すべてがカッコつきの「教養」とされうる社会で――三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)

タイトルに惹かれて読んだ。ちまたでもだいぶ話題になっている様子。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか?」 …たしかに謎である。労働時間が長く肉体的・精神的に披露しているから、というのがパッと思いつく答えだが、果たしてあっているのか。映画『花束みたいな恋をした』で、文化系男子の麦が夢をあきらめ就職したことで、パズドラをやり自己啓発本を手にするようになった印象的なシーンがあり、筆者もこのシーンに言及している。筆者は明治以来の日本の労働史と読書史をひもとくことで、この問いに答えようとする。

かつて本を読むことはエリートになるための「教養」であった。教育を受けられるものが限られていたから。しかし、教育の裾野が広がるにつれて、エリートとノンエリートに労働者も分かれていく。エリートには「教養」が、ノンエリートには自己啓発的な「修養」が割り当てられる。教養とは階級の差異を示す指標として機能していたようなのだ。教養と修養という区分が有効だったのも、読書する層が厚くなっていったからだ。

時は下り、2020年代。筆者は「トータルワーク」や「疲労社会」という言葉を参照しつつ、労働に「全身全霊」打ち込まなければならない現代の状況を説明する。もちろん、ブラック企業が労働を強いる側面もあるのだが、それ以上に「自己」啓発的に、労働者は自分の時間を自発的に使い、「より良い労働者」たらんと努力する。労働が社会を覆う(トータルワーク)あるいは労働の外部がなくなる。それが現代である。そのような社会では、欲しい情報を得るのに邪魔なノイズ(文脈)がまざる「読書」は忌避されるのではないか。読書は読書でも、自己啓発的なもの、あるいは仕事と関係のある情報収集としての「読書」は行われている。もっと、脱目的的で、雑多な文脈と接続可能な「読書」はノイズであり「働いていると本が読めない」。これが筆者の主張だ。

「教養としての〇〇」が隆盛している(レジー『ファスト教養』)。〇〇には、かつて教養とはみなされなかったものが入る。(例えば「SF」!)なぜ、かつては教養とされなかったものが、今では(比喩的な要素もあるとはいえ)教養と称されるのは、教養がもっていた階級の指標機能が弱まってきたからだ。階級間の差異を示すのではなく、もっとべったりと市場という広い空間で、金を稼げる・稼げないの二択に物事の評価が縮減され、教養が位置づけられる。金を稼げれば教養、金を稼げなければ教養ではない。教養とされていなかったものも、それで金が稼げる(広い意味で、経済的な富をもたらす社会的ネットワークを構築する)ことができれば、教養と呼べるのだ。この金を稼げる・稼げないのモノサシが(かつての読書)を「情報収集」と「ノイズ」に分けるのだろう。

自己啓発系・情報収集的読書を「ノイズ」がないものと定義する筆者の発想は興味深い。というのも、自己啓発系の読書は依存性のある行為ではないか、と感じることがあるから。私自身は自己啓発系の本はほとんど読まないが、YouTube動画をせっせと見ていたことがあった(英語の勉強と称して英語で見ていたが)。なんか、ハマってしまうんだよなぁ…。なんだろう、あの常習性・依存性。ノイズ(不純物)をそぎ落とし、脳にダイレクトに届く感じ。でも、読み終わったら(見終わったら)効果は薄れるので、また摂取したくなる。しかし、自己啓発の本・動画を見ている限り、行動は変わらないので、また摂取しなければならない…。昔から、自己啓発はあったといえばあったが(牧野智和)、強度が増していないか。仕事の疲労と自己啓発系で吹き飛ばす…って、依存ぽくないか?

私自身も、一見すると「無駄な」読書を、ゆっくりと楽しみたい。自分とはことなる文脈に自分を浸し、おもいっきりノイズにさらされたい(それが時に不快でストレスフルな経験だとしても)。筆者の読書論や労働観に同意する。しかし、インターネットの平面上で良い読書/悪い読書の判別をしているという疑念がぬぐえない(これは筆者というより自分にむけて書いている)。大事なのは心身のバランスだと思うが、読書する人としての自分が成長することを信じながら、「文」の「脈」を太く広くひろげていきたいものである。


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