気の違ったお婆さん

忘れものはない。そのはず。だけれも齢90を超えてふと、私は少女だったころの初恋のあのひとを思い出す。どうして忘れていたのだろう。あんなに好きで毎日をあの人のすがたばかり、思い描いてはうっとりしていたのに。どうして忘れていたんだろう。あれほど好きで思い焦がれて、あのひとが怪我して選手生命を断たれたとき、わたしが代わりになってあげたいと思ったのに。あのひとがやさぐれて学校に来なくなってゆき、人相の悪い男たちといっしょに町で肩をはって歩いているのを見つけたとき、呼び止めたかったのに。どうして、できなかった、あの後悔を忘れていたんだろう。どこかの誰かを妊娠させたと聞いた。それでわたしは涙した。もっとわたしが犠牲になれてあのひとを救えていたら、あのひとの逮捕のニュースなんて見ずに済んだこと。児童虐待で逮捕されて、それ以来、あのひとは行方しれずだ。報道もないし、遠くから見ていただけだから、わたしはもうなにもあのひとを知れない。それっきりの初恋。

にがい、にがい、にがい思い出。
どうして、忘れていたんだろう?

「コラッ!! あんたら、家に帰りな。心配するだろ、家族が。あんたらを好きな子が。好きな子だっているんじゃないか? コラッ! 逃げるんじゃないよ。帰りな。今すぐ家に帰ってやり直しなァァッ!!」

「やべぇ、あのババアだ」
「うるせー、死ね! くそ、殴るんじゃねーよ!」
「おい、イカれたババアでも殴るのはまずいって……」
「しらけた。帰ろうぜ」

「ちょっと!! おばあちゃん!! ご、ごめんなさいね。あなたたち。おばあちゃん、認知症が進んでて……夜になると徘徊しちゃうの。ごめんなさいね。失礼しました。帰るよ、お母さん。帰るよ!」

「家に帰りなァァァッッ!!!!」

「…………」

深夜の夜道で、少年たちは、顔を見合わせる。だぼだぼの作業服をきて、一服のためにたむろしていたが、おかしなババアが乱入したので皆、タバコを消して立ち上がっている。

少年たちのくちのなかは、にがい、にがい、味が残っている。
ババアは主婦に引きづられて夜闇に呑まれていった。

END.

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