宗教1

支配者が利用した宗教観 - 【江戸の宗教観:その1】

今回は、江戸時代の社会背景として、支配者たる徳川幕府側と、一般市民側が、どの様な宗教観を持っていたのかを深掘りしていきたいと思います。


歴代支配者たちの宗教的施策

徳川幕藩体制の様に長期間安定した政権を維持するためには、支配者たちの高圧的・暴力的な支配だけに立脚出来ないことは過去の歴史を見てみると間違いのない事実だということが出来そうです。つまり、権威にとって不可欠なのはそれが社会的に了解され、受け入れられている正当な理念に立脚していることでした。

織田信長も豊臣秀吉も天下を統一する過程で顕著に高圧的・暴力的強制力を使ったがために、自分たちの支配の正当性をよりいっそう強く人々に納得させなければならないというジレンマと戦っていました。

信長と秀吉、そして徳川家康も同様に自分たちの権威を確固たるものにするために宗教的な象徴と理念を利用しました。


信長の宗教的施策
信長は多くの信徒を擁する宗派を敵に回して戦い、何万人もの人々を殺した一方で、自分を超人的で神聖な為政者として売りこもうとしました。

江戸2

信長は武士たちに対して自分を神聖視し、敬う様に要求し、その見返りとして軍事的な保護だけでなく、神聖な保護も与えました。現世で自分のために尽くすものは来世において忠実な家臣として報われるだろうと主張していました。

信長はまた、富や幸せを願うものはすべからく自分を崇拝する様にとの布告を出しました。自分を「天下」を体現する天下人と称しました。

信長はそれまでの軍事的な為政者と違って、将軍の地位に就こうとしませんでした。それは、もし将軍の地位に就けば天皇による任命を受け入れたものとして天皇の下に立つことを象徴的に認めることになるという理由でした。

また家臣達にも自分への忠誠を誓う誓約文で「天下のため、信長公のため」という句を用いることを義務付けたりもしました。この様にして信長は自らを天の下の全てのものを指す『天下』と同一視させたのでした。

フランスのルイ14世は「我こそは国家なり」という有名な宣言をしたことで知られていますが、信長はこれと同じ様な意味合いをルイ14世よりも前に行なっていたことになります。


秀吉の宗教的施策
秀吉も同じ様な自己神格化の戦略を踏襲しました。秀吉は京都に建てた自分の政庁兼邸宅(聚楽亭/じゅらくてい)に天皇を招いて、自分と同等の立場の客人としてもてなしました。

江戸3

自分の正室を天皇の母親と同じ官位に叙し、自分の息子を天皇の息子と同じ官位に叙しました。また、朝鮮出兵を神聖な国家的な営為と位置付け神道の神社で様々な儀式を催しました。

神道の宗教的な伝統では、血は汚れとみなされますが、秀吉は自分自身を称えるための「血祭り」を挙行しました。また、自分の没後には自分を豊国大明神として祀る富国神社と全国各地にその別宮を建立させる手はずを整えました。


徳川家の宗教的施策
徳川家も、こうした先達たちの様な個人崇拝の構想を引き継ぎました。家康は皇族や公家たちの細やかな立ち居振る舞いにいたるまで統制し指図しただけでなく、彼らの面前で外国からの使節を引見しました。家光も、1634年、総勢30万9,000人のお供を従えた大行列を組んで天皇が居住する京都へ上洛しました。

江戸4

徳川家康の遺言にしたがって、秀忠と家光は日光の地に壮大な神社を建立しました。家康の狙いは二人の先達と同様に、没後の自分自身を神格化しようとしていました。

家康は信長が建設し、その死後間もなくして壊された荘厳な安土城のことを意識し、秀吉を祀った富国神社と一連の別宮を解体してそれらに取って代わる新しい神社網を築こうとしました。

家康は自分の死後、死体を日光に葬る様にと指示した。東照社の位置は徳川家の居城である江戸城からの距離が、天皇家の先祖を祀る伊勢神宮と京都の宮廷との距離とちょうど等しくなる様に定められていました。

家康は没後「東照宮大観現」という神号を与えられましたが、この称号は仏教における権化の思想と神道におけるまばゆい光のイメージの両方を想起させるものとして選ばれた様です。

家康の孫にあたる家光は、位置的にも儀式における活用という点でも日光東照宮を伊勢神宮に代わる日本最高の神聖な政治シンボルにすることを目指しました。1645年、家光は東照社の格を伊勢神宮と同じ宮号(みやごう)に格上げしました。宮廷に対しては日光参拝の使者派遣を義務付けましたが、一方の将軍家には使者を伊勢神宮に派遣する義務はありませんでした。


徳川家の支配を正当化するロジック

徳川一族は自分たちを『象徴的に神格化』することによって支配者としての権威の強化を図りました。また、それと並行して自分たちの支配権を正当化する根拠を宗教的・世俗的伝統に求めました。

徳川の治世が始まってからの最初の一世紀の間に、あるべき政治・社会秩序に関し以下の様な合意が形成されていきました。

第一は、ヒエラルキーは自然なものであり、正しいとする考え方。
第二は、私利私欲を捨てて奉仕し、ヒエラルキー社会での自分の地位を受け入れることは重要な美徳である、とする考え方。
第三は、徳川家康は偉大な聖人・始祖であり、全ての知の根源であるという考え方、でした。

この様なイデオロギー的な合意形成を支えたのは、仏教、神道、朱子学の様々な要素を複雑に組み合わせた思想でした。所謂『神仏習合』的な思想ですが、詳しくはこちらの記事をご覧ください。


武士出身の禅僧、鈴木正三は「現世における生とは恩人たち(君主や両親)から受けた恩に報いるための機会である」と説き、人は、自分自身のために存在するのではなく、君主や社会のために存在すると主張しました。

また正三は、町民たちに対しやる気を出して日々の仕事に打ち込むことによって、自らの天職を全うすべきであり、そうすることによって来世では救われる、と説きました。

一方、僧侶から儒学者へと転じ、さらに神道を志向した山崎闇斎は、神道と儒教の伝統に分入って現実の世界を読み解く『日本的な志向方法』を探求し、日本の神々の教えと古代中国の聖人たちの教えとの間には類似性ないしは対応関係があると主張し、この視点から徳川家による天下支配のあり方を是認する議論を展開しました。

17世紀末には、多くの思想家は朱子学の思想に依拠して正しい政治秩序とはどうあるべきかについて講義をしていました。儒教の古典から直接学ぶことの重要さを説いた朱子の思想は中世以降、日本では主として禅宗寺院の僧たちが学んでいたが、江戸時代になって新しい朱子学の学派が登場したことによって、この事情に変化が生じました。

この新しい学派を開いたのは藤原惺窩(せいか)とその門人の林羅山でした。身分制社会を積極的に肯定する彼らの教説は幕府の支持を獲得し、彼らの塾は幕府に優遇されるシンクタンクとなりました。

1630年幕府は羅山の私塾建設のための費用を拠出し、1633年に学塾が江戸の上野に開設されました。1690年、林家の私塾は幕府直属の学問所として公のものとなりました。

儒教を寺院門外で講じるべきではない、とする家康や家光の顧問の僧侶たちは僧籍にない林家の儒学者が儒教を講ずることに異を唱え、両者の間には対立関係が生じました。


徳川のヒエラルキー社会を支えた『理の原則』

これらの儒学者たちの営為によって発展が図られた朱子学思想の根幹をなしたのが『理の原則』という考え方でした。

理の原則とは変わることのない自然法則であり、全ての学問や行為の基礎をなすものであり、物理的な宇宙と人間社会の両方を貫くものだと儒学者たちは主張していました。つまり自然法則と社会に適用すべき法は同じ形而上学的な基礎に立っているのだという主張でした。

中国の朱子学者も日本の朱子学者もともに物理的世界と人間社会の両方の物事を積極的に研究することによって、その背後で働く原理を解明すべきであると説きました。

これを元に徳川幕府の支配体制を正当化する主張として、理は、大地を下に、太陽を上に配置し、両者のまわりを動き回る様に星を配したのであり、それと同様に、為政者を上に、人々を下に配置するべきとのロジックを正当化したのでした。

全ての人間関係でも同じ様に、父子、夫婦、君臣、友人、兄弟姉妹などあるべき関係が定まっているとされ、とりわけ日本では為政者としての将軍は他の全ての者よりも上に立ち、天体の中でも最も崇高な太陽の子孫である天皇は、将軍に権力を委譲し、士農工商という四つの主要な身分に別れた人々は将軍の下に位置し、武士が将軍の支配を補佐する役割を担っている、とう思想が正当化され、一般大衆の中に当たり前の真理として浸透していったのでした。


まとめ

歴史を勉強しているとしばしば『宗教』が為政者の支配を正当化するために使われている場面を目にします。江戸時代もその前の信長の時代から徐々に宗教的思想の形成が行われ、徳川幕府時代に安定した形に収まったとみなすと自然な気がしました。

今回の調査で最も興味深かったのが『理の原則』としてのヒエラルキー社会の肯定という点でした。社会秩序の形を自然界の普遍的な法則に倣って構築しようとする考え方は非常に興味深いです。

例えば最近よく『ヒエラルキー組織の限界』的な話題を目にします。その対として『ティール組織』などの自律的な、アメーバ的な組織が良いとされる論調が最近の流行りの様に見えます。

これを江戸時代の『理』の考えに法って考えると、ヒエラルキー的現象もアメーバ的現象も自然界の中には既にあったわけで、江戸時代には前者が採用され、現代は後者が採用されようとしている。それぞれ自然界の『理』であることは変わりないのに、この様な現象が起こるのは何故なのでしょうか。

一つは、アメーバ的現象自体が江戸時代に発見されていなかったことが挙げられるかと思います。二つ目は、アメーバ的現象自体は知られていたが、為政者の都合に合わなかったので切り捨てられたことが挙げられるかと思います。或いは、藩制度に見られる、ある程度の自治を認めていた点など、気付かないうちに二つの現象を制度の中に上手く取り込めていた為に長期政権が実現できたのかもしれません。(例えば、制度自体はヒエラルキー的だけども組織運営はアメーバ的など。)

考察が拡散してしまいましたが、今回の学びのエッセンスとしては自然界を理解する時にサイエンス的真理、つまり『人間の見える世界を広げる』ことと、それを人間社会に還元する時の『人にとっての世界の見え方』とは別で、後者は宗教という媒体を介して為政者にとって都合の良いものに書き換えられていた可能性があるといことかと思います。

今日はこの辺で。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?