幽霊の2文字が消えた理由

相貌から血の気を脱色させた男が、駐在所に駆け込んだ。

甚平が乱れて一枚の布きれになって、布どころか両足をキリキリ舞にもつれさせ、男は危うげな足つきで床に倒れ込んできた。警官たちが駆け寄るが男は床を這ってヒィヒィと情けなくブタのように鳴いている。

「そこに足のない女がおった、足ねぇ女が……やなぎの木のシタに!!」

狂乱して叫ぶ。男は船乗りだった。

近頃、海を捨てて東都にあがってきたが、生粋の産まれながらの漁師であって父も母も漁師と海女だった。だから、彼はほかに言葉を知らなかった。

「ニンギョじゃ!! ニンギョが化けてでてきおった!!」

まだ東都でも電機類が普及していない、夜の闇は月が支配する時代。ロウソク入りの提灯を手にする警官たちが男を照らす。

ニンギョ、ニンギョ、男は叫んだ。騒ぎを嗅ぎつけて臨時駐在所にネタ探しで通い詰めるある記者が、月の支配する冥暗よりどこからともなく現れた。酒くさい。

「なんじゃあ、詳しく聞かせろい!!」

「ニンギョを見たじゃあ」

男は男泣きしながらやなぎの木の下にヌボおんと背を丸めて突っ立っていた、足のない女の話をする。女はニンギョだから足無いんじゃ、ニンギョつうもんは、上半身は女で、下半身は魚で、……記者は墨を走らせて証言を手元で記録する。翌週、ニンギョ現る、おどろおどろしい見出しが新聞の一面に乱舞した。ニンギョは足が無いと記事は語る。なにせ足は魚であるから、陸にあがるにしたがって萎んで枯れてしまったと衝撃的な目撃者の証言を列挙した。センセーショナルに。

以来、この世では幽霊という単語はなりを潜めて代わりに人魚の2文字が跋扈している。

なにせ足が無いので。

人魚は世にあふれて、けれど誰も捕まえることができない人魚だらけで、日本全国に人魚はわらわらと目撃された。人魚を捕まえて食えたら不老不死になれるなんて人魚伝説は漁村を始めとして各地に残っていたから、2020年代になった現在でも、人魚を捕まえようと多くの人間たちが廃病院やら廃墟、ながすぎるトンネル、ひとが死んだ場所、呪われている忌まわしき土地などに突撃する。でも誰も、人魚は捕まえられない。人魚はそういうものになった。

代わりに、幽霊の2文字は棄てられた。そんなセカイの話。


END.

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