見出し画像

勇気をもって自分を語る

「勇気をもって自分を語る」
 というような文言を、時々見ることがある。

 noteだけでなく、その他のWebサイト、ブログ、書籍……あらゆる媒体で「勇気」をもって語られた文章が様々綴られている。

 壮絶ないじめ体験や、虐待、差別、性被害………

 読んでいて思わず目を背けたくなるような文章も、その中には沢山ある。
 そんな経験を、あるいはトラウマを、それでも書こうというのは、勇気がなければ出来ないことだと思う。


 時々、僕も(上にあげたものと同列に語っていいものかとは思うけれど)このnoteでエッセイを書く。
 日常であったことや、それを通じて自分が思い、考えたことを、稚拙ながら文章として書き起こしている。

 僕には、誰かに壮絶に傷つけられたり、どうしようもない挫折を感じたような過去はない。
 と思う。
 僕の心がそう感じていないだけで、僕の記憶がそれを覚えていないだけで、僕の身体にはそういった過去がもしかしたら刻まれているかもしれない。が、今のところ気持ちにも記憶にも覚えがないので、そう言っておく。

 けれど、今僕が生きづらさを感じていることは、きっと間違いない。

 生活はお世辞にも成り立っているとは言えない。ちょっとした借金だってある。これは過去のエッセイにも書いたことだけれど。
 同期や後輩、なんなら弟だって、もう立派に社会に出てお金を稼いでいる。
 片や僕は、休学し、名ばかりの学生を続け、バイトに明け暮れながら日々お金にならない文章をnoteにアップロードしている。

 客観的に見て――これは「夢」に向かって頑張っている人を非難する意味では決してないけれど――恥ずべきことだと思う。

 そんな自分を文章に起こして語ること。普通の人なら語りたくないと思うかもしれないことを語ること。
 果たして僕にとってこれは「勇気」だろうか。

 と、ふと思うことがある。


 先ほど「僕には、壮絶に傷つけられたり、挫折を感じたような過去はない」なんて言ったけれど、とはいえ流石に僕も四半世紀は生きているのでそれなりに様々なことを経験している。
 きっと僕の抱える「生きづらさ」の一因となっているようなこともいくつか思い当たるし、それは聞く人が聞けば「ああ、大変だったんだね」「辛かったんだね」と僕の肩に手を置き、もしかしたら涙を流して、僕にそう語りかけてくるかもしれない。

 その中には、僕がまだ誰にも、どこにも語っていないことが沢山ある。
 じゃあ、それらを語らないのは「勇気」が出ないからか。と自問すると、僕は「そうではない」と自答する。
 ただ単に「タイミングでない」からそれを語らないのだ。と、僕は思う。少なくとも、それが妥当だと思う。

 劇作家などというのは難儀なもので(僕が「劇作家」について語るなぞおこがましいが、ご容赦願いたい)、劇作を続ける内に自分の経験や気持ちを――普通は隠したくなるようなそれらを語ることに、抵抗がなくなっていく。
 出来上がった脚本はあくまで脚本であり、登場人物は間違いなく架空であり、しかしそのどこかには必ず作家、つまり「自分」が潜んでいる。
 11月に上演した旗揚げ公演『どうせ誰もみていないのに』にも、多分に僕の経験、気持ち、大きく言うと人生が元になった設定や台詞が含まれている。
 この話をしだすとそれで1記事になってしまうので、これぐらいにして。あ、気になる方は上記リンクで上演台本を販売しておりますので、是非ご購入を。(ダイマ)

 そんなことも影響して(いるかどうか半々だけれど)、僕は自分を語ることに「勇気」を出したことは、まだ一度もない。これくらいなら「勇気」を出すまでもない、と思っているのかもしれない。


 話は少しそれるけれど。


『ダルちゃん』という漫画がある。

 社会に馴染めない「ダルダル星人」としての本性を隠し、「働く24歳女性」に「擬態」し日々懸命に生きるダルちゃんの話だ。
 周りから、親兄弟からも「普通じゃない」と見放され、周囲から浮かないよう「普通」を装って、日々孤独に生きる丸山成美の話だ。

 ダルちゃんは物語の途中で「詩」と、やがて恋人となるヒロセと、運命的な出会いを果たす。ダルちゃんにとって初めて自分の孤独と生きづらさに真っ直ぐに向き合ってくれた男性がヒロセだった。
 その二つの出会いが、ダルちゃんを「詩作」という道に進ませる。

 ダルちゃんはヒロセとの心の交流を元にいくつもの詩を書いた。時にそれは読んだ者の心の奥底にすっと刺さり、感動を呼び起こした。
 しかし、ヒロセはそうではなかった。ヒロセには、自分と彼女と、二人だけの想い出を他人に語られることが、その詩と、詩を書いているダルちゃんがどんなに美しいかわかっていても、耐えられなかった。

 何がいけない、誰が悪い、という話ではなくて。
 語ることに耐えられる人間とそうでない人間がいただけだ。

 ダルちゃんの詩は「勇気」だっただろうか。
 詩作と自分語りでは全然違うじゃないかとも思う。詩はあくまでフィクションだ。けれど、ダルちゃんが感じていた孤独と、ヒロセとの間にある愛で出来ている。だからヒロセはそれに耐えられなかったのだ。

 ダルちゃんとヒロセが、その後どういう決断をしたか…という点は、実際に本を購入し読んでもらうとして。


 人には、そう簡単には明かせられない心の内、その一線があるように思う。
 そして「勇気」とはその一線を踏み越えることだと思う。踏み越えてなお、文章で、言葉で、もしくはそれ以外で、自分の心の内を明かすのだと、明かさねばならぬと前進することだと思う。
 その一歩には大きな「恐怖」が付きまとう。「恐怖」をわが物とした時に、初めて「勇気」を持つことが出来る。(とは、僕の大好きな『ジョジョの奇妙な冒険』から)

 僕には、その一線がない。自分を語ることの「恐怖」を知らない。
 「恐怖」を感じないように無意識になんらかのブレーキをかけているだけかもしれない。「恐怖」を自覚していないだけかもしれない。
 ここでそれらを書けばただの露悪趣味になるから、僕の語られざる心の内を明かすようなことはしないけれど。逆に言えばそれだけだ。
 それが許される環境であれば(どういう環境か想像はつかないが)、昨日のTV番組の話をするように、するすると語ると思う。

 かといって、完全な自暴自棄かと問われると、それもまた違うように思う。
 いつだって、僕は誰かに何かを、時として自分でも上手く言語化出来ない何かを伝えようと文章を書いているし、そうありたいと願う。


 10人いれば、10人の痛みがある。100人いれば100人の孤独がある。
 痛みも孤独も、人と比べるようなものでは決してない。けれど、どうしても比べてしまうのが人間だ。と思う。
 この程度のことで「勇気」だなんだと言えるものか、と脳内に巣食う批判者の声がこだまする。

 いつものように、答えの出ない問いが身体中を駆け巡る。それどころか、いったい自分が何を問うているのかさえ見失うばかりだ。柔らかい霧の中で、探しているのかもわからない道を探しているようだ。

 ただ一つハッキリしていることは。
 その問いこそが、また今日も文字を綴るよう僕を突き動かすということだけ。


【サムネイル画像】
acworksさんによる写真ACからの写真

「おー、面白いじゃねーか。一杯奢ってやるよ」 くらいのテンションでサポート頂ければ飛び上がって喜びます。 いつか何かの形で皆様にお返しします。 願わくは、文章で。