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『怖い先生』について、雑感

長年習いに来てくれている中学生の生徒のレッスンの後、お茶を頂きながらお母様とお話をしていて、ひょんなことから『怖い先生』の話になったのだが

「そういえば数年前に先生が産休に入られた時代講でいらした〇〇先生ね、実は結構厳しかったんですよ…ちょっと弾けないと『あ、もういいから』ってサクっと言われたり…最初からあの先生だったら、うちの子続いてなかったかも…」

と数年越しで打ち明けてくれた。
その先生は教室側が手配してくれた先生で引き継ぎのレッスンの時が初対面だったのだが、明るくて可愛らしい印象だったので意外だった。まあ先生同士で話すのとレッスンで生徒に指導するのとでは当然別の顔になってもおかしくないが。

さて、翻って私は
『怖い先生』『厳しい先生』と思われることは多分、滅多に無い。
自分自身があまりそういうタイプの先生に習ってこなかったことと、怖い雰囲気の人や口調のキツい人がそもそも苦手なので(得意な人もいないと思うけど…慣れる人はいるらしい。私は慣れられない)生徒さんの技術的な問題点を追及するときに『怒る』『厳しく言う』という選択肢は私の中で優先順位としてかなり低い。その手段にメリットをあまり感じないからだ。

よほど心臓に毛の生えた人でない限り、レッスンというものはそれだけで緊張するしおっかないものであると思う。
家で練習してきてもレッスンで同じように先生の前で再現できる生徒さんはほとんどいないだろう。(人前でも同じように弾けなければ弾けているとは言えない、とかいう話はプロの間だけで言ってればいい)
そんな生徒さんたちにさらに怒ったり厳しくしたりしたら、さらに萎縮してしまってフォームはガタガタ、音色もヨレヨレになってしまう。まだ取得していないはずのビブラートが全身にかかってしまう人もいるだろう。
その状態に対してやれ全然弾けてないだ下手くそだと言ったって
その『下手くそ』を作ったのはどちら様ですか?と思ってしまう。

画像1のび太のパパがもっともなことを言っている。

もちろん、問題点と解決方法、練習法はきっちり指摘、アドバイスしていく。『趣味の生徒さんは楽しくやれればいい』というのは大方正しいのだが、捉え方を間違えるとただの無責任になってしまう。

なので、ごくごく普通に常識的に通い続けてくださっている生徒さんに対して、演奏技術の問題に腹を立てたり、怖い態度をとることはほぼ、ない。
私が怒るとすれば、演奏技術の問題ではなくレッスン時においての非常識な振る舞いである。私の話を聞かないで間違ったやり方で弾き続けたり、弾いてみましょうと言っても自分の話ばかりし続けたりなど、とにかくコミュニケーションに難のある場合は穏やかではいられなくなる。まあそんな人はしばらくすると勝手に辞めていってくれることがほとんどなので、『生徒さん』としてカウントはしていない。

怒られる=怖い、では無いこともある。
私が一番長く習っていた先生はあからさまに怒ったり怖いことを言う先生ではなかったのだが、

普通にそれなりに練習して行くと少しトチったりしてもすかさず私の演奏を止めて「そこはね、こうこうこうして・・・」などの指導をしてくれるのだが、あきらかに準備不足の状態でレッスンに行った時は弾き直そうと音程を外そうと一切何も言ってくれず、私のことを見ようともせず、ずっと窓の外を眺めていた。
そしてやっとの思いで最後まで弾き終わった私に一言、

『わかるわね?』

と言うだけでレッスンは終わった。
『一切何も指摘されない』ということの怖さと悲しさが身にしみた出来事だった。

そのことがあってからしばらくして、谷崎潤一郎の『春琴抄』を読んでみたら、その状況にそっくりの描写があって『うわぁコレだよコレ!!』となった。

春琴は日によって機嫌のよい時と悪い時とがあり日やかましく小言を去うのはまだよい方で、黙って眉を輩めたまま三の弦をひんと強く鳴らしたり、または佐助一人に三味線を弾かせ可否を去わずにじっと聴いていたりする。そんな時こそ佐助は最も泣かされた。


『滅多なことでは怒らない』という私のこのスタンスは実は、自分の中では胸を張れるものとは思っていない。
現時点の私の性格と思考ではそれしかできないから必然的にそうなっているのでこうして書いてみたが、さらにもっと深く追究したら叱咤しつつ、されつつ続いていく師弟関係の素晴らしさを見出す日が来るのかもしれない。

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