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10年前、自分は決して手に入れられないと拗ねていた『しあわせな風景』の中に 今、疲れきった私はいる

少し時間が経ってしまったが、年末の慌ただしいある日感じたことを。

その日も私は朝から冴えない主婦をやっていた。
子供達を送り出し、嫌々ながら家事をやってこっそりサンタ業の準備をして、学期末で短縮授業になった上の子があっという間に帰ってきたらお昼には子供が食べたいという物をリクエストに応えて作り、やっと自分の分も出来上がって食べようとしたらなぜか勝手に冷蔵庫を開けた子供が卵のパックを落下させる。思わず声を荒げてしまう。
イライラしていると今度はもう習い事の時間が迫ってくる。子供をせっついて準備させて家を出て習い事に行く。終わったら今度は下の子のお迎え。帰りたくないとダダをこねられ園を出るまでにも一苦労。

もう疲れた。
こんな毎日全然楽しくない。
どうして私ばっかり。
こんなはずじゃなかった。

疲れた時に必ず湧き出てくる負の感情をまといながら重い足取りで子供達の手を引いて暗くなりかけた道を歩く。そんな私の心を知ってか知らずか、すっかり機嫌を直した下の子が『あわてんぼうのサンタクロース』の変な替え歌を歌い始めた。

その時、夕闇に紛れて私たちのことを見ている誰かがいる気がした。

それは・・・10年前の私だった。
膝上丈のスカートにヒールの靴、髪も肩下のハーフアップで、メイクもそれなりに頑張って週6でレッスンの仕事三昧だった時の、楽器ケースを背負った私の幻影が、怒ったような悲しいようななんとも言えない表情で私たち親子を見ながら、すれ違っていった。
あの頃の私は、こんな風に子供と手をつないで歩いているお母さんを見るたび、『自分には決して手に入れられない幸せ』だと感じて辛くなっていた。
私がその時見かけたお母さんだって、死ぬほど育児に疲れていたかもしれないのに、羨ましくて苦しくて、勝手に惨めになっていた。

私は今まさに、あの頃の私が手に入れられないと思っていて、だからこそ嫌悪すらしようとしていた『しあわせな風景』の中にいるのだと急に思わされたのだ。
こんなに不自由で閉塞感半端なくてイライラして消えたくなる毎日なのに。

あの頃と今と、本当に『しあわせ』なのはどちらなのだろうか。
どちらも?それともどちらもそうでない?

確かなのは、今は両手が小さなあたたかな手に握られているということ。
それ以上のことは、わからない。


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