異世界夜話
「どんなものにも、好きなところと嫌いなところがあると思うの」
だしぬけに。静かな湖畔に彼女の澄んだ声が響いた。
俺は焚き火の灯を頼りに本を読んでいたところだった。行商人から安値で買った本だが、これが中々に面白い――内容は、地球という架空の世界からこの世界に転生してきたニンゲンの冒険活劇だ。
「というと?」
返事を待っているようだったので、本を閉じて彼女にそう聞き返した。
「例えば。この星空」
星空を見上げる彼女の横顔はとてもきれいだ。
月のような金髪に、星のような碧眼。見ていて吸い込まれそうな、神秘的な横顔だった。
恐ろしいまでに美しく、美しいほどに恐ろしかった。
「私、外に出るまで星空がこんなに美しいものだなんて知らなかった」
同じように、俺も星空を見上げる。
何ということはない。いつも通りの夜だった。
「俺にはもう慣れ親しんだ風景だがなぁ」
「ロマンがないのね」
「もうそういう歳じゃない」
「あら、まだまだお子様よ?」
「うるさい……じゃあ、嫌いなところは?」
俺がそう聞くと、彼女は空を見上げるのをやめ、やれやれといった風にこう言った。
「キャンプをしなきゃ見られないところ。汚いし、寝苦しいし、虫もいるし。サイアクね」
吐き捨てるような台詞だ。たまには宿を取れと、言外に訴えられているのだろうか。裕福な旅ではないので、出来る限り節約したいのだが。
「砂地や岩山じゃないだけましだと思え」
「生意気」
「…まあ、汚さも寝苦しさも虫も、慣れてしまえば悪くないさ」
「何千年経ってもこれだけは慣れる気はしないわ」
「……じゃあ、他は? 星空以外に」
このまま話が続くと不利な状況に追い込まれそうだったので、ここで軌道を修正しようと彼女にそう聞いてみた。
「え? うーん。じゃあ、ドワーフ」
「ドワーフ」
思いがけない答えだ。
「真面目で働き者よねぇ。どんなに面倒な仕事も、文句ひとつ言わずに黙々とこなしちゃう」
そういえば、今日会った行商人はドワーフだったな。彼は国から国へと渡り歩き、物を売ったり仕入れたりして生計を立てているらしい。
旅ならいいが、仕事でそれはごめんだな。
「でも、真面目過ぎるのよね。遊んでてもほんっとつまんない。テクもないし」
テクとは。
「……そうか。他には?」
興味が出てきたので、もう少し聞いてみることにした。
「えー? うーん。じゃあ、オーク」
「オーク」
「欲望に忠実な人は好きよ。体力もあるし。でも、欲に真っ直ぐすぎて全然相手を見てないわ。テクもないし」
だからテクとは。
「……そうか。というかこれ、好きなところ嫌いなところというより、性格診断のような気がするな」
「うるさい。どっちも同じようなもんでしょう」
俺のコメントはどうやら嫌いなところに入るようだった。
「………じゃあ、サキュバスは?」
「……え?」
「サキュバス」
どんな話が聞けるものかと柄にもなくわくわくしながら待っていたのだが、先ほどとは打って変わって、彼女は静かに目を閉じ思案し始めた。
風と、水と、火の音だけが辺りを支配する。
俺が肌寒さに身震いするのと彼女が口を開くのとは、ほとんど同時だった。
「サキュバスは……男のどんな欲望だって叶えることが出来る。容姿も、声も、具合も、思いのままに変えることが出来るの」
「………」
「でも……いや、だから、私達サキュバスには「自分」というものがない。失われていく、と言ってもいい。「自分」が無いサキュバスには「自由」がない」
軽い気持ちで、聞いたつもりだった。が、迂闊だったかもしれない。俺は「そうか」とだけ短く言うと、下を向きまた本を開いた。先ほどまであれだけ面白かった本が、今はどこか味気なく感じられた。
静寂がまた、辺りを支配した。
「ちなみに、ニンゲンはね」
だしぬけに。静かな湖畔に彼女の澄んだ声が響いた。
驚いて顔を上げると、彼女からいたずらっぽい笑みが返ってきた。
「あちこち連れ回してくたくたにさせるところとか、ふかふかのベッドで寝たいのにこんなテントで寝させるところとか、焚き火の灯で本を読むと目を悪くするからやめなさいっていっつも言ってるのに聞かないところとか、無精ひげを剃らないところとか、最近全っ然私を抱いてくれないところとか」
楽しそうな、満面の笑みだった。
「が、だーい嫌い」
はしたなく大口で……せっかくの美人画台無しだ。
俺はそっぽを向いて「そうですか」とだけ短く返した。そうして本を閉じて立ち上がり、テントの中へと入ろうとする前に、一つだけ聞いた。
「………じゃあ、好きなところは?」
彼女の方は振り向かずに。見ずともどんな表情をしているか大体察しがつく。
「そういう可愛いところ」
背後で、ころころと鈴の音のような笑い声がした。
「くだらねぇな。寝るぞ」
ため息をつきながらテントの中へと入り、寝袋に包まった。
明日中に次の国へとたどり着きたい。こんなくだらない話で夜を更かしている場合ではないのだ。
「ねえ、あなたはないの?私の好きなところと、嫌いなところ」
いつの間にか隣に寝ていた彼女が、わざとらしい猫なで声でそう聞いてきた。うっとおしいので背を向けるが、彼女はなおも「ねえ? ねえ?」と俺の答えを催促する。
完全に遊ばれている。
そう思った俺は、俺の頬をいじくり回している小さな手を取り、勢いそのまま彼女に向き直った。
まつげの長い目をしっかり見据えながら、はっきりと言う。
「お前のそういうところだよ」
ふっと。灯が消えた。
テントの中は真っ暗になり、彼女の息遣いと体温だけが感じられる。
彼女の表情が見られなかったのはとても残念だったが、俺の表情を見られなかったのは少しだけ助かった。
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