複雑な社会を生き抜く手段としてのミニマリズム――橋本努『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』筑摩選書

私は、資本主義の限界を感じている。地球を無限に搾取し続けることはできない。モノを消費し続けることも、情報やサービスをふくむコトを消費(体験)しつづけることも、できない。人口増加と経済成長を前提とした国造りを目指すことも、なかなか難しい。資本主義の限界を感じている。では、そんな資本主義の先へどうやれば進めるのだろう。「脱成長」「低成長」「ポスト資本主義」「資本主義の外部」など呼び名は様々あるが、資本主義に限界を感じている論者は、資本主義のその先を模索する。

本書はミニマリズムに注目する。不要なモノを捨て、ほんとうに必要なモノは何かを追求し、モノに振り回されないライフスタイル=ミニマリズム。その系譜、種類、代表的なミニマリストを紹介する。「勤勉と解放の近代」「記号的消費のポスト近代」、文化的な成熟・洗練、地球との調和をめざす「ロスト近代」に現在が突入したといい、ロスト近代の倫理としてミニマリズムの可能性を検討する。ポスト近代はすでに批判されている。その批判を超えた先に、ロスト近代を位置づける。

ポスト近代への批判とは次のようなものだ。モノからコトへ、情報・サービスが主な消費対象となるが、記号的情報は記号的実体=物質を必ず必要とする。自己顕示的なものもふくめて記号的な消費活動が活発になればなるほど、情報が付着する物質は増えていく。これを「物質化のパラドックス」と筆者は呼ぶ。生存や文化的生活に最低限必要な必需品=ニーズが満たされた次は、欲しいもの(欲望の対象)=ウォンツを生み出す。市場にとって大事なのは、ウォンツをニーズと「思わせる」ことだ。消費者はウォンツは我慢できても、ニーズは我慢できない。ニーズをウォンツと誤認させるレトリックが要請される。さらに高度消費社会で消費者がモノやサービスを買ったとしても、その人の幸福や満足に必ずしもつながらない。満足度は少しあがるかもしれないが、商品にかけるコストに比べて、微々たるものであったり、一瞬であったりする。社会が近代化していくなかでニーズが満たされていく時の幸福度の上昇と、社会がポスト近代化していくなかでウォンツが満たされていく時の幸福度の上昇は、明らかに異なる。これは生物としての人間が感じられる幸福に、物理的な限界があるからだろう。モノは0から1にすることはできても、モノが2倍になったからといって、1が2になるわけではない。「ごはん」と「おいしいごはん」の幸福度(満腹度)への貢献度は、値段ほどない。ほかの人との差異を示す顕示的消費は、ポスト近代社会になると差異化の軸が記号的・情報的・抽象的になるので、発想として問題があるのだ。

ミニマリズムは、「自己のアイデンティティとしてモノを所有する」という発想をしりぞける。自分のたりない部分をモノで補おうとしても、モノを手に入れた瞬間、自分が念願のそのモノに触れた瞬間に、モノは不完全なモノとなり、結局は自分のアイデンティティのあいた部分に収まらない。また別のモノが欲しくなる。自分がモノを買うのではなく、モノに自分が買われてしまう。モノはたとえそれが手に入りにくいモノであったとしても、市場で売買される以上、誰にでも開かれていて、自分が手にしても自分のアイデンティティの一部に(すぐに)なるわけではない。大事なのは人間関係、経験、時間といったお金では買えないものだ。モノを減らして、モノに関係する時間(労働、家事、買い物など)を減らし、できた時間で自分や自分の大切な人・モノと向き合う。それがミニマリズムである。細かい流派はあるようだが、大まかな主張はこうなる。筆者はミニマリズムを禅の思想と結びつける。

筆者が素描する「脱資本主義の精神」は次のようなものだ。「賃金のために勤勉に働き、貨幣で買える商品を欲望するという私たちの生活スタイルを拒むこと」「資本主義の延命策に反対するもの」「高価で大切なものを無価値なものへ変換する贈与のスカトロジー効果と親和的」「脱成長論と親和的」「電脳技術を用いて資本主義を変容させることに関心を示す」。筆者の主張で興味深いのはウェーバーの「資本主義の精神」(元祖)は、じつはミニマリズムと親和的ではないか、というものだ。私はウェーバー未読なので、筆者の主張を検討できない。が、筆者のいうとおり「もっぱら労働にうちこんで、消費に関心がない」であれば、この可能性は十分にあるのだろう。

社会は複雑である。社会は速い。加速主義的にもっと速くもっと速く、と私たちが動いても、動けば動くほど複雑さに絡み取られてしまうのではないか。となると、おそらく「単純化」が戦略的に有効だろう。ただし、陰謀論(陰謀物語)的に、複雑な話を簡単な話にする、というのではない。求められるのは、別のアディクションではない。不要なモノと、モノに付着する情報を捨てて、できた時間で自分と自分の大切なものを見る事。ある種の静寂。Simple Lifeは、「単純な暮らし」ではなく「質素な(ていねいな)暮らし」のことだ。

ミニマリストはアップル製品が好きなようだ。ジョブズが禅を実践し、彼のデザイン思想もミニマリスト的だからだろう。「電脳技術」は脱資本主義の可能性かもしれない。しかし、そうではないかもしれない。テクノロジーは、スマートフォンを経由して、私たちの身体と幸福を支配する。カバナス&イルーズ『ハッピークラシー』や、クーケルバーク『自己啓発の罠』はそのように警告する。ジョブズはSNSを使っただろうか?(※これは反語ではなく、単なる疑問。ネットでググると使った使ってないの情報は出てくるが不確かなので、どなたか確たる情報を知っていたら教えてください。)ジョブズがスマートに設計したアップル製品(特にiPhone)は、ミニマリズムの可能性なのか、それとも不可能性なのか。


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