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【人口世界一:その2】『藩』という統治の仕組み

今回は江戸時代の日本全体の統治の方法を纏めています。


江戸の時代の統治法『幕藩体制』

江戸時代の日本の領土は『藩』という単位でまとめられていました。藩とは、大名が支配する日本独自のコミュニティーであり、その大名とは「一万石以上の土地の支配権を将軍から委託された者」と定義されています。

江戸時代には日本全国に大小200以上の藩があり、藩ごとに自治が行われていました。数の推移を見ると江戸初期には220あまりだった藩も、幕末には260超にまで増えています。つまりその数だけ大名がいて、コミュニティーがあったということになります。

『幕藩体制』とは、幕府の下で各藩が領地を治める仕組みですが、ここでの重要なポイントは、それぞれの藩の独立性が高かったということです。江戸時代の中央政府である幕府は全てを取り仕切っていた訳ではなく、地方政府である各藩にほとんどの民政を任せ、あまり干渉することがなかったと言われています。幕府は藩ごとの自治を許容する代わりに参勤交代制で藩主の江戸参府を義務付けました。(参勤交代については、後の項で説明しています。)

現代の中央集権型システムとは大きく異なるこの幕藩体制の仕組みによって藩の地域色が強く現れるようになると共に、藩内部の連帯感が強められ、その土地特有の藩気質というものが形成されるに至ったそうです。


明治維新で消えた藩

明治維新政府は中央集権化を推し進めるために藩という数百年も続いた日本のコミュニティーを僅か10年前後で県という概念へと移行させました。「廃藩置県」によって数百あった藩は複雑な経緯を経て「三府七十二県」に整理され、川や山などの線を基準として括られることになります。最終的には今の「一都一道二府四十三県」に落ち着きました。

今は一つの県にくくられている地域も、江戸時代に遡れば異なるいくつかの藩に別れていたケースが殆どです。そのため北と南、東と西など、地域ごとに気質かなり異なる県もあるようです。


かつて「藩」は一つの独立国家だった

上述の通り江戸時代の各藩は、藩主が独裁に近い政治を行なっていました。藩は今で言う独立国家のような存在に近かったようです。もちろん幕府には何かあれば藩を取り潰すほどの力はありましたが、大名の反乱や一揆など藩政の混乱でもない限りは、多くの自治権を藩に与えていました。

教育も自由で、各藩が藩校や寺子屋、私塾などを作って独自の教育を行ないました。年貢の徴収も産業の統制も藩の意思で行なっていたようです。さらには領内で起こった事件の裁判についても、各藩で独自の制度を作り、これを実施することができたようです。

ちなみに藩とは、江戸幕府崩壊後に使われるようになった言葉のようです。江戸時代に大名領を表す言葉といえば「国」「国々」「諸国」などで、大名は「国主」であり、その大名が治める領地は「自国」、隣の領地は「隣国」、自分の領地以外は「他国」のように使われていました。

さらに、江戸時代に「家中」といえば大名の家臣の集団を示し、家臣を統率していたのは「家老」、大名領(つまり藩)で作られた法律は「家法」といい、藩とはまさしく自立した小さな国家であり、一つの家という意識が強かったのかもしれません。


藩の力をコントロールする『参勤交代制度』

幕府は江戸と自領を行き来させる参勤交代制度を導入することで、各大名を統制すると共に、藩の力が増大しすぎないようにバランス調整を図っていました。また、諸国の大名に力を付けすぎないように公共事業の掘り起こしなどで藩の財力を浪費させるよう促しました。

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この手法には大きな副次的要素もあり、諸国の大名が参勤交代で長旅をすることで東海道や中仙道が活性化すると共に、地方と中央の文化と情報の交流が活性化されました。

藩の独立性は幕府が制定した「公事裁許定」の次の規定からも読み取ることができます。

「国持の面々、家中ならびに町人・百姓目安の事、その国主仕置次第たるべき事」

つまり国持大名は家臣や領内の町人・農民らが罪を犯した場合、その訴訟の全てを思い通りに執り行うことができるという意味です。各大名はそれぞれに自治権が与えられ、幕府にいちいちお伺いを立てなくても多くの事を藩の意思で執行できたことが伺えます。

裁判については領内の裁判を幕府に持ち込むことは禁止され、藩同士の争いについても藩内で解決することが奨励されていたほどでした。これは今でいえばアメリカの連邦制にも近い概念だと思います。アメリカは各州によって法律が違う上、消費税率も各州の判断に委ねられています。江戸時代の藩もこれに近しいところがあったようです。


