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愛の香り。シャネルの19番をめぐる

少し濃い臙脂色の、まるで開けてはいけないかのようなドレッサーが母の寝室にあって、そこに大事そうに婚約指輪と一緒にしまわれていたのがこれだ。


シャネルの19番。1970年に世に出たそれは、まるで斬新でこれからの新しい社会を連想させるもので、鎧のように身に纏う時代の象徴なのにいつの間にか消えてしまう儚いものだった。香りは、いつだって力を持っているのに儚くて、すぐにかき消されてしまうのだ。

おそらく誰もが「爽やか」「ポジティブ」なんて印象を持ちそうなそのグリーンに満ち満ちた香りを、私は少し悲しいと感じてしまう。
香りはグリーンの源ガルバナム、少しパウダリックなアイリスとつんと刺激の強いベチバー。

香水の話を少しするとすれば、香りの流行りはその時代の象徴となるもので、シャネルの19番は特に、これから女性が卑下されることなく強く生きる時代が来るということの象徴だった。だからその40年後にこの香りがリニューアルされた時には、センシュアルで悩ましいムスクが加わったのだと思う。女性は強いだけでなくてよくなったのだ。


父は恋愛にうとい、どう見てもうといタイプのちょっと頑固な青年で、母とは同じ職場だったらしい。
写真を撮るのが好きで撮られているものを見たことはほとんどないけれど、鼻が高くて端正な顔立ちなだけに「かっこいいのになんか残念」なちょっとややこしい青年だったのだということは、容易にイメージ出来る。

沖縄から出てきたおめめのぱっちりとした可愛い20代の母に父の方が夢中だったのは、結婚して時が経ってからも子供から見ても一目瞭然だった。
買い物に出かけるといつも父が先に歩くのに、家の中で父は母をいつも追っていて、母と話すときはいつも機嫌がよかった。
そういうところはもしかしたら、にーさんも似ているのかもしれない。


父が交際前に母に贈ったのが、シャネルの19番だった。
それも会社の茶封筒に入れて。

なんて、キラキラした女子からは顰蹙を買いそうなその思いの丈を詰め込んだような贈り物は、おそらく父の精一杯で、その話を聞いた私はたまらなく愛おしいと思わずにいられなかった。

私はグリーンの香りをつけることはないし、選ぶことはまずないのだけれど、なんだか無性に羨ましくなったものだ。
もしかしたら、嫉妬かもしれない。

父はそれぐらいしか女性に渡す贈り物の候補を知らなかったのだろう。だけれど、香りにはとてつもない力があることを何となく感じていたのだろう。

シャネルの19番は私にとって、つけていた記憶はないけれど母の香りであって、母が父に愛されていた証なのだ。だから私は、この香りを自分でつけることはしないししたくない。


今日は甘い甘いマグノリアの香りでもつけることにするか。





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