国領土の大半はフランス、スペイン、メキシコ、ロシアから購入していたことになる。またリンカーンが暗殺されたフォード劇場は、今も当時とほとんど変わらない姿で営業しており、ここでも当時の情景に思いをはせることができる。

 しかし南北戦争後の米国は大統領こそ米国史上で最も不人気なアンドリュー・ジョンソンで政治的に紛糾することが多かったが、初めて正式な統一国家となり奴隷制度も1865年の合衆国修正憲法13条で正式に廃止された。また中西部にあった広大な空白地帯も次々と州に昇格して現在の米国がすべて埋まり、後にアラスカとハワイが加わって50州となる。しかし南部各州で黒人の参政権が認められたのは1960年代に公民権運動が盛んになり、1965年に投票権法が成立してからである。しかし有権者登録が必要となり大多数の黒人にとってハードルが高く、今でも(とくに南部の)黒人投票率は低いままである。

 いずれにしても米国はここで初めて国家統一を成し遂げ、いよいよ世界の強国として国際政治の表舞台に本格進出していく。時は1865年、明治維新(1868年)、ドイツ帝国統一(1871年)とほぼ同時期である。

 ここで南北戦争前の1853年に、ペリー大佐率いる米海軍東インド艦隊の4隻が浦賀に来航する。蒸気船(外輪船)は2隻だけ、残る2隻は帆船だった。また黒く塗装されていたが鋼鉄製ではなく木造船だった。日本史では「黒船は鎖国を終わらせ、徳川幕府を倒し、明治新政府ができるきっかけとなった」と教えるが、これもあまり正確ではない。ここは別の機会に詳しく書くが、当時の弱小米海軍が欧州列強に対抗して「精一杯」の背伸びをして、クリミア戦争の合間を縫って「抜け駆け」してきただけである。

その7  本来の民主党と共和党の基本政策と支持基盤がどのように変遷していったか?

 ここからは本来の民主党と共和党の基本政策や支持基盤がどのように変遷し、来る2024年大統領選においてどこが重要なポイントとなるかを考えてみたい。

 民主党は1828年に第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンの支持者によって設立された世界最古の政党であるが、その原型は米国独立直後からあった民主共和党である。当時は国民生活への関与は最小限として、自由貿易、奴隷制を支持する政党だった。もともと南部の大規模プランテーション経営者が支持基盤であるため、奴隷を輸入するためには三角貿易を拡大させるため自由貿易を推進していた。共和党が創設されると米国北部の民主党は衰退し、南北戦争時の民主党は南部連合を代表する政党となる。

 一方で共和党は、1854年にカンサス・ネブラスカ法に反対する勢力によって設立されたが、やはり米国独立直後からあった連邦党、ホイッグ党の流れを踏襲している(党としては別組織)。もともと北部の軽工業経営者や労働者が支持基盤だったため、産業保護のため保護貿易を推進し、清教徒が多かったこともあり奴隷を必要とせず、奴隷制度に反対だった。南北戦争時の共和党は北部連合(つまり米国政府)の政党となる。

 現在の民主党と共和党はその大半の政策も支持基盤(地域)も「ほとんど正反対」となっている。とりわけ奴隷制度を推進していた民主党が、今はその黒人などマイノリティを支持基盤にとりこみ、さらにもともと共和党の支持基盤だった東北部の比較的低所得の白人層も取り込んでいる。

 1500年代に米国東海岸に渡ってきた英国人は、北部のマサチューセッツに渡った清教徒(プロテスタント)と、南部のバージニアに渡った「ならず者」に分けられる。この「ならず者」とは、スペインがインカやアンデスに対したような徹底的な略奪が目的だった。この略奪者たちが英国人ばかりだったかは今となればわからないが、カトリックだったことは間違いない。こういう略奪者には必ずイエズス会(これもカトリック)の宣教師が同行していた。

 歴代大統領は大半がプロテスタントで、カトリックは第35代のジョン・F・ケネディと現任のバイデンの2人しかいない。つまり「ならず者」が信仰するカトリックの米大統領は2人しかいない。そのうちの1人であるケネディの父親はマフィアと組み(マフィアは敬虔なカトリックである)禁酒法時代の密造ビジネスで富を築く。禁酒法とは正式名をボルステッド法といい、アルコール分0.5%以上の酒の製造、販売、輸入などを禁ずる法律で1917~33年に存続していた。飲酒そのものまで禁止されていたわけではないが、かえってマフィアの収益源となる。

 2020年の大統領選では、カトリックで本人が「ならず者」の末裔かどうかはわからない民主党のバイデンが、現職のプロテスタント(カルヴァン派)で酒を飲まない共和党のトランプを破っている。

