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くくるべきか、くくらぬべきか、それが問題だ〜多様性推進と被差別者支援の違い〜

All Lives Matter? Black Lives Matter!

George Floyd氏が亡くなってから早くも1ヶ月が過ぎた。2020年5月25日、彼はお店で偽札を使ったとして現行犯で捕まった。そして、その過程で「抵抗をした」とされ、警察に首を膝で8分46秒間押さえつけられ、「息が出来ない(I can't breathe)」と訴えながら、命途絶えている[1]。その衝撃的な映像はインターネットで出回り、筆者も大きな衝撃を受けた。米国では過去にも無数に、黒人を対象としたこのような過剰な暴行・殺傷が警察により遂行されてきたと言われており[2]、幾度も市民による抵抗デモが行われてきた。ご存知の方も多いとは思うが、現在進行形のデモ「Black Lives Matter」は今に始まったものではない。米国には、とてもとても深い、差別と抵抗の歴史がある[3]。

 今日のデモは、新型コロナウイルス(COVID-19)のストレス等影響もあってか、過去最大級の拡がりを見せている。デモに関する賛否の議論は、米国の外までも波及している程だ。賛否の中でも筆者は良く、「なんで『Black Lives Matter』、直訳すると『黒人の命は重要だ』なの?なんで全員を対象に『All Lives Matter』じゃダメなの?」といった疑問を日本国内で耳にする。米国でも、All Lives Matterを唱える人(ほとんどが白人)が一定数いるが、Black Lives Matter側からは激しい非難を受けている。この非難のロジックを追い切れず、理解に苦しんでいる人もいるのではないかと筆者は推察する。

 そこで今回の記事は、なぜAll Lives MatterではなくBlack Lives Matterなのか?という論点に焦点を当てつつも、まずはより一般的に、個人個人の平等を主張する多様性の推進活動[4]と、差別に苦しむ被差別者の支援活動[5]の考え方における違いの整理を試みる。前者は人をアイデンティティで括(くく)るべきでないとする一方で、後者は人をアイデンティティで括ってその属性を一般化するような傾向がある。この一見矛盾しているかのように思える両者が、実は補完的であること、さらには両者の位置づけを適切に理解していなければ片方の活動は充実し得ないことを、筆者は主張したいと思う。もちろん、反論等を含むご指摘・コメントを歓迎するので、ぜひ一度最後まで読んでほしい。

図1:どっちがどっち?

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理想を語る:多様性の尊重と個人主義の社会

 差別という現象を読み解くとそれは、特定のアイデンティティにより人を括り、その人々から不当に機会を奪うことである。差別の対象となるようなアイデンティティは、不可抗力により身についたものであることが多い。例えば、人は生まれる時、自分の人種や国籍を選べるだろうか。性別やジェンダーはどうだろう。持てる機能や外見も、先天的或いは後天的に変化し得るだろう。例え100%の不可抗力でなくとも、その要因による影響が大きい場合、果たしてそれは本人の意思により選んだアイデンティティだと言えるだろうか。

 自分を定義するアイデンティティの一部を自らの意思で選べないのであれば、そこに当人の責任はない。したがって、そのアイデンティティを他者が表面的に捉え、そこから能力や人格等を判断し機会を奪うことは、不当と言って間違いないだろう。例えそれが、同じアイデンティティを有する他の人々の言動に基づいた判断であっても、当人のせいとは決して言えないはずだ。

 このように、アイデンティティを表面的に捉え、そのグループの傾向・偏見から特定の個人について判断する行為を、「一般化」と言う。そして、特定のアイデンティティが主語となっている一般化された価値判断は、「主語が大きい」とも言う。

 例えば、「日本人は背が低い」という発言があったとしよう。これは、日本人という国籍によるアイデンティティの一般化であり、「日本人」という言葉が指す人口の規模が大きいため、主語が大きいと判断できる。「背が低い」が傾向として正しかったとしても、その断定的な表現により、高身長な方々は日本人の定義から外されてしまうため、単純に失礼だろう。この例はまだ内容が比較的優しいため、問題ないと思われる方もいるかもしれない。しかし、「日本人は」の後に来る表現がもし、人格を表すような内容であった場合はどうだろう。日本人というだけで、外からあなたの人格を決めつけられるのは、不快ではないだろうか。

 この受信者の不快感は、発信者がほんの少し表現を変えて、「『一部の』日本人」や「背が低い『傾向がある』」とするだけで、避けることが出来る。統計的な証拠がないのであれば、「私の経験上」等を足すのも良いだろう。このほんの少しの努力を拒否するということは、受信者側からすると、発信者の責任放棄のように感じられてしまう。或いは発信者が本当に、芯から自身が一般化した仮説を信じているようにも見えてしまう。自身の周りにはそんな言葉尻に敏感な人はいないと思われるかもしれないし、それが事実であるならば私的な発信は問題ないだろう。ところが、こうした一般化を公的な場で展開する人は未だ非常に多く、それによりたくさんの無関係な人々が不快感を被っている実態がある。

