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カルピスを作った人をこの前初めて知りました【三島海雲】

「カルピス」の名前の由来ってご存知ですか?
カルシウムの「カル」と、仏教語で牛乳を精製する5段階のうちの1つ、醍醐をサンスクリット語で示す「サルピルマンダ」の「ピル」からだそうです。

いんや、それだと「カルピル」やん。

「う〜ん、カルピルか〜カルピルかるピルカルぴる、、カルピス、、!これや!!」

そう、「カルピス」は元々「カルピル」で、語呂が良いという直感で生み出された名前なのです。意外。

小さい頃におばあちゃんの家で飲んだ氷が溶けたうっすいカルピスも、高校時代の部活帰りに飲んだ青春の甘酸っぱいカルピスも、バイト中に疲労回復とかこつけて飲んだ濃いめのカルピスも、仕事帰りに無性に飲みたくなるカルピスもずっと美味しくて、ずっと身近にありましたね。(個人の記憶)

さて、みんな大好きカルピスですが、誰が作ったか知ってますか?
私はつい最近まで知りませんでした。

カルピスが発売されたのは1919年、大正8年に三島海雲という人物によって生まれました。
もう100年以上の歴史を持つ、カルピスパイセンなのです。

なぜ急にカルピスを作った人に興味を持ったのかと言いますと、偶然、『カルピスをつくった男 三島海雲』(山川徹/小学館)という本と出会ったからです。
最初はカルピスという水玉で爽やかなパッケージとは結びつかないほどの、物々しい表紙のギャップが面白いなと思って読み始めたのですが、想像以上にカルピスを生んだ三島海雲という人物が興味深く、誰かに伝えたい!!と思ったので、noteに書くことにしました。

表紙かっこよい。

三島海雲さんが誕生して、カルピスが生まれるまでを私なりの言葉でつらつら書いてますので、お時間ある方はぜひお読みいただけますと幸いです。
裏付けが甘い箇所や誤った箇所があってもご了承ください。


1、○○を焼いた少年

三島海雲さんは、1878年(明治11年)の7月2日、今の大阪府箕面(みのお)市で教学寺というお寺の長男として生まれます。なんとお寺の子。
胃腸が弱く、吃音(声がつっかえること)に悩まされていた少年でした。

海雲さんの父親はかなりの野心家で、起業しようと大阪から広島へ旅立ったものの、事業に失敗し大阪に帰れなくなってしまいました。

さて、離れて暮らす父親とたまに会う日のこと。
父親もお寺の人間なので仏像の前で読経をしていたのですが、すごくいい加減に読んでいたそうです。

「そんな形式的なおつとめをするだけの仏像なら尊敬に値しない」と、私はいきなり庭に持ち出して新聞紙でこの仏像を焼いてしまった。

(山川徹(2018).『カルピスをつくった男 三島海雲』.小学館.p27/『履歴書』より)

ガッデム!!!なんと仏像を焼いてしまったのです。
母親へ苦労をかけている父親のいい加減さに対する不満さに心底怒りを覚えたこと、その怒りをどこにぶつければよいのか分からなかったこともあるのでしょうが、お寺の子が仏像を焼くことに驚愕しました。
自分の母親のためを思ってここまで怒れる海雲さんはきっと心が優しい方なのでしょう。

さらに14歳の時には英語を教えてもらっていた先生が不祥事によってクビになったと聞けば、学校に通うのがバカらしくなったと中退してしまったのです。なんという決断力、、、。

15歳の時に僧侶になるための文学寮に通った後、21歳の時に英語教師として山口県山口市の学校に勤め始めましたが、病気によって半年ほどで大阪に戻りました。

病気が治った後は、東京の仏教大学へ通い始め、知り合いの勧めで23歳の時に中国大陸・北京へ旅立つことになったのです。

2、いざ中国大陸へ

1902年、海雲さんが23歳の時に北京東文学社という日本人が中国に設立した学校で、教員として働き始めました。
1年ほどして、日本の母親が病気になったという知らせを聞いた海雲さんは、お金を稼ぐために現在の河北省石家荘市にある趙州中学堂へ赴任します。
が、暫くして母親が亡くなり、働く意味を見いだせなくなった海雲さんは半年ほどで辞めてしまいます。

河北省石家荘市/Googleマップより

辞職後、海雲さんは北京へ再び戻り、日本の雑貨などを売り歩く「日華洋行」という会社を設立しました。
1903年、海雲さん24歳の時です。

日華洋行設立後の1904年、日露戦争が開戦。
海雲さんたち日華洋行のメンバーは戦争で使用する馬を調達するために、当時は正確な地図の出回っていないモンゴルへ向かいます。

そしてモンゴルでの出会いが、海雲さんの人生を変えるのです。

3、ボーイ・ミーツ・・・。

1904年の軍馬調達のためのモンゴルの旅の後、海雲さんは再びモンゴル高原を訪れます。
1908年、海雲さんが29歳の時、モンゴルのヘシクテン旗という場所のパオという一族の元で一夏を過ごします。

モンゴル ヘシクテン旗(画像内赤枠)/Googleマップより

そこで、一族からこんな飲み物を勧められたのです。

先祖のジンギスカン時代から伝わる秘薬で、王者の食物です。これさえ食べていれば病にもかからない。年も取らない。身体は丈夫になり、肥ります。

(山川徹(2018).『カルピスをつくった男 三島海雲』.小学館.p127)

