見出し画像

人生で一番熱い夏のこと

昭和47年。51年前。11歳の夏。私の夏休みに奇蹟みたいなことが起こりました。3年だけの期間限定の転校生とは知らずに山口の瀬戸内海の美しいのどかな港町、柳井市郊外のドがつくほどの田舎の平屋の小さな社宅に暮らしていました。

私の住む小さな集落は小学校までは歩いて片道30分。汗でランドセルの赤がシャツについてしまうほどの過酷な暑さ。夏休みのラジオ体操の会場は近所の柳井高校。10人くらいの小学生が集まって、毎朝首からラジオ体操カードを下げて、ラジオ体操をしていました。

ラジオ体操には、会場の高校の野球部の寮のお兄さんもいました。島が実家で、高校に通えない生徒が、野球部の寮で暮らしていました。野球部に入りたくて寮生活ではなく、寮に入るために野球部も選んだ方もいたそうです。牛や馬が田んぼを耕すような田舎です。

野球部のお兄ちゃんたちはみんな優しく、小さな駄菓子屋で一緒にラムネやホームランバーを買い食いしていました。野球部の練習や監督はさほど厳しくもなく、いつも伸びやかでのんびりとした空気が漂っていました。

ラジオ体操が始まる7月くらいから甲子園の予選がはじまりました。18人もいない野球部はあれよあれよと勝ち上がって、遂に甲子園出場が決まったのです。一番驚いたのは本人たちでした。

彼らはそこまで勝ち上がるなんて思っていないので甲子園に行くための旅費を集めるのが大変だったよう。柳井市の市民はアワアワと嬉しくも忙しい夏を過ごしていました。普段近くにいるお兄さんが甲子園に出るというより、テレビの中にいることにワクワクしました。

そして甲子園に行ってからも負けないでどんどんと勝ち進み、1972年8月22日の準決勝は7 - 2 で高知商業に勝ってしまったのです。あのとき柳井の街には1人もおらず、みんなNHKに釘付けでした。あれほど甲子園を真剣にみた夏はなかったです。海水浴場にも誰もいませんでした。がらんとなった舗装されていない道から陽炎がたっていた夏の午後を覚えています。人生で初めて高校野球に熱狂した日です。

柳井高校が一回も負けないで甲子園の決勝のテレビに出ているのが不思議で夢のような時間でした。8月23日の決勝で津久井高校に敗れました。控えの選手もいないチームがここまできたのが奇蹟です。感動しました。スターもいない。地方予選さえ下馬評に名前が上がらないチームがチームワークだけで勝ち上がりました。野球の神様に会えました。

準優勝したけど、スター選手がいないから卒業後にプロや大学のスカウトもあまりなく高校で野球をやめた方もいたそうです。毎日会っていたお兄さんがまさかがテレビで活躍しているなんて本当に夢みたいでした。私も甲子園の砂を、小さなガラス瓶にわけてもらいました。嬉しかったです。

あれから半世紀以上。今丁度70歳くらいになっている柳井高校の野球部の選手の方はどうしているのかわかりませんが、確実に私たちを熱くしてくれました。出たヒトも見るヒトもここまで熱狂できるのは凄いです。

一度しかない高校時代。スポーツに打ち込むの時代を超えて素晴らしいこと。青春時代はキラキラしています

この記事が参加している募集

夏の思い出

高校野球を語ろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?