 ダイバーシティや多様性推進という概念(特にその中で構築主義[Constructionism]の立場を取るもの)は、この一般化や大きな主語を極力社会から取り除き、個人をそのアイデンティティによる所属ではなく、一人の個人として尊重する思想・活動である。その究極的な理想は、アイデンティティにより個人が外から括られないような、個人主義的な社会の実現だと思われる[6]。そして、その実現のために、差別やマイクロ・アグレッション(Microaggression、後述)に反対し、アイデンティティで人を判断してはいけないこと、個の固有の人格を尊重することを訴えている。

 近年欧米で盛り上がりを見せているポリティカル・コレクトネス(Political Correctness, PC)運動の背景には、上述のような思想が強くあると思われる。PCでは、社会的マイノリティへの配慮のために、差別やマイクロ・アグレッションのように攻撃的(Offensive)と思われる表現を控えることを重視する。その真の目的は崇高だが、人によっては目的を見失い、PCを過剰な言葉狩りのために利用してしまうこともある。すると、PCの真の目的を知らない、又は共感しきれていない人々には、表現の自由を刈り取る行為にしか見えなくなってしまうため、反感を招きかねない。米国のトランプ氏が政治的支持を2016年に得たのは、トランプ氏が極端にPCを無視しており、そこに爽快感を覚えた社会的マジョリティの存在が大きいという説が強いと思われる[7]。その流れを面白おかしくフィクション交じりで振り返りたい方は、South Parkというコメディアニメ―ションのSeason 19第1-2話あたりの視聴をオススメする[8]。

マイクロ・アグレッションとは?

 多様性推進に取り組む上で、マイクロ・アグレッションという概念に対する理解は欠かせない。Derald Wing Sueを中心とする心理学者たちは、マイクロ・アグレッションを以下のように定義している [9]。

“…brief and commonplace daily verbal, behavioral, and environmental indignities, whether intentional or unintentional, that communicate hostile, derogatory, or negative racial, gender, sexual orientation, and religious slights and insults to the target person or group” —Sue, Capodilupo, et al., 2007.

 意訳すると、「特定のアイデンティティを有する個人やグループに対し、そのアイデンティティを理由として蔑む、または蔑ろにするような細かな表現を、日常的な言動に含むこと」だろう(筆者訳)。こうして訳すと、日本語では「蔑(べつ)」の漢字が鍵となっているようにも見える。また、マイクロという言葉の示す通り、「細かな」「日常的な」という点も重要である。Sueらはマイクロ・アグレッションが、被害者のストレスの増加や自尊心の低下に繋がるとして、研究の中で問題視している。

マイクロ・アグレッションの例
■ 外見だけで出身地や国籍を判断する
■ 女子力、女々しい、男前等の言葉で特定の性にあるべき姿を押し付ける
■ 異性愛者であることを前提としてパートナーに関する質問をする

 マイクロ・アグレッションはまだ日本国内ではあまり馴染みない言葉だと思われるが、初めて聞いたという方はぜひ、「日本でもマイクロ・アグレッションに苦しんでいる人が多いのではないか?」という視点を持ってほしい[10] 。特に日本は和を重んじるあまりか、同調圧力(他と同じであることを求める圧力)を強く敷きすぎる傾向のある社会となっている。それでも、このように概念化してマイクロ・アグレッションを可視化することで、無自覚な加害行動の是正や、被害者の抵抗力の強化に繋がることを期待したい。

図2:マイクロ・アグレッションに気を付けよう

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現実を語る:差別に抵抗するということ

 前章で述べた個人主義の社会は理想的にも思える反面、現実からは程遠く、それだけを主張していても空虚に思えてしまう。いきなり人々に「アイデンティティで人を判断するな!」と訴えたところで、実態は中々変わらないだろう。さらには、差別には過去の蓄積があることを忘れてはいけない。

構造的格差(Structural Inequality)とも呼ばれているが、社会的な差別は世代間を超えて経済的・社会的な格差を生み出すとされている。実際に、教育や健康等、人の生産性を向上させるための投資の機会が差別により不当に奪われた世代が存在したとすると、その世代の所得は相対的に少なくなり、次世代に十分な投資が出来なくなってしまう。すると次世代の所得も向上せず、そしてその次の世代も…と、長期的に差別の悪影響が及ぶようなメカニズムが容易に想像できるだろう。さらには、教育や健康水準だけでなく、事故率や犯罪率等、様々な要素が所得格差による影響を受けると考えられている。したがって、「被差別層は教育に価値を置いていないから学歴がなく所得が低い」「被差別層は根から暴力的だから犯罪を起こす」等といった偏見を抱くことはあまりに表面的であり、本質的でない。

