「幸せ」であることの何がいけないのか?――エドガー・カバナス&エヴァ・イルーズ『ハッピークラシー』(みすず書房)書評

本書は、ポジティブ心理学が経済学と合体した結果、個人が「幸せであること」が経済的な価値をもち、良き労働者たるために自ら幸せになる努力をし続けなければならない社会、幸せが統治の原理(クラシ―)となった現状を解き明かす。「幸せ」であること/あろうとすることの何がいけないのか? 不幸よりも幸福のほうがずっと良いだろう。確かに。しかし、その幸福とはどういう状態なのだろうか? 

筆者たちがまず指摘するのは、幸福が「個人の気の持ちよう」に矮小化されてしまうことだ。マズローの欲求段階説では、安全の先に自己実現があったが、ピラミッドは転倒し人は不安提な社会環境でも幸福という自己実現を求められる。ホームレスの人も、金持ちも、幸福かどうかは個人の気の持ちようだとポジティブ心理学は言う。そんなことあり得るのか?

それに、「幸福」の定義もあいまいだ。心理学、特にポジティブ心理学と呼ばれる学問・学会が様々なテストを実施し、人々の幸福度を測定、「これをするとあれをしないより幸福度が〇〇%高い」といった結果を出す。が、この測定方法は観察結果は、どこまで科学的妥当性があるのか。ポジティブ心理学が提唱する説のいくつかは科学的根拠がない/薄い「俗説」でしかないと、本書では指摘されている。

さらに、ポジティブ/ネガティブと人間の感情を分かりやすく二分し、立った二つの要素に還元し、かつ一方が善で他方が悪とレッテルを貼っている。人間の感情はたった二つに還元できないし、一方が常に善で他方が常に悪と決まっているわけでもない。例えばネガティブとされる不安や恐怖から、その個人にとって何か新しいものが生まれるかもしれない。あるいは、戦場で傷つき深いトラウマを抱える兵士に、「トラウマを克服すると成長するのだ」(心的外傷後成長)と説くのは、善いことなのか。

本書の指摘はもっともで、納得しながら読めた。しかし、正直いえば、本書を手に取る前は、「職場で明るく振る舞うことで自分を含めた周囲の生産性があがる」「職場でうけるストレスのマネジメントを自分でやるのが大事」「労働環境で自分の力では変えられないどうしようもないものは、うまくやり過ごす(スルー)する」といった、一労働者の「処世術」が自分の深いところに根付いていた。いまも根付いている。不機嫌な人の近くで働きたくないし、現状への不満しか口にしない人とは建設的な議論ができない。労働者のケアをしてくれない職場であれば、自分以外の誰が精神の平穏を守れるのか? と思う。本書を読む前も読んだ後も、現状が大きく変わるわけではない。

それでも、本書が教えることは重要だ。安易に楽観主義に飛びつき希望を語らないこと。自分の中でうまく言語化できないネガティブな感情群を大事にすること。ケアを個人に丸投げしている社会状況を批判的に検討すること。「結局は、自分の世話は自分でするほかない」と私は思っているが、問うべきは「自分の世話」とは何か、だ。自分は真空地帯に突如として出現する独立・自律した存在ではない。周囲の人と、置かれた環境・社会と接しながら、自分の外縁が作られていく。その上での「自分の世話」のはずだ。自己啓発やコーチングが、自分にしか焦点をあてないなら、いつまでも未完のプロジェクトであり、ビジネスとしては転職や婚活アプリのように使われ続けるため良いのかもしれないが、自己にしてみれば永久的にダメ出しされ続けるわけで、(サルトル的な)地獄である。

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