薩摩藩の例

江戸時代の日本には数百もの小さな国家が集まっていたましたが、藩の大小、風土、徳川家との関わり方、農村と武士層との関わりなどによって様々な特色が生まれました。『藩民性』という視点で見ればやはり石高の多い有力な藩ほどその土地特有のお国柄や様々な文化が生まれやすいという特徴がありそうです。

例えば独立性で際立っているのが「薩摩藩」です。今の鹿児島県に当たる地域にあった薩摩藩は島津家を藩主とする大藩で、百万石の加賀前田家に次ぐ石高がありました。徳川家と融和策をとった前田家に対し、島津家は関ヶ原以来徳川家を敵対視していたことは有名です。

薩摩藩は徳川家に徹底対抗すべく、江戸時代に入ってもなお戦時と同様の体制をとり続け、外部の侵入者を排除するために100を超える外城を領内に設けていたそうです。また多くの藩が藩士(武士)を城下町に住まわして藩を統治していた中、薩摩藩は藩士を各地に点々と居住させ領内の守備力を上げていました。他国の人間が無断で侵入すれば直ちに追放・殺害されてしまったようで、言ってみれば二重鎖国のような体制を敷いていたようです。


強固なヒエラルキー型支配体制

江戸時代最大の藩といえば「加賀百万石」で知られる加賀藩でした。前田利家によって開かれた加賀藩は、関ヶ原の戦いのあとで百万石の雄藩となり、江戸時代を通してそのトップの地位を維持していました。

藩主である前田家は強固なヒエラルキー型の支配体制を敷いていました。

まず武士の身分を細分化し、「八家」「人持」「平士」「与力」「御歩」「同心」「足軽」の七つからなる階級に区分しました。ヒエラルキーのトップにたつ八家とは「禄高1万石以上の重臣」で、次のランクの人持は「禄高1,000石以上を持つ約70の家」から形成されていました。そして、この人持を7つの隊に分けて、八家の重臣の配下に起き強い権限を与えました。

通信技術もないこの時代に効率よく藩政を行うためには大名の命令が速やかに行き渡るこのような仕組みは非常に合理的な様に感じます。このヒエラルキー制度の下では、下級武士がピラミッドの上にいくことは稀で非常に保守的な社会が作られたと言われています。


町の管理体制

有力な家臣は金沢城を中心に配置され、その下屋敷に家臣団が集まるため、周辺には小商人によって町が作られました。そしてこれが金沢の商工業の活性化に繋がったと言われています。

加賀藩では町人も農民も同様に藩の厳しい管理下に置かれました。町人にもピラミッド型の身分差を設け、「上流の町人」「中流の商人」「最下層の町人」によって住む場所を区別していたそうです。「本町」という格式の高い町に暮らすことができたのは上流の町人に限られ、しかも上流の町人とそれ以外の町人とでは、住む家の広さにもかなり違いが見られたといいます。

町の自治も藩の厳しい統制下に置かれ、「金沢町奉行」が細かいところまで目を光らせていたと言われています。町役人にある程度の自治を認めていた江戸と比べても、かなり厳格な町づくりが行われていたことがわかります。


伝統文化の出自

金沢の伝統工芸品というと加賀蒔絵(かがまきえ)、加賀染、加賀印籠などが有名ですが、これらは前田利家が金沢城内に細工所をおいたのがきっかけと言われています。

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加賀蒔絵についていえば、前田家三代利常の頃に京都と江戸から名漆工を招いたことに始まり、その後、金色の図柄を浮き出させる技法で知られる加賀蒔絵が誕生したと言われています。見るからに優美かつ豪華で貴族的な工芸品ですが、このように藩主のために贅沢品を作ることから藩独自の工業技術が発展した例は多い様です。

藩の自治下で独自の文化が形成され、藩主がリードすることで作られ始めた工芸品がその後庶民の間で浸透し、一つの伝統となるこの流れは一つのフレームワークといって差し支えがなさそうです。


今後このテーマで深掘りしていく点

今回は、江戸幕府が敷いた全国の統治方法と、各藩で取られていた統治方法、またそこで生まれた文化の例などを調べました。

現代の中央集権化とは真逆の藩体制を敷き、各藩に自治を認めていたからこそ現代にまで残る多種多様な文化が生まれたのだと思いますが、今後はこの幕藩制と中央集権体制を比較しながらそれぞれのいいところ、悪いところを纏めていけたらと思っています。

それによって、今後例えば一つの会社の中で組織を形成する時に活かせるポイントがないか的な視点で体系化できたらと考えています。

また、江戸時代は「儒教」が広く浸透していましたが、この上下関係を重んじる考え方がヒエラルキー型の統治形態を生んだという説があり、このあたりの藩内での統治方法とその背景も深掘りしていきたいと思っています。


今日はこの辺で。

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