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三千世界への旅 魔術/創造/変革22 キリスト教の魔術5


古代末期のキリスト教


最後に記事をアップしてから3か月経ってしまいました。

前回の記事でキリスト教が魔術的な力でローマ帝国に広がり、ローマ・カトリック教会として西ローマ帝国を乗っ取ったところまで書き、次はこの魔術についての勉強の初めに取り上げたルネサンス期の後、近代ヨーロッパでどんな魔術的な力が働いて、歴史を動かしてきたのかについて考えればいいと思い、近代の魔術について考えたり調べたり書いたりしていたのですが、いざ書き始めると、大きなことが欠落していることに気づきました。

それは古代の末期にローマ帝国がどんなふうに滅び、ゲルマン人のヨーロッパがどのように始まったかです。

ローマ帝国末期の紀元5世紀にゲルマン人が侵入してきて帝国を滅ぼしたことで古代が終わり、中世というゲルマン人の王侯貴族とカトリック教会が支配する分立と沈滞の時代が千年近く続いた後、15世紀あたりからルネサンス、そして近代ヨーロッパが始まるというのが、おおざっぱな歴史の展開ですが、なぜキリスト教もローマ帝国と一緒に滅ぼされなかったのか、考えてみると不思議です。

そこにはまた何かキリスト教の魔術的な力がはたらいたんでしょうか?

そこで、近代ヨーロッパの魔術について考える前に、古代末期のゲルマン民族の移動とローマ帝国の滅亡、キリスト教が生き残った経緯について、ちょっと勉強してみました。


ゲルマン民族移住後のキリスト教


歴史の授業で習ったように、カトリック教会が4世紀に西ローマ帝国の統治を引き継いだ後、5世紀にゲルマン人がやってきて、すでに弱体化していた西ローマ帝国を征服し、政治的な西ローマ帝国は滅亡するわけですが、カトリック教会は生き残りました。

カトリック教会は帝国の統治を引き継いでいたわけですから、帝