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借りたままの、5ポンド

2002年の9月。私はエディンバラ某所でバスを待っていた。

ロンドンで修士論文を提出し、1ヶ月半の自由な時間に私はスコットランドのエディンバラに渡って、ずっとやりたかったリサーチをし、論文を書き、版画工房が閉まった後はサルサの教室に通っていた。

ロンドンにいた頃、現地のサルサシーンにすっかり夢中になった私は、エディンバラでたまたま通りかかったEl Barrioという南米風のバーの「サルサ教室、予約不要 £5」の張り紙に惹かれて、毎晩そのバーの教室に通い、フランス人の女友達を作り、教室が終わった後にはソーシャルダンスに居残り、毎晩遅くまで踊っていた。

その日はライブ演奏もあり、フランス人の女の子達と大いに盛り上がったので、バス停につく頃には最終バスの時間に間に合うか間に合わないかのギリギリだった。が、イギリスではありがちだがバスの運行はいい加減で、最終バスは随分と遅れており、それどころかひょっとしたら「来ないかもしれない」という状況だった。

やれやれ、と思っていると、背の高い、白人の男が話しかけてきた。これまた「やれやれ」だ。ロンドンで修士号の勉強をしている間、日本人の若い女を軽く見る男が嫌という程声をかけてきた。どちらかというと品のいい男性だが、これも日本人女性を甘く見て声をかけてくる、気の弱い白人男性の典型だ…と思うと面倒臭くてうんざりした。

「バス、来ないねえ」と男が言う。そうだね、と適当に返した。「学生?」と聞いてきたので、そうだけど、会社を辞めて専門分野の勉強をしにきたので、学生のようなプロフェッショナルなような感じだ、と答えておいた。「そうか、エディンバラの美術学校で勉強してるの?」と聞いてくる。いや、学校はロンドンでエディンバラでは版画工房の取材してレポートを書いている、と答えた。男は「そうか、あそこは僕も知ってるけどいい工房だね」と言う。

「ナイトバス、来ないねえ…またキャンセルかな、いい加減だよねこの国は」とまた男が言う…ロンドンで多少経験があるので、次に言い出す言葉はわかっている。「僕の家に来ない?」「車で送ってあげる」…こんな危ない言葉に乗るものか、と身構えた。私は「あと5分待って来なかったら歩いて帰る」と返した。「どこに滞在してるの」と男が聞いてくる。本格的に面倒臭い。ここから歩いて20分くらいのクイーンズフェリーロードの近く、と言うと、男の顔がこわばった。

5分待ってもバスは来なかったので、私は「じゃあね、会えて嬉しかった」と型通りの挨拶をして宿に向かって歩き出した。男がついてこないように早足で歩いた。が、男が後からついてくる。辺りには誰もいない。

「待って」と男が言う。まずい、と思った私が走り出そうとした瞬間、男に手を掴まれた。あ、と思った瞬間男は私の腕を柔らかく取ったまま、走ってくるタクシーを止めた。男は財布から5ポンド札を出して、運転手に渡して「この子を乗せて、家に連れて行ってあげて」と行った。

私は驚いて「この位のお金ならある、いらない。それに歩いて帰れるから」とお金を返そうとした。男は言った「僕の弟は日本人の女性と結婚してるんだ、***っていうんだ、とてもいい人で僕は彼女が大好きなんだ。だから日本人の女の子が危ない目にあったら嫌なんだよ」家まで安全に帰ってね、と言ってタクシーのドアをバタンと閉めた。男は手を振って、そして来た道を引き返して行った。

私は泣いていた。ロンドンでの生活は苦しかった。夢にまで見た助成金を得てやってきたイギリスで、一人ぼっちで偏見やセクハラに耐えて、必死で勉強したのに、思う通りの結果が出せなかった。孤独な生活の中で友人にも裏切られて、本当は一刻も早く日本に帰りたかった…自分がどれだけ張り詰めた思いで暮らしていたのか、疑り深い人間になっていたのかを思い知らされた。

タクシーの運転手が言った。「楽しいナイトアウトだったかい?」私は涙を拭きながら「楽しかった、エディンバラは素敵なところだ」と答えた。そうか、そりゃ良かったね、と運転手は言って私を宿の前で降ろしてくれた。£5ポンドはゆうに超えていたけど、追加料金を払おうとしたら「もう代金はもらってる」おやすみ、と言って追加料金を受け取らずに走り去ってしまった。

17年経ち、私はまたこうしてエディンバラにいる。後で知った事だが、私が滞在していたクイーンズフェリーロード付近のMuirhouseという地域は『トレインスポッティング』の舞台にもなったエディンバラでの有数の荒廃地区だった。

彼は、自分が誰かの人生を永遠に変えてしまった事を知らずに、今もこの街のどこかで暮らしているのだろう。私は今でも£5札を借りたままだ。もう彼と会う事はないだろう。が、もし奇跡的に会えたら言いたい。私は愛する人と出会い、幸せに暮らしている。それはあなたの£5札のおかげなのだ、と。

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