 現在の民主党と共和党の最大の違いは、軍産複合体に近いかどうかである。戦後の軍産複合体は民主党にも共和党にも接近していたが、2000年以降は共和党のブッシュ(息子)政権時に軍産複合体・ハリバートン社長のディック・チェイニーが副大統領となるなど軍産複合体そのものがホワイトハウスに乗り込んでいた。ところがその次のオバマ政権は世界各国で戦闘を拡大させて軍産複合体に急激に接近する。オバマ自身よりヒラリーが軍産複合体に近く、バイデン現政権で軍産複合体に最も近く外交を取り仕切るブリンケン国務長官はヒラリーがリクルートしている。

 オバマ退任後の2016年の大統領選は、不動産業者で軍産複合体と何の関係もなかったトランプがヒラリーを大逆転で破り大統領となる。トランプは在任中にミサイルを一度しか発射せず(就任直後に訪米中の習近平に自身の指導力を強調したくてシリアに向けて約50発のミサイルを発射させたが、事前通告しており重要施設も外していた)、アフガンスタンや欧州から兵力を引き揚げる。つまりトランプ在任中に軍産複合体は干上がっていたことになる。

 だいたい第二次世界大戦中も含めて戦後の米国には、軍産複合体に「近くなかった」大統領の方が稀で、J・F・ケネディとこのトランプしかいない。ケネディはキューバ危機を未然に防ぎ、ベトナム戦争の本格開戦も回避したため暗殺され、軍産複合体を干上がらせたトランプは再選されなかった。

 そもそも民主党は南北戦争で敗れた南部連合の政党だった。南北戦争に敗れて南部連合が米国に吸収されたため、先述のアンドリュー・ジョンソン後の1868年の大統領選に当選したユリシーズ・グラントから1928年に当選したハーバート・フーヴァーまでの13人の大統領の中に民主党の大統領は2人しかいない。

 つまりこの間の民主党は、それなりに「冬の時代」だったことになる。またこの間の2人の大統領とはスティーブン・クリーブランドとウッドロウ・ウイルソンであるが、とくにウイルソンは1919年のクリスマス休暇中にユダヤ系銀行の出資でFRBを強引に設立させるなど、問題が多く評判も悪かった。

 民主党は1932年の大統領選に当選したフランクリン・ルーズベルトの時代になってようやく共和党と民主党の勢力が拮抗する二大政党となる勢いを取り戻し、基本的に現在に至る。

 フランクリン・ルーズベルトは不況時にポピュリズム(バラまき型)の経済政策で人口が急増する黒人にヒスマニックの支持をとりつけ、公約に反して1941年に日本との太平洋戦争を開始する。そのために真珠湾で「日本軍に騙し討ちされた」とのシナリオが必要だったわけである。一方で政権内にハリー・デクスター・ホワイトら多数のコミンテルン・スパイの暗躍を許し、終戦間際のヤルタ会談ではロシア(スターリン)に大きな譲歩をするなど、狡猾ではあるが優秀だったとはいえない大統領である。

 フランリン・ルーズベルトが4期目の途中で病死したため、風大統領から昇格したトルーマンが自身の再選をかけて戦った1948年の大統領選から直近の2020年の大統領選まで19回の大統領選挙の勝敗は、共和党10勝、民主党9勝利で、確かに拮抗している。

 ここでオバマと現職のバイデンの民主党政権は、先述のように軍産複合体に急接近しただけでなく、黒人やヒスパニッに支持層を広げ(だから移民を排除せず)、さらに本来は共和党の地盤である比較的低所得の白人労働者層まで取り込み(ここは2016年の大統領選でトランプに切り崩されてヒラリーが敗れた、さらにバイデンは共産主義勢力まで取り込んだ。

 またバイデン一読は以前から中国共産党から経済的恩恵を受けているが、直近では軍産複合体との関係維持のために中国やロシアを挑発して戦闘を長期化させようとしている。また本来は共和党の地盤である金融界や産業界(とくにITなど新興企業)にも「既得権益を守る政策で」支持地盤を拡大させている。先日破綻したFTXも民主党に巨額献金していた。

 つまりとくにオバマ以降の民主党は「あまりにも無節操にいろんな勢力に接近しすぎていたため」そろそろ整合が取れなくなっている上に、バイデンもそろそろ限界に来ているが2024年の大統領選に向けて有力な後継候補が全くいないため、またバイデンを「担ぐ」しかない。

 この辺が2024年の大統領選における民主党と共和党の「2大政党」の違いを中心に見たポイントである。

2022年12月5日に掲載