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できれば旅行でクルマを運転したくない

移動手段として疑うこともなく普及している自動車。田舎なら自家用車が無いと生活できなさそうというのは誰しも頭にはあるだろうし、実際あったほうが便利に決まっている。
もちろん旅行でも便利なのは同じ。自家用車で行ったり、沖縄とか北海道をはじめとした島嶼部?や遠い場所ならレンタカーを借りたりして旅先を楽しむ人も多いだろう。ホテルまで直接行けたりして非常に有用だと思う。
そんなことわかっている、けど…

できる限り旅行で車は運転したくない。


自分にとって車を運転するってのはどうしようもないときの最終手段。もちろん、車を批判したいわけではなくて、路線バスであったり友人の運転する車には全然乗ったり、またありがたく乗せていただいたりする。はっきり言って目的地から目的地まで直接行けて(ドアtoドアというのかな?)非常に便利だと思う。
それでも、自分が車を運転することは滅多にない。本当にしたくないからしていない。もちろん友人とドライブとか、必要なときは運転をするけども一人だったらまず車を運転するという判断にはいまのところなっていない。

なぜ私は車を運転したがらないのか。自分なりに理由を分析すると、大きく1つにまとめて「自分にとって運転することが大きな労力であり、ストレスになる」からだと気づいた。順を追って書いていく。

まず前提として、免許を持っている。まあATだけども。
別に「免許を持っていないから運転しません!」とか某東大卒のクイズ王関連で話題になっていた「試験問題がひねくれている」とか言いたいわけではないです。重ね重ねにはなりますが車を全否定するわけではないです。

そして、現在大学生。こんな「クルマなんて運転したくない!」というのは社会人じゃないから車に乗らなくてもなんとかなっている節はあるのかもしれない。あくまで旅行の時には車を使いたくないよということ。

でも、旅行の時を含めてもう免許を取ってから1年半以上運転していない。うん、ペーパードライバーまっしぐらである。それはやっぱり自分が運転したくないからが一番だと思う。

じゃあ運転の何が労力で、なにがストレスなのか。それは私にとって、ほかの作業に代わって長時間安全に注意しながら運転していることが非常に労力で、運転中に生じる無言語コミュニケーションの数々がストレスだと思う。

どういうことを言っているのか具体的に説明すると、まず前者は…とは書いてみたものの、これは言葉の通りの意味。大学生の私が車を運転するタイミングとなると大概旅行に出かけるときになるが、その移動時間は正直運転ではなく他のことに時間を割きたい。例えば今後のプランを考えたり、寝る時間に充てたりしたいのである。うん、とってもわがまま。笑
せっかくの旅行を楽しむなら、できる限り楽しみたい。現地をよりたのしむためにそのための準備を移動中にしておきたいということ。

それに、私はそこまで運転に自信が無いし、運転が楽しくない。別に教習所に行っていたときは大きな問題なく卒業することが出来たが自分の中で公道で運転することが怖い。免許を取ってから何度か乗ってはみたものの恐怖心からか30分も運転したらもうヘトヘト。確かに便利だけどしんどい。同乗していた人からはめっちゃ安全運転と言ってもらえたものの、でもできるだけ運転したくない。

あと、これはおまけ程度だけど車を運転しなくてもいいのならばお酒だっていつでも気兼ねなく飲むことが可能だ。「アルコール抜けてるかなぁ…」と不安と葛藤に悩む必要はない。自由に飲めるのが素晴らしいよね。うん。

要するに「個人的に苦手意識があって疲れる自動車の運転をするよりも、作業できるし、寝れるし、呑めて、更に疲れない他の移動手段の方が旅行するのに好都合で楽しい」ってこと。


次に後者の「運転中に生じる無言語コミュニケーションの数々がストレス」というのはなにかというと…うーん、ちょっと説明しずらい。つたわりにくいかもしれない。

えっと、まず前提として、車というのは狭い道での道の譲り合いとか道の合流とかの細かい部分でお互いに譲り合いをしながら、また交通ルールに則って運転している(はず)。
そこでの個人の認識のずれで起きる意図していない行動や事態が運転しているとたまにある。「なんであの車はこのタイミングで曲がってきたんだ???」「こんなところで止まって一体この車はどうしたいんだ?」「え、このタイミングで割り込み!?あぶないって…」みたいな。運転している人なら普段から感じているはず。だよね?
こういう小さな齟齬がたくさんあって、正直個人的にうんざりする。

こういった場合、どちらかが異常行動をしていることもあるとは思うし、両方悪気はなくても大事故に繋がることもあるから一概に擁護する気はないのだけれど、恐らく多くの場合どちらも自分から見える限りの情報をもって適切な行動をしているはずである。名古屋走り、阿波の黄走り、岡山ルールなどの地域によって運転にも癖(主に悪い方だけど)があったりとかするし、運転している車の仕様、環境とかもあるので判断に僅かながら差があることはおかしなことではないはず。出来れば平等にすべきだけど。

でも、お互いにとって適切な行動、そう見えないのはそこに言語が無いからだと言いたい。これを最初に書いた無言語コミュニケーションってこと。

それぞれ車の中にいるから窓でも開けないと会話は難しいし、別に会話をしようって言ってるわけではない。でも、相手は何を考えているかわからないままになってしまって、なんかもやもやしない?それが自分にとってちょっと疲れる。せっかく旅行しているのに快適に移動できないのは悲しい。もしそれが電車だったり、バスだったり、飛行機ならそんなこと気にしなくても目的地まで運んでくれるので非常にラク。まあ最初の理由とおおよそ一緒かもしれないけど、どこかへ旅行するときは基本的にストレスになるから運転をしたくないのです。


まあ、ここに上げたような理由で極力車に乗りたくないんです。ちなみに薄々気づくのかもしれませんが私は多分社会人になったとしても車には極力乗らないことでしょう。だってここに書いてある理由って、なにも旅行の時だけの問題でもないですしね。
まあ大人になったとして、生活で車は使うことになるかもしれませんが旅行ではたぶんほとんど使わないのではないかなと思っています。現状観光する上で運転しなくても何とかなってるわけだし…

まあその将来車を運転しているかはわかりませんが、とりあえず疲れるので運転はしたくないよっていう大学生の一意見でした。おしまい。



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