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三千世界への旅 縄文16 生き残った世界観


精霊から神々へ


道具や食料調達手段から見た縄文時代と弥生時代の違いについてはすでに触れましたが、今度は価値観・世界観、信仰の面から、縄文時代と弥生時代の違いを考えてみましょう。

世界史では一般的に、狩猟採集の旧石器時代から農耕牧畜が開始された新石器時代への移行で、信仰や価値観・世界観に劇的な変化が起きたと考えます。

狩猟採集民は日々自然界のあらゆるものと接していて、そこから自分たちも自然界の万物にも精霊・魂が宿っているというアニミズムの信仰・世界観が生まれました。

それに対して農耕を始めた人類は自然界の動き・作用に、自然に偏在する精霊・魂とは別の力を意識するようになります。それは季節の移り変わり、雨季の始まり、川が増水する時期といった、気候に関するものです。


自然神と氏神


彼らは自然界には規則的な変化があることを知り、それを天体の変化、太陽の軌道や日の出・日没の位置、星の動きといったものによって判断するようになりました。

そうした自然の変化に合わせて、組織的に田畑や水路を整え、種を蒔き、収穫するわけです。

彼らは、豊作をもたらす太陽や雨などはそれぞれ神々によって支配されていて、その神々の機嫌を損ねると、雨が降らなかったり、日差しが雲に遮られたり、異常に寒い日が続いたりすると考え、それらの神々に祈ったり、捧げ物をしたりするようになりました。

こうして人類の信仰は、自分たちも含めた自然に偏在する精霊・魂を融和的に与え合うアニミズムから、農産物の豊作・凶作を左右する自然神や、自分たちの繁栄・衰退、戦争の勝ち負けなどを左右する氏族・部族・国家の守り神に、生贄・犠牲を捧げ、神々の恩恵を求める多神教へと移行していきました。


生き残った縄文のアニミズム


しかし日本列島の縄文人には、世界のあちこちで起きた、コムギ・イネなど単一の主要作物を集中的・組織的に育てる農耕への移行は起きませんでした。そのため、それに伴うアニミズムから古代的な多神教への移行も起きなかったでしょう。

彼らは1万数千年の縄文時代のあいだに、狩猟採集時代から続けてきたクリやドングリなどを、多少組織化・システム化されたやり方で育てるようになったかもしれませんが、同時に山で野生動物を狩り、川や海で魚介類をとる生活を続けていました。

彼らの生活も社会も、信仰・世界観の面では狩猟採時代とそれほど変わらなかったと考えられます。



弥生的信仰・世界観への転換


今から約3000年前、紀元前1000年あたりから水田耕作が、朝鮮半島から渡来人によってもたらされ、地域による時間差はあるものの、日本列島に広がっていた縄文人の文化・社会は、次第に農耕の文化・社会に置き換わっていきました。

ということは、縄文時代の信仰・世界観は、弥生時代の農耕社会に移行したことで新しい信仰・世界観に吸収され、消えてしまったのでしょうか?

たしかに使われる土器はデザインがシンプルになり、銅鐸などに描かれた絵は平面的になって、縄文土器や土偶の立体的な躍動感は失われます。

縄文と弥生の違いを包括的にまとめた設楽博己の『縄文vs.弥生』によると、銅鐸には太陽や天空をゆく舟、鳥などが描かれていて、縄文時代の信仰が大地を意識したものだったのに対して、弥生人の信仰は天空を意識したものになったことがわかるとのことです。


縄文的信仰・世界観の名残り


しかし、瀬川拓郎は『縄文の思想』中で、そうした縄文から弥生への変化を認めつつも、縄文の価値観・世界観が、弥生時代から古墳時代を経て、ヤマト王権が確立された後の時代まで生きていたと述べています。

それを物語る例として、瀬川はアイヌの神話・伝説と、奈良時代に編纂された『古事記』や『風土記』に記載されている神話に共通点があることをあげています。

たとえば縄文の世界観を色濃く残すアイヌには、海の神であるシャチが山の神の娘に会うため、山に向かって川をさかのぼる神話が残っていますが、『肥後国風土記』『出雲国風土記』にも海の神であるワニ(古代語でサメを意味します)が、山の女神に会いにいくという言い伝えが記されています。

会いにいくという行為は、ただ会いにいくためだったり、結婚するためだったりしますが、なぜか海の神は女神に拒絶されたり、色々な妨害にあったりします。

アイヌの伝説のひとつでは、シャチが妨害を乗り越えて山の女神に土産物を届けて褒められますが、別の伝説では山の女神が川を石でふさいで海の神を拒絶し、海の神はしかたなく海へ帰ります。


海と山を往復すること


瀬川拓郎によると、この海と山で構成される縄文の世界観では、海と山は単なる地理的な場所ではなく、海・海辺は生活の場所、山はあの世・死後の世界をあらわしているとのことです。

海の神が山の神に会いにいくのに様々な妨害を受けるのは、元々山が他界つまり死後の世界で、現実の世界に生きている者がやってきてはいけないからです。

そこで瀬川拓郎は、アイヌの他界に関する次のような伝説を紹介しています。

ある男が夢の中で、亡くなった両親をたずねると、両親は「私たちは、同じ他界の親戚縁者たちを招いて宴を催したい。しかし、十分なご馳走が用意できず、肩身の狭いおもいをしている。どうか、われわれ夫婦のために祖先供養をし、たくさんのご馳走を供えてほしい」と息子に言ったというものです。

この伝説を語り継ぐアイヌの人たちにとっては、これが祖先の霊を供養する祭礼の由来になっているわけです。

また、瀬川は『肥後国風土記』の伝説で、海の神が毎年、山の女神を訪ね、そこに二、三日とどまるという内容に触れ、それが縄文時代の祖霊祭儀に由来していると推測しています。


イザナギの黄泉の国訪問


この現実世界から他界への訪問で思い出されるのが、『古事記』に出てくるイザナギ・イザナミの物語です。

イザナギ・イザナミは天界の神々に派遣されて日本列島や自然界の神々を生み出した夫婦神ですが、イザナミは火の神を産んだときに火傷で死んで、黄泉の国に行ってしまいます。

神なのに死ぬというのがちょっと変ですが、残されたイザナギは妻が恋しくて黄泉の国に連れ戻しに行きます。

イザナミはすでに黄泉の国の食べ物を口にしてしまったので、現世に戻ることはできないのですが、イザナギに「絶対覗かないで」と言って、黄泉の国の神々に現世に帰れるよう頼んでみることにします。

イザナギはイザナミがなかなか出てこないのでつい中を覗いてしまい、イザナミが蛆虫に喰われた死体であることを発見します。

恐怖に駆られたイザナミは逃げ出しますが、約束を破ったことに怒ったイザナミに追いかけられ、現世との境界を大岩で塞いでなんとか現世まで逃げます。


設定の逆転


アイヌや『風土記』の伝説では山へ行くことが妨害されるのに対して、イザナギ・イザナミ神話ではあの世から逃げるのを追われるという逆の展開になっていると瀬川は言います。

しかし、そもそもあの世に来てはいけないというタブーがあり、イザナギはそれを破って妻に会いに行くわけですから、このタブーが現世から他界へ行くときの妨げになっていると考えれば、黄泉の国から逃げ出すより前、黄泉の国に行くときすでに妨害はあったと解釈することもできます。

無邪気なイザナギがそのタブーを知らなかったので、他界からの妨害・攻撃が逃げ出す時点に繰り越されてしまったということです。


他界往来神話の様々なバージョン


ちなみに、瀬川拓郎によるとアイヌの他界伝説には、「亡くなった妻に会おうとする夫が、洞窟をとおって死者の世界へやってきますが、死霊の世界の人々は男に汚い食物を投げつけ、かれを追い返」してしまうというバージョンもあるとのことです。

また、瀬川は『縄文の思想』の中で、『古事記』の海幸彦・山幸彦の次のような神話を紹介しています。

山の神である弟が海の神である兄を訪ね、兄から借りた釣り針で釣りをしているうちに針をなくしてしまい、海に探しに行って海の神の娘と知り合い、夫婦になる。

娘は身籠り、海辺の産屋で出産する。山の神は妻との「絶対覗かない」という約束を破って中を覗いてしまう。すると妻は大きなワニ(サメ)であることがわかり、彼は怖くなって逃げ出してしまう。妻は子供を置いて海に帰り、陸から海へ続く道を塞いでしまう。

ここではタブーの舞台が海になっていますが、これも他界往来神話の一種と見ることができるでしょう。

このように、縄文に起源を持つ世界観は、弥生・古墳時代から『古事記』や『風土記』が編纂された奈良時代まで、様々にかたちを変えながら引き継がれたと考えられるのです。

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