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多様な文化が花開いた社会的背景 - 【大衆の精神性と品位:その3】


前回の記事では江戸の社会規範としての宗教について調べました。今回はそうした環境の中で生きた人々が何を思い、それがどの様に文化の形成に繋がっていったのか、その社会的な背景について深掘りしたいと思います。


武士と商人の地位

18世紀の初頭、それまでは儒教や政治的な体制に対して干渉していなかった商人達も儒学者に加わって儒教の経典や社会制度に対して積極的に研究や批判を行う様になっていきました。

特に大坂とその周辺には町民の出資によって多くの私塾が開設され、そこが商人達の学習の場となっていました。大坂の有名な私塾に『懐徳堂』というところがあり、ここでの教えがその当時の社会においてセンセーショナルな思想でした。

その教えとは、武士と商人の地位について武士が公的な役所仕事を司るのに対し、商人は社会全体にとって重要な経済実務の管理を行っているとして、両者を機能的に対等として位置付けました。

商人と役人が相互依存的であり、徳においても社会的な機能においても相対的に平等であるとする考え方は、後の時代にまで引き継がれていきました。やがてその思想は、地方と都市の商人が自分達自身と国全体の繁栄を目指してともに産業の主要な担い手として立ち現れる下地となっていきました。


文化の興隆

また同じくして大坂と江戸をはじめとする大都会の娯楽街でも同じ様な変化が見られる様になっていきました。茶屋や遊郭と軒を連ねて芝居小屋や書店が立ち並ぶ娯楽街では『人形浄瑠璃』や『歌舞伎』が発展していきました。

浄瑠璃や歌舞伎の脚本はスキャンダルやゴシップ、仰々しい犯罪などを題材として用い、義理と人情の葛藤や、公の掟と個人的な忠義の葛藤の様なテーマを描き出す傾向が強くなっていきました。

徳川時代の都市を舞台に、町人やならず者の生き方を賛美し、身分の高い高潔な道徳主義者に軽く異を唱える散文体のフィクションである『浮世草子』や、『俳諧』などの詩、絵画芸術の興隆がこの時代に見られました。

例えば井原西鶴は、宗教、商人の金銭欲、人間の欲望をからかう浮世草子を書き、社会の底辺の人々に焦点を合わせ、その人々を主人公として多くの作品を描きました。『好色一代女』は公家の侍女だった女性が理想的な恋人を探し求めてたどった人生を、悟りを求める宗教的行脚を茶化した様なパロディーとして描きました。

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また『浮世絵』もこの時代に急激な成長を遂げたました。ここで言う「浮世」とは遊郭や芝居の世界が与えてくれる束の間の娯楽を指しており、徳川中期に木版画の芸術が栄える様になると有名な花魁や歌舞伎役者の肖像画が大量に刷られて流布されました。

浮世絵作家自身も文化人として名を馳せる様になり、やがて風景画も手がけたり地方を探索した芭蕉の紀行文に匹敵るす絵画形態での作品だったりを生み出しました。また版画に文章を刷り込み、絵と文字を結合することも試みられ、現代の漫画に続く源流となりました。

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『歌舞伎』『人形浄瑠璃』の発展

都会の文化生活の中からは『歌舞伎』と『人形浄瑠璃』という伝統舞台芸能が生まれました。歌舞伎はそもそも女娼や男娼が観衆、ひいては性的サービスの買い手を呼び集めるための手段として始まったと言われています。

多くの場合公演は河原に設けられた芝居小屋で、祭りや縁日にある娯楽と並んで行われるのが一般的だったと言われています。

1629年、幕府は風俗を乱すとの理由で女歌舞伎を禁止しました。皮肉にもこの禁止令を出した結果、女形の役者による華麗な演技が生まれ歌舞伎の質が向上し、より特異な存在に昇華したとの意見もありました。

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人形浄瑠璃は江戸時代の文化が生んだ新機軸であり、演技をするのが生身の人間ではなく人間の約3分の2の人形でした。人形一体は最大3人の人形使いによって操られ、一人の浄瑠璃太夫が三味線方の伴奏に合わせて台詞とナレーションを語ると言う形式で行われました。

人形浄瑠璃作家として最も有名な人物の一人は近松門左衛門です。近松の作品の大きな特徴は近親殺人など当時の世間を騒がせた出来事をはじめとして庶民の悲劇的な生活を題材にとっていました。

近松の作品には徳川期の思想と社会が抱える緊張が含まれており、多くは義理と人情の葛藤を描いていました。

現代でも人気のある『忠臣蔵』の源流も1706年に近松が人形浄瑠璃作品として描いた『兼好法師物見車』とその続編『碁盤太平記』でした。その後1740年代になって『仮名手本忠臣蔵』と題する歌舞伎用バージョンが書かれ、徳川時代に最も頻繁に上演される演目となりました。

浄瑠璃と歌舞伎の台本は事件を数世紀前に置き換えてはいるものの1703年に実際に起きた事件を基にしていることは見え見えで、亡き主君の仇を果たすために家臣たちが復習すると言う当時の違法行為に走る侍たちの忠誠を称える内容でした。

こうした人気を集めた文化作品の多くは『誰に対して究極的に忠誠を尽くすか』と言う徳川期の政治世界の根幹に関わる重要な緊張をマイルドに暴露する役割を担っていました。


文化を封じ込めようとする幕府の規制

一方で、幕府に仕える政治顧問や学者たちはこの様な文化活動を封じ込めることを狙いとして数々の対策を施工しました。

歓楽街自体を都市の外れに追いやり、その周囲に塀を巡らして下界から物理的に遮断する措置が取られました。また侍たちは歓楽街への立ち入りを禁じられました。

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幕府と各藩は、社会的な立ち居振る舞いを世襲の身分と釣り合いの取れる様に維持するために、いわゆる「奢侈(しゃし)禁止令」を制定しました。この命令は階層別の武士に認めれらる服装と、商人その他の庶民に認められる服装を制限し、街中で籠に乗る資格のある者について定め、身分や階層別の住居の大きさについても制限しました。

さらには飲食の慣習についてさえ制限を加え、農民には茶をたしなむ贅沢を禁じたため、農民は白湯で我慢しなければならなくなりました。また、幕府は歌舞伎にふさわしいテーマについても制約を設け、公演の時期と回数も制約しました。

この様な禁止令の多くは繰り返し発令されましたが、そのことは多くの人々が禁止を無視したこの裏がえしであり、幕府の独裁支配が届く範囲の限界があったことを示す何よりの証拠でもありました。


まとめ

現在に続く伝統芸能の多くは江戸時代にその源流が生まれました。

今回の調査で、そうした伝統芸能が生まれた背景には、江戸幕府が続く中での社会的不満や違和感、矛盾などがあったことが分かりました。

また、徳川幕府による規制が届かない水面下で文化を醸成していったと言う側面もあるのかなと感じました。

この、『抑え込むための規制』が逆に『文化を醸成する』といった事象は歴史を勉強しているとしばしば目にする様な気がします。この自由と制限のバランスの中にクリエイティビティーに繋がるエッセンスが含まれている様な気がするのですが、この点は今後の深掘り課題に含めつつ継続して考えていきたいと思います。

今日はこの辺で。

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