 このような構造が想定される中では、差別やその影響が未だ色濃い現実世界から急にアイデンティティの枠組みを取っ払ったところで、経済的・社会的な格差は解消しないだろう。構造そのものが変化しない限り、上述のロジックにより格差が定常してしまうからだ。それどころか、アイデンティティの枠組みが消えることで、救済の対象や理由が不明瞭となってしまい、過去の差別が生んだ格差が放置されてしまう可能性すらある。

 そこで重要となるのが、被差別者に対する支援活動だ。従来、差別を受けてきたグループをそのアイデンティティにより括って周囲が支援することで、前述の構造的格差の早期解消を目指すのである。差別と同様の枠組みを利用して、その逆の目的を実現しようとする姿から、そのような取り組みは戦略的本質主義(Strategic Essentialism、アイデンティティで括る本質主義を戦略的に逆利用するということ)やアイデンティティ・ポリティクスと呼ばれている。また、構造的格差の解消のスピードをより早める意図から、他と同等以上の機会を被差別者層へ与えようとする取り組みを、アファーマティブ・アクションと言う。アファーマティブ・アクションは日本でも、男女平等の実現に向けた取り組み等で聞いたことがあるかもしれないが、欧米諸国では学問や政治の分野にて、より強固にこのアファーマティブ・アクションが制度的に採用されている。例えば、学業プログラムや職業の採用枠に特定のアイデンティティ専用の枠を確保するような手法は一般的だ[11]。実際に筆者が北米の大学院を受験した際も、自身が社会的マイノリティであることを表明してその経験を論じれば、評価に足されるようなシステムがあった(Minority Statement等)。

 Black Lives Matterも本章で紹介した戦略的本質主義やアイデンティティ・ポリティクスの運動の一つとして解釈できる。アファーマティブ・アクションほど求めている是正要求は高くないと思われるが、公権力の濫用によるBlack等マイノリティ差別の横行を止めることを目的として、警察制度の現体制や、それに対する政府の予算編成の再構築を求めているのが現状だ。

 これに対してAll Lives Matterを唱え、Black Lives Matterのコンセプトを根本から崩しにかかろうとする動きが米国内では散見されている。この種のAll Lives Matterは一見、前述の多様性推進(構築主義を想定)側に思えるかもしれないが、内実は白人中心主義者の集まりであることが多いとされている[12]。そして彼らは、戦略的本質主義に基づくBlack Lives Matterの活動を、あたかも多様性推進とは反対の立場であるただの本質主義に基づくものかのように見せている。そうすることで、Black Lives Matterの戦略的な要素(敢えて社会的マイノリティとしてのアイデンティティを誇示し結束していること)が、外から分かりにくくなるようにしていると思われる。実際、記事の序盤にも記述した通り、これに翻弄された人は多かったのではないかと筆者は推察する。

図3:錯乱された視点のイメージ

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図4:正しい視点のイメージ

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最後に:括らない社会を、括ることで目指す

 前章で解説した通り、米国におけるAll Lives Matterにはその名目と実質がズレているという問題がある。だが、外にいる者がその名目的な意味に沿って多様性の尊重を考えることは、決して間違いっていない(だからこそ混乱が生じているわけではある)。実際にBlack Lives Matterは、多様性を尊重する社会の構築において、理想的な活動の形ではないだろう。ただし、そのような戦略的本質主義に基づく抗議デモが、どのような制約により必要に迫られた戦略なのかを理解することは、非常に重要である。「Black Lives Matterと唱えなくては、社会的マイノリティとしての人権が保護されない」という世界の条件設定がそもそもおかしいのではないだろうか、と。

 これはBlack Lives Matterに限る話ではない。差別が実在する社会において、いきなり構築主義的な多様性推進の思想を展開するには、やはり無理がある。一方で、多様性への理解がない状態で特定の差別に抵抗する行為も、「自分達だけ救われれば他はどうでもよいのか?」という疑念が生じる可能性を免れない。したがって、Black Lives Matterのように被差別者を括って支援する際には、それが戦略的な括りに過ぎないこと、及び、より望ましいと思われる括らない支援が現実的な手段でないこと、を十分に留意した発信のもとで活動に臨む必要があるだろう。

 本記事を通して筆者は、Black Lives MatterとAll Lives Matterの論争を読み解くために、多様性の推進活動と被差別者の支援活動の考え方における違いの整理を行った。人をアイデンティティで括るべきでないとする前者と、人をアイデンティティで括る後者は、相反するようにも見えるが、必ずしもそうではないと筆者は考える。むしろ、括らない世界を目指す過程では、戦略的に括るという方法が有効な手段であることを本記事で説いた。また、上述の通り、両者の考え方を理解して初めて、片方の活動が充実し得るとも考えられる。差別のないより望ましい社会の実現のためには、今後も両者が手を取り、適切な相互理解のもと、活動を進めていく必要があるだろう。

 Black Lives Matterのような差別反対の運動に対し、どのように参画すれば良いか悩んでいた方や、差別問題に対する関心が薄れかけていた方に、この記事が届くことを祈って。

注釈集
[1]George Floyd氏を押さえつける警察の映像や、デモ隊と警察の衝突に関しては、以下のようなまとめ記事(日本語)がある。ただし今回の件に関して、メディアによっては慎重な姿勢を取る報道や(国外では尚更、他国の権力批判は容易にできないと思われる)、過激にどちらかに偏るような報道(米Fox News等)が、混在している。ぜひ、たくさんの記事や当事者の声明(Twitter等)を自ら探し、怪しいものは信憑性のある原典を探して、ファクトチェックする習慣を身に着けてほしい。
ご参考用(2020年7月7日):https://www.businessinsider.jp/post-213869

[2]以下、赤ちゃんの名前のアイディアを探すサイトにて、「この一人ひとりが誰かの赤ちゃんだった(Each one of these names was somebaody's baby)」というメッセージのもと、警察を中心とした不当な暴力により殺害された黒人の方々のリストが載っている。この運動については、米CNN等のニュースでも取り上げられている。
ご参考用:https://babynames.com/about/black-lives-matter.php

[3]米国ではその土地が抱え込む多様性故に、黒人に限らず深い差別の歴史がある。黒人差別に関する歴史を部分的に取り上げたドキュメンタリー等資料(英語)については、以下の記事にまとめられている。
ご参考用:https://www.washingtonpost.com/nation/2020/06/08/understanding-racism-inequality-america/?arc404=true
日本語のまとめ記事では、以下のようなForbes Japan誌のもの等がある。
ご参考用:https://forbesjapan.com/articles/detail/35176

[4]後述の通り、本記事では主に構築主義(Constructionism)と呼ばれる立場からダイバーシティの考え方を示す。

[5]後述するが、学術的にこれは戦略的本質主義(Strategic Essentialism)と呼ばれる立場となる。本質主義は一般的に構築主義と対立するような概念となるが、「戦略的」本質主義はそうとは限らない。本記事では、構築主義と戦略的本質主義のそれぞれの立場と関係性をなるべく平易な言葉で整理することを目指している。以下は、それぞれの主義の解説記事(日本語)である。
ご参考用:https://liberal-arts-guide.com/essentialism/#2-3

[6]構築主義の中でも理想の掲げ方は一通りではないが、多くの人は「個人を個人として尊重する」という点を重視していると思われる。これは決してアイデンティティの剥奪という議論ではなく、あくまで外から表層的にアイデンティティを捉えることを辞するという意味である。

[7]PCという言葉の変遷と、トランプ政権確立の関係性が解説されている記事(英語)は以下のようなものがある。
ご参考用(2020年7月6日閲覧):https://harvardpolitics.com/united-states/phrase-flux-history-political-correctness/

[8]ご参考用(2020年7月6日閲覧):https://southpark.cc.com/full-episodes/s10e04-cartoon-wars-part-ii

[9]マイクロ・アグレッションという言葉自体は、1970年代に当時精神科医であったChester Middlebrook Pierceが概念化したのが最初といわれている。当初その焦点は人種にあり、Pierce自らが黒人であるとともに、マイクロ・アグレッションに苦しむ患者を相手にしてきた経験から、それを定義づけている。上述のSueらによる定義は、その概念を人種以外の議論へ拡張したものと言える。

[10]マイクロ・アグレッションの概念や、日本における事例については、在日コリアン女性の金友子さんの記事(日本語)を読むと理解が深まると思われる。
ご参考用(2020年7月6日):https://www.jinken.ne.jp/flat_special/2019/12/post_38.html

[11]ピュー研究所(米)による2017年8月の世論調査では、米国民の71%程度が大学等の教育機関におけるアファーマティブ・アクションを肯定的に捉えているとされている。
ご参考用(2020年7月6日閲覧):https://www.pewresearch.org/politics/2017/10/05/4-race-immigration-and-discrimination/

[12]米CNNでは、All Lives Matterを掲げた集団のうち二名が、Black Lives Matterのデモ参加者たちの前で、George Floyd氏の殺傷現場を再現し、デモを嘲笑するシーンが報道されている。二名はこの行いにより、それぞれの雇い主から解雇処分を受けたとされている。
ご参考用:https://edition.cnn.com/2020/06/10/us/all-lives-matter-reenact-george-floyd-black-lives-matter-trnd/index.html

[本文中に引用した参考文献]
・Sue, Capodilupo, et al. (2007) : Racial microaggressions in everyday life: Implications for clinical practice, American Psychologist, 62(4):271-86

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