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勉強の時間 三千世界への旅/アメリカ19

ファンタジーの国つづき


可能性に惹かれるアメリカ人


ヨーロッパの古い体制に反抗し、新大陸に渡った人たちが、経済・産業・科学によって発展させたアメリカ合衆国という国に、非科学的・非理性的な現象が広がったのはちょっと不思議な気がします。

しかし、アメリカ人は新しい可能性を信じて新大陸に渡り、その新天地でも常にフロンティアをめざし、可能性を追求してきた人たちです。可能性を信じる性向には、目の前にないもの、目に見えないものを信じやすいという傾向が含まれています。

言い換えると、アメリカ人は夢見がちな国民でもあるということです。これは新しい可能性に賭けてチャレンジするというポジティブさを彼らにもたらしました。

そのチャレンジで成功するには、現実的な理性や判断力、科学的な思考や知識が必要ですが、こうした実際的な能力と夢見がちな性向は、アメリカ人の中で必ずしも矛盾しないのでしょう。

ポジティブで、失敗を恐れず、しかも問題解決には現実的・合理的な判断をするというアメリカ人の性格・能力こそ、アメリカを世界の超大国にした最大の要因ですが、そこには夢見がちで目に見えないものに惹かれる傾向も含まれているわけです。



神秘体験と科学


前にも紹介しましたが、清教徒より後にアメリカ大陸にやってきて、今のフィラデルフィアあたりに入植したクエーカー教徒は、宗派の名前をキリスト友会Religious Society of Friends と言います。

彼らは教会の規則や儀式重視に反対し、カトリックや英国国教会だけでなく、清教徒や長老派、パプテスト派などのプロテスタントとも対立していました。また、初期キリスト教徒のように違いを助け合う友愛を重視する人たちで、戦争に反対し、徴兵を拒否することでも知られています。

イギリスのクエーカー教徒には、アメリカでペンシルベニアとメリーランドの境界を確定するメイソン・ディクソン線を引いた、測量学者・天文学者のジェレミア・ディクソンや、アインシュタインの相対性理論の正しさを天体観測で証明した天文学者のアーサー・エディントンなど、優れた科学者がいるので、僕はなんとなく彼らを知的レベルの高い、科学的で合理的な人たちだと思っているのですが、同時に彼らはクエーカー(激しく揺れること)という通称のとおり、神と一体化する神秘体験を重視する人たちでもあります。

彼らがどうやって神と一体化するのかはわかりませんが、体が激しく揺れるわけですから、相当強烈な神秘体験なんでしょう。


開放的な神秘主義


こういう神秘主義を信奉する宗派は閉鎖的で独善的になりがちですが、アメリカ建国史のところで触れたように、クエーカーは異なる宗派に対してもオープンで親切だったと言います。

マサチューセッツ植民地が清教徒で固まっていたのに対し、彼らのペンシルベニア植民地はルター派やユグノーなど他の宗派の移民も受け入れたことから、様々なルーツを持つ人たちがヨーロッパからやってきました。フィラデルフィアを中心とするペンシルベニアは、先進的・開放的・理知的な風土で初期のアメリカをリードする地域になっていきます。

彼らの中で神秘主義とオープンで科学的で理性的であることとは両立するものだったようです。



科学と神秘主義の歴史


神秘主義が必ずしも科学や理性と矛盾せず、むしろ新しい科学の創造に役立ったという現象は、歴史上初めてではありません。古代では宗教が科学・技術の基盤でしたし、ルネサンス初期にも神秘主義が古い既成概念を打破して新しい科学の可能性を切り開くのに一役買っています。

ただ、理性・科学と非理性・神秘主義の関係は、いつも同じとはかぎりません。

たとえばルネサンスの神秘主義は科学そのものでした。新しい真理を解明する方法としての科学は、カトリックが支配する古い世界と対立するもの、つまり魔術や神秘主義として意識されざるを得なかったわけです。

ルネサンス期の科学者は、特に神や精霊と一体化するような神秘体験を必要としませんでした。科学そのものがまだ解明されていない神秘だったからです。

これに対してクエーカーの神秘体験は初期キリスト教徒のように、本来あるべきキリスト教徒として正しく生きることの一部であるように見えます。つまり神秘主義は、科学ではなく宗教的・倫理的な世界に属しているわけです。科学は彼らの宗教や倫理の外にあり、科学的な探究は特に彼らの神秘主義とは関係ありません。

たとえばイタリアのルネサンス期の科学者たちはカトリック教徒でしたが、神秘主義と科学は信仰の外にあるものでした。これに対して、クエーカー教徒にとって、神秘主義は信仰の中にあり、科学は外にあるわけです。



新しいものへの飛躍


それでもルネサンス期の神秘主義と、クエーカーや他のプロテスタントの神秘主義はまったく別物であるとしてしまうと、これまたなんとなく違うような気がします。

ルネサンス期の科学者たちは、教会と対立してしまうような真理を追求するとき、神秘主義に自分たちを後押ししてくれるような力を感じていたかもしれません。

クエーカー教徒も神秘体験によって、新しい時代に生きていくための精神的な活力を得ていたでしょう。

新しい時代を生きていく、あるいは新しい時代を切り開いていく人々にとって、新しい出来事、新しい世界は神秘的な光に満ちていると感じられるのかもしれません。



プロテスタントの熱狂


これはクエーカー教徒だけでなく、ほかのプロテスタントにも言えることです。カトリックのような組織の支配力を持たない彼らは、信徒たち自身の意識や感性がすべてです。だからカトリック教徒より大胆に新しいことにチャレンジできるわけですが、チャレンジには見えないリスクがあり、それは恐怖を呼び起こします。それに打ち勝ってチャレンジするためには、神秘的なくらいの熱狂と確信が必要です。

新しい宗派だったプロテスタントが非理性的、非科学的、神秘主義的になりやすかったのはそのせいだったのかもしれません。特に新大陸で新しい可能性に賭けようとするプロテスタントには、その傾向が強くなったのでしょう。

一見愚かで古臭く見える神秘主義ですが、それは新しいことにポジティブにチャレンジする人たちのマインドと裏表と言えるのかもしれません。

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