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三千世界への旅 魔術/創造/変革25 近代の魔術3 西欧のナショナリズム

ドイツの近代化とナショナリズム 


ドイツもイタリアも19世紀になってようやく統一国家が成立しましたが、中世的な小国家の分立が長く続いた分、イギリス、フランスと比較して経済発展は遅れました。

ドイツを統一したのは、中世の小国から成長したプロイセン王国です。統一ドイツは複数の「国」が統合されたということで、ドイツ帝国を名乗りました。

ドイツは中世から高度な科学技術や文化を発展させていましたが、統一された大国になることで経済成長が飛躍的に加速しました。

この統一ドイツの誕生には、ドイツ民族というアイデンティティによって生成されたナショナリズムが大きく関わっていました。

18世紀あたりのドイツには、イギリスのようにアフリカ・アジアに植民地を持ち、経済的な繁栄を謳歌している国対して、自分たちは遅れをとっているという意識があったように思えます。

また、フランス大革命後に、周辺諸国の王政を打倒するという名目で攻め込んできたフランスにあっさり敗北したことなども、ドイツ人にとっては屈辱的な出来事でした。

ドイツ人自身が認めるかどうかは別として、こうしたイギリスやフランスに対する劣等感や焦り、屈辱といった感情がドイツ人の民族意識を芽生えさせ、統一ドイツによる近代化を推進するエネルギーのひとつになったと言えるのではないかと思います。


軍事大国プロイセン


ドイツは17世紀から数学や科学の研究が盛んでしたし、フランスでデカルト、オランダでスピノザが革新的な哲学を生み出したとき、ドイツにはライプニッツがそれらとは違う哲学の革新を起こしていました。18世紀以降もドイツはカント、ヘーゲル、シェリング、ショーペンハウエルなど多くの哲学者・思想家を生んでいます。

科学技術はプロイセン王国の時代から、軍事産業と結びついて急速な発展を遂げ、ドイツ統一の前からすでにプロイセンはヨーロッパの軍事大国になっていました。

1870年にフランスが、経済の行き詰まりや官僚組織や金融界の腐敗、格差拡大などからから生まれた国民の不満を逸らすため、プロイセンに戦争を仕掛けていわゆる普仏戦争を始めたとき、プロイセンはあっさりフランスを撃破しています。


フランスのナショナリズム


この普仏戦争でフランスは、国民の不満のガス抜きをすればよかったので、さっさと停戦に持ち込みたかったのですが、ここで思いがけないことが起きました。フランス正規軍がプロイセンに降伏しているのに、フランス国民の愛国心が燃え上がり、義勇軍を組織してプロイセン軍に抵抗を始めたのです。

義勇軍が制圧されると、今度はパリ市内で民衆が武器を取り、停戦を拒絶してパリに独立した政府を樹立しました。これがいわゆるパリ・コミューンです。

パリ・コミューンは社会主義者たちが主導して選挙を行い、当選者による議会を開いたり、政府の機構を作ったりしているので、史上初の社会主義政府と言われたりしていますが、事実としては約1カ月でフランス軍に内乱として制圧されています。

パリ・コミューンの主要メンバーたちは最後まで抵抗して射殺され、投降した人たちは裁判にかけられて、重罪に問われ、孤島に送られました。

このあたりのことは、大佛次郎の『パリ燃ゆ』という大作に詳しく書かれています。僕は学生時代に一度読み、60歳を過ぎてからもう一度読んだのですが、19世紀の半ばにナポレオンの甥であるルイ・ボナパルトが大統領に当選し、軍や官僚組織と組んでクーデターを起こして皇帝に即位してナポレオン3世になった経緯や、彼の治世下で推進された近代化、海外植民地の開拓、資本主義の発展と格差の拡大、貧民層の不満と社会主義運動の高まりなど、19世紀がどんな時代で、近代のフランスという国がどんなふうに形成されたのかといったことを教えてくれます。


パリ・コミューンとナショナリズム


興味深いのは、フランスが近代化し、資本主義が発展するのに、ナポレオン3世という時代錯誤的な皇帝による独裁が必要だったこと、資本主義の拡大がアフリカなどの植民地支配と並行して進められたこと、国家の保護によって資本が急拡大するにつれて貧富の差が拡大し、労働者階級が明確にかたちをとるようになったことです。

さらに面白いのは、その労働者階級が自分たちの置かれた状況をあまりよくわかっていなくて、どんな組織や活動がなかなかまとまらないうちに普仏戦争が始まってしまい、労働者階級が素朴な民衆として愛国心に駆られ、プロイセンに対する抗戦を始めたことです。

パリの労働者や貧民がプロイセンへの降伏を拒否したことをきっかけにパリ・コミューンが誕生し、社会主義的な労働者の小さな独立政府を組織することになったのですが、本来労働運動は、資本主義という国境を超えたものと戦わなければならないのに、外国・敵国に対する敵意や愛国心、ナショナリズムが彼らのエネルギーになったところに、理性や合理性では割り切れない人間や社会の本質が垣間見える気がします。


第一次世界大戦の伏線


普仏戦争によってドイツ/プロイセンはフランスからアルザス・ロレーヌ地方を割譲し、多額の賠償金を獲得しました。一番大きな成果はプロイセンがドイツを統合し、ドイツ帝国が誕生したことです。これによってドイツはようやくヨーロッパの大国の仲間入りをすることができました。

一方、フランスは敗戦と領土を奪われた屈辱から、反ドイツ感情が強くなりました。これはネガティブなナショナリズムです。

元々国境を接しているドイツとフランスは、中世から対立感情が生まれやすい関係にありました。しかしフランスはイギリスと百年戦争とか薔薇戦争とか、長い戦争を続けた歴史がありますから、イギリスとも対立関係にありました。

しかし普仏戦争後、イギリスはフランスと接近し、ドイツを牽制するようになります。アジア・アフリカなど植民地を多く抱える国として、対立するより協力した方が有利だという判断がはたらいたと言われています。このイギリス・フランスの同盟にロシアが加わり、ドイツを東西から挟む構図が生まれました。

ドイツは対抗して、元々民族的にも言語的にも近いオーストリア帝国と同盟を結びます。これにロシア帝国と領土を巡ってクリミア戦争が起きたトルコ・オスマン帝国が加わり、それぞれの国がそれぞれの利害を巡って色々な対立がエスカレートしていき、第一次世界大戦が勃発しました。


総力戦のナショナリズム


最初のうち、どの国も戦いはすぐ終わると考えていたようです。

どの国の利害関係も、全面戦争で夥しい死者を出してまで戦わなければならないほど深刻なものではなかったし、イギリスやフランス、ドイツ、オーストリア、ロシアの王室・皇室は長年婚姻関係で結ばれていて、王・皇帝たちは親戚同士でもありました。

普仏戦争のときのように局地的な戦闘が起きて、相手側があっさり降伏すればこちらも停戦に応じようといった思惑が、政治のトップにはありました。

ところが、蓋を開けてみると、19世紀末から20世紀初頭にかけて起きた技術革新で、武力の殺傷能力は飛躍的に向上し、戦車や大砲、機関銃などの近代兵器が大量投入されたことで、戦場は瞬く間に死体で埋め尽くされました。

被害の大きさが軍や国民のナショナリズムを高揚させ、政治家も王や皇帝も安易な停戦はできなくなりました。長引く戦争は食料や燃料の不足を招き、国民は飢えや寒さに苦しみながら、敵国への憎悪を増幅させていきました。

このあたりの事情は、いろんなドキュメント番組や本で紹介されていますが、僕がここ数年で読んだ本の中では、『アインシュタインの戦争』というノンフィクションがドイツとイギリスのナショナリズムの高揚について、生き生きと語っています。


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