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ひとりとひとりでふたり、ふたりがひとりを、いつくしむ

5月15日から10日の間に起こったことは、まったくもって散々だった。
それをずっと忘れないと思う。

大切な人が発熱し、恩師がコロナにより亡くなり、星野源が結婚した。
3つ目はネタみたいなもので、実際は大して頭にもない。頭の大半を本当に占めていたら結構、人としてやばい。

1つ目がわかったあと、2つ目の連絡があり、私の頭の中は真っ白になった。これまで新型コロナウィルスへの感染と人の命について一生懸命考えてきたつもりだったけれど、どこか他人事だった。天井の模様を一つずつなぞりながら、そう思った。

既に亡くなった人のことを考えながら、ちゃんと生きているけれどいつどう急変するかわからない大切な人の身体の状態を想像し、自分自身が手当ができないことが苦しくなった。

苦しいのはなぜかと考えたら、その人までいなくなったらどうしようという気持ちに行き着いた。自分にとってよりどころである人の存在が、生きているならまだしも、手を触れられないところに行ってしまったらどうしよう。そして今、私の手がやれることはなぜ何もないのだろうと思うと胸がいっぱいになった。

これは依存だ、と後に告げられる。私は、人が人に依存することがそれほど悪いことだとは思わない。ひとはひとりでも生きていけるようになるべきだけれど、そうなったら、誰か他のひとりとふたりで生きていくことで、ひとりをより一層、慈しむことができると思うからだ。

ひとははひとりでも生きていけるようになる。
それは自分を自分で愛して満たせるようになった時だけれど、それは果たしてどうなったら100%になったといえるのだろう。

山にこもり座禅を組んで、文字通り孤独を味わおうとしても、兎が通り過ぎ、鳥が鳴き、葉は始終揺れて、風がふき、雨が頭を打ち、陽が照る。それに対して正常な感覚器官が知覚し、神経を通じて心が反応する。誰もひとりになんてしてくれない。よほどの達人でなければ瞑想を深め、感覚と感情を極限まで抑えることができない。

だから私たちは多少なりとも、できる範囲で人と触れ合う。そうするうちに、どんな理(ことわり)も、鏡のように対になって初めて、ほの明るく照らし出される。

おそらく、いなくなったらどうしようと想像し、苦しむこと自体は悪くはなかった。焦点は「自分自身が手当ができない」という苦しみかたで、それはエゴや思い上がりで、ただの心配でしかない。

今まさに病に苦しんでいる人に必要がないことは、ただの心配と、しつこい励ましだ。さらに顔を見て元気を確かめたいとか、何かを作ってあげたいというのは実際の元気の足しになることはほとんどない。

私がアーユルヴェーダ・カウンセリングを3年続けてきたなかで、大切にしてきたことの一つに、天野泰司さんが書いた『治る力』に出てくる「透明な集中」という言葉がある。

天野さんは、病を全力で乗り切る人を見守る時に必要なのは、熱心な激励ではなく、静かな声援。それは例えば、サッカーの歓声ではなく、アーチェリーの精神集中を促す音のない応援だと書いている。
その応援が病に向き合う人の「透明な集中」を高める。離れていても、何かに包まれているような安心感、見守られていることの幸せを感じ、その人自身の「治る力」を引き出すのをサポートできるのだ。

カウンセラーは「その人のためになりたい」「その人を治したい」はもちろんのこと、自分自身の手がその人を治すと思ってはいけない。手を触れることも基本的にはしてはいけない(脈診をのぞいて)
これは私の料理に対する考え方にも同じものがあって「その人の身体が良くなるように」「その人の身体に沁みわたるように」と考えてしまったら、決してそうはいかないことを知っている。

そう考えないから、eatreat.の料理は人の身体に沁みわたり、人が私と対話し、これまでやってきたのに、どうしたものか。近しい人ほど一番大切なことを忘れてしまう。治療に携わる人は、一番大切な存在ほど距離をとっていかなければならないのだ。
その人の身体と心の対話に、より一層留意しなければならないのだ。

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亡くなった恩師は、私に「人と対話すること」の厳しさと喜びを教えてくれた人だった。
生まれた時から世界全てを斜めに構えて15歳まで成長した私は、必要以上に考え過ぎて三周回って自分の意見を言葉にできない子どもで、発語しようとすると喉がつっかえたようになった。吃音があったのだと思う(今もたまにある)ましてや、それが母国語以外では到底できなかった。

恩師と出会ったのは海の向こうの島国の、塀に囲まれた学校の教室で、彼女は「国語」(つまり英語)の授業の担当教師だった。その授業に限らず、何かとディスカッションがベースの教育方針で、歴史の授業では、いろんな色の皮膚と眼をもった同級生と輪になって座り「第一次世界大戦について自分の国の立場になって意見を述べよ」などと言われていちいち頭を抱えた。

莫大な量の宿題(しかも大体エッセイ)を夜な夜なこなすことよりも、授業本番に自分の意見を言わなければならないことが苦しく、黙り込んでばかりだった私に先生は言った。

「あんたさ、自分の気持ちを一つの言葉にもできないで、そのまま生きてたら、生きていることの本当の喜びも厳しさも知らないまま終わるよ。対話することは、自分から発語することで始まるのよ。そして聴く。ひたすら聴く。そのうち聴こえてくる。」

あまりの衝撃に、先生の語気の強さも選んだ言葉も(厳粛な英国の学校にしては、少々眉をしかめざるを得ないスラングも混じっていた)水を打ったような教室の空気も、背中に差し込む夕方の光の温もりも全部覚えている。

喉のつっかえを、激しく背中を叩かれて吐き出させられたような出来事で、私はその日から少しずつ言葉を発することを覚えた。

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厳しい先生だったけれど、馬のような優しい瞳でいつなんどきも生徒をみんな包み込む人で、私は彼女がいたからいまの自分があることをよく知っている。馬を見るといつも先生を思い出して、手を合わせる。

人はひとりということを本当に理解して生きている人はほとんどいない。でも、それを懸命に受け入れようと考えている人はいる。その中に、人が人を理解できないという揺るぎない事実を理解しようとしている人がいる。私はどうしても、そういう人に惹かれる。

それはその人がひとりで生きていて寂しそうとか、可哀想とか、そんなふうに「愛おしく」思うからではなくて、その人とだったら私という「ひとり」が相手の「ひとり」と部分的に重なり合って、互いを本当に慈しむことができるからだ。

現在を生きながら過去を生きることの甘美は当然のこと。現在を生きながら未来を想像することは他者への愛を受け入れ、怖がらないことから始まり、厳しさをくぐり抜けたあとに甘美が待つ。

そしてそれは、対話することから始まる。到底理解できない「ひとり」を前にして、自分の幸せとは何か、自分にとっての安心とは何かを、素直な気持ちで伝えて、理解しようとしてもらうのではなく、ただ受け止めてくれるよう諦めず伝える。

その対話の過程では、傷つくこともある。真剣な対話には必ず痛みを伴う。ただもしも「傷ついた」と思ったらそれは自分の中の「気づき」だと知った方がいい。「傷つくこと」は自分の深層心理にあったことを、相手の言葉がトリガーになって「気づいた」心の反応でしかない。

心の傷になった言葉を並べ立てたり、その言葉と言った相手を紐づけて責めたり、苛立ったりしてはいけないのだ。そういう時の苛立ちから生まれる会話は対話ではなく、言わなくてもいい真実(そして相手は自分のことだから、その相手が一番よく知っている)を言葉にしてしまい、人間関係を決定的に壊してしまうことがあるからだ。

散々な10日が過ぎて、長い時間をかけて自分を復旧させようとまた天井の模様を数えながら、またいつか、私の大切な人と対話をし、その人の幸せについて耳を傾けられる日がくるだろうかと考えた。

傷つくことが気づくことだと知っていてよかった。ついに逃げてしまったけれど、それでも見守って静かな応援を送ってくれてる仲間やお客さんがいて良かった。

その日がきっと訪れて、ひとりとひとりが重なりふたりになり、ふたりでいることがひとりを慈しむことになるように、私は食事をし、睡眠をとり、自分の体力に自分以外の幸せを受け止める余力を残しておこう。
また間違ってもいい。またいつでも戻ってきたらいいよと、穏やかな顔で受け止められることは、自分と、自分にとってかけがえのない人の幸せを叶える。黙祷し、離れている人の「治る力」に意識を集中させることが、その人を本当に大切にすることにつながるのだ。

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この文章を、命を落とされた私の恩師に捧げます。
遠いもう一つの島国、日本から、ご冥福を心よりお祈りしています。先生、私は元気でやっています。


馬の写真をのぞいて、photography : koji nishida





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