マーク・クーケルバーク『自己啓発の罠』書評ーー自律的でもなく他律的でもない関係的な自己

突然の質問で恐縮だが、皆さんは自己啓発本を読まれるだろうか? 私は、ほとんど読まない。自己啓発本を読むのは「ちょっとイタい」と思ってしまうからだ。メタ自己啓発本は好きだ。最近では牧野智和『日常に侵入する自己啓発』やレジー『ファスト教養』に大いに触発された。しかし、実は自己啓発動画はよく見るのだ。良くといっても週1本10分程度。英語系の自己啓発動画を「英語の勉強」と称して見る。procrastinate「先延ばしする」という単語も自己啓発動画で覚えた。もっとも、使うのは「こんな自己啓発動画を見ているよ」という時(つまり今)だけだからだ。好きな自己啓発系インフルエンサーがいて、彼女が紹介する効率化のtipsは、なんとなく参考にしたり・しなかったり。彼女は自己啓発本をネタ元にしているので、インフルエンサー経由で、間接的読書はしていることになる(ファスト教養のファスト化!?)。

自己啓発動画を好きな理由は、その動画を見ている間は自己を啓発している気分になるから。本来ならば、動画を見終わった後にどうするかが大事なのだが、動画は(そしておそらく本も)そこに没入している間が効果マックス。サスペンスフルな物語を読み進める読者は、結末に驚く自分の姿をイメージしながら、ページをめくるが、自己啓発の場合は本・動画を終えたあとの自分が「啓発された自己」となっている姿をイメージして、本・動画を楽しむ。繰り返すが、大事なのはその後だ。だが、楽しみはそこにない。

さて、今回紹介したいのはマーク・クーケルバーク『自己啓発の罠 AIに心を支配されないために』(青土社)だ。筆者は現代社会の自己啓発クライシスに警鐘を鳴らす。

文化としての自己啓発の歴史は古い。古代ギリシャの哲学者は、より良い生とは何かを深く考えていた。近代になり自由意志をもった自立した自己像ができ、他方でポスト近代にはいり外部(社会、環境、テクノロジー)が規定する自己像も生まれた。古来からの自己啓発文化が、テクノロジーによって自己を徹底管理することでより良い自律的な自己を形成することができるという現代的自己啓発文化へと超進化したのだ。フーコー的生権力を持ち出すまでもなく、今日の人々は、労働者としてますます自発的に資本へと隷属する。職場では労働者として身体から感情まで搾取されるが、家庭では余暇時間を使い「より良い自己(労働者)」になるべくせっせと自己啓発に勤しむ。資本が今日ほど、労働者を統治しやすい時代は、果たしてあっただろうか。

私たちの自己啓発活動はテクノロジーにより、数値化される。啓発されるべき自己が、数値へと矮小化され、積極的な働きかけが可能な対象だと誤認される。数値となれば他の人の数値と比べられ、競争に勝つことによってのみ自己が啓発されると思うようになる。

しかし、そもそも自己とは関係的なものであり、完全に自律的でも完全に他律的もないはずだ、と筆者は注意を促す。関係的、という言い方が面白い。社会的、とはいわない。おそらく英語だと社会的はsocialと表現するしかなく、socialはもはや社会的とは言えないのだ。日本語だと「社会的」と「ソーシャル」は使い分けられる。「ソーシャル」は「社会的」よりも軽薄だ。SNSっぽいニュアンスが入ってくる。関係的とは、自分の中に自分では決められないものがあること、自己を「語る」という行為と不可分だとすること、人間は人間だけで完結せず環境や社会と関わっていること、関係的自己をつきつめると脱人間的な自己に行き着くことを意味するのだ。

とはいえ、筆者はテクノロジーを否定しているわけではない。自己啓発クライシスの原因にテクノロジーと自己啓発文化の悪魔合体があることは認めつつ、テクノロジーは解決策にもなり得るのだ。人文主義は、本というメディア=テクノロジーの産物である、と筆者は指摘する。そもそも人間はテクノロジーを駆使する生き物だ。問題なのは社会なきテクノロジーであって、テクノロジーそれ自体ではない。後半の議論はポストヒューマン論(への批判)でもある。

自己啓発文化に懐疑的な人はもちろんだが、自己啓発が好きな人、ハマっている人、ハマりすぎて疲れてしまっている人にも、この本を読んでもらいたい。啓発されること間違いない。自己啓発が当たり前の出発地点にしている自己それ自体を考えているのだから。

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