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隠淪医
2022年6月12日 20:19
≪失っていく過程≫施設に何年もいることになった母は自宅に帰りたがった。父は「帰ってどうするだ」といさめていたが、父だって帰りたかった。母は「おじゃんぼん(葬式の方言)で帰れる」と言って諦めていった。その後、父に言われたのか帰りたいと言わなくなったのが却って哀れであった。遠方で働いていた私は医師を辞めて帰ることも考えたが、地元にいた兄が亡くなったばかりであり、兄の妻もがんで入退院を繰り返してい
2022年6月13日 21:51
父は敗戦後4年間シベリアに抑留され、1949年にぼろぼろになってやせ細って舞鶴まで帰って来た。農家の3男坊であった父は、5人姉妹であった母と結婚し婿養子となった。父も母も働き者であった。米作り、養蚕、たばこの葉栽培、加工トマト栽培、朝から夕方暗くなるまで働いていた。子供も働いた。日差しで温められた脱穀後のわらの上で寝てしまった気持ちよさを覚えている。桑の葉をもぎ取り、トラクターにあふれんばかりに