なんとも怪しい飲み物・・・。
はてさてその正体はモンゴルに伝わる乳製品です。

この飲み物を飲んだ海雲さんは、すごく体調が良くなっている事に気がついたのです。
その他にも海雲さんはモンゴルで様々な乳製品に出会い、帰国後に日本でいくつかを紹介しています。

例えば、シャルトスやホロート、ジョウヒです。特に、ジョウヒはカルピスの原型になった飲み物だと考えられています。

こちらのサイトにジョウヒの写真がありますので気になる方はぜひ!
(このサイトは山川徹さんがお話をされているので、もはやこのサイトが全てでは・・)

その後、海雲さんは、日華洋行を退社し、モンゴルでメリノ種という羊の飼育・改良事業を始めますが、清朝政府(当時の中国・モンゴルを支配していた王朝)の政策により頓挫。
モンゴルから退去させられます。

大きな挫折を味わった海雲さんですが、その後、清朝政府が崩壊し、中華民国の誕生に伴い、国民の反日感情が激化。
1915年、海雲さんが37歳の時に、13年間の歳月を過ごした大陸から日本へ帰国することを決意するのです。

4、カルピス誕生

日本へ帰国した翌年の1916年、海雲さんが38歳の時にモンゴルの乳製品「ジョウヒ」の商品化に成功しました。
商品名は「醍醐味」。
(カルピス公式サイトでは「醍醐素」となっていますが、山川さんの著書に記載の内容としています。)

醍醐味広告/カルピス公式サイトより

「醍醐味」発売に至るまでには様々な経緯がありました。
海雲さんは当時日本で流行っていたヨーグルトを試食した後、「ジョウヒの方が日本人に愛される!」と考えていたものの、家族が病気に倒れたり、無一文だったため借金まで抱えていたのです。

「開発はしたいけど、お金がない」という悶々とした状況の中で、海雲さんの友達が資金を援助し、新規事業の立ち上げに協力してくれたのです。

友の助けで「醍醐味合資会社」を設立した海雲さんは乳酸菌の研究に励み、ついに「醍醐味」の発売。
醍醐味は海雲さんの狙い通りの大ヒットでしたが、しばらくすると大ヒットすぎて注文が間に合わず、また、貯蔵が効かないということから発売が中止となってしまいます。

「醍醐味」が発売中止となった後、海雲さんは「ラクトー株式会社」を設立し、乳酸菌入りのキャラメルの製造・販売に着手するものの、老舗がシェアのほとんどを占めるキャラメル市場への参入は難しく、上手く行きませんでした。

再び、スタート地点に戻された海雲さん、今度は脱脂乳(脂肪分を抜き取った牛乳)の有効利用に注目し開発を進めます。
開発に勤しむある日、脱脂乳に砂糖を混ぜて一昼夜おいたらあら不思議。とっても美味しかったのです。
そうです。カルピスです。

カルピスは意外にも偶然の産物として誕生したのです。

その後のカルピスは1919年7月7日の七夕に発売。
今もなおたくさんの人に愛されているのです。

発売当時のカルピス/カルピス公式サイトより

5、まとめ

長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
本当にざっくりとしていますが、カルピスが生まれるまでを駆け抜けました。

三島海雲という一人の人物が、モンゴルを旅し、乳製品との出会いを原点に、様々な試行錯誤を経てカルピスは誕生しました。

海雲さんは常に、人に対して真っ直ぐに向き合う素直さを持っていたからこそ、多くの人から愛されるカルピスを誕生させることができたのではないでしょうか。

杉並区にある三島海雲顕彰碑には、海雲さんの似顔絵が彫られています。

6、大感謝

この拙いnoteを書くにあたり、『カルピスをつくった男 三島海雲』を執筆した山川さんに心からの感謝を申し上げたいです。
この本を読んで心を動かされた一人の人間が本当にざっくり記しているだけの記事となり、山川さんの圧倒的な調査量と三島海雲という人物に対する思慮の深さとスケール大きさの足元にも及びません。
もしこのnoteを読んでもっとカルピスのことが、三島海雲という人物のことが知りたいと思う方がいらっしゃればぜひ、読んでいただきたい1冊です。必読です。
(参考文献の量が本当に多いのです。圧倒されました。)

最後に

カルピスのパッケージですが、最初は白地に青の水玉ではなく、青地に白の水玉でした。
このパッケージに込めた思いを七夕になぞらえて海雲さんはこう話しています。

<この包装は、宇宙の縮図である。(中略)カルピスの今の水玉模様は、天体の模様を縮図にしたものである。右から左下へ斜めにしてあるのは、天の川を形取ったのである。>
彼は戦後すぐ富士山麓で見た、ちぎれ雲の間にあらわれた空の色に魅入られたと続ける。
<その色といったら、実に何とも形容のつかない深みのある色をしておった。そこで私は天体の色をカルピスの包装箱に応用したのである。>

(山川徹(2018).『カルピスをつくった男 三島海雲』.小学館.p7)


***

【参考文献】
・山川徹『カルピスをつくった男 三島海雲』(2018年、小学館)
・「国民的飲料「カルピス」はモンゴルの発酵食がルーツだった【100年前の驚き】」(参照2023/11/06)

・「カルピス語源はサンスクリット語 誕生支えた楚人冠人脈」(参照2023/11/06)

・「カルピス®の歴史」(参照2023/11/06)

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