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人生を二つに分けるとしたら

32年前の明日からゴールデンウイークという金曜日の深夜。当時勤務していた広告代理店制作部の歓迎会が終わりに1人暮らしの中野南口の自宅マンションに帰った途端に電話がなりました。57歳の母が居間で亡くなっているいると兄の声が受話器越しに聞こえました。今日みたいな陽気で春から初夏に変わるときでした。心不全でした。

母は6人兄弟の末っ子で鼻が低くて、頬骨が高くて、エラが張っていて北関東のそのエリアには多い顔つきらしいのですが娘から見てもお茶目で明るかったのです。声が前向きで、全然ひにくれていなくてお母さんというコトバのイメージそのまま。朴訥で贅沢はせず派手な暮らしは好まず家族思い。普通のサラリーマンの妻の普通の母でした。私が着なくなった服も「おあがり」と言ってもったいないからとよく着ていました。

私服の都立高校時代。裁縫と編み物が得意な母に手作りの服やセーターを作ってもらっていました。母はお嫁にきてから25年近く目が不自由で口がきつい姑。祖母の世話をしていました。壮絶な自宅介護から卒業して9年目の春に亡くなりました。

当時実家には父と弟と3人で住んでいました。当時父は現役のサラーリマン。弟は社会に出て2年目。金曜の夜で給料日後なので帰宅がほぼ終電。携帯のない時代自宅の家族の突然死を知らせる手段は自宅の留守番電話でした。亡くなる前日に兄夫婦が初妊娠したことを知りとても嬉しかったらしく最後の買い物は赤ちゃんの産着でした。


母が突然亡くなり誰もがその瞬間を見ていないし、私の場合は自宅を出ていたのでそれが信じられずお葬式が終わっても受け入れられないことがありました。なんとなくスーパーに行くと母を思い出してしまうのでしばらく行けなかったのです。

人生が2つに分かれるとしたら「お母さんがいるときといないとき」だと思います。お母さんは永遠の味方。一緒に住んでいる人も住んでいない人もお母さんに連絡してあげてください。花を贈るだけもいいと思います。父は4人兄弟、母は6人兄弟。母の命日に、唯一生きている母のお姉さん花を贈りました。母の分まで長生きして孫たちを愛してほしいと。33回忌は昨年父の7回忌とともに済ませました。

コロナが明けました。おかあさんに会いに行ってください。「お母さんがいる」。「お母さんが好き」これだけで幸せなれます。幸せになるために産んで育ててくれた人が元気だということが一番の幸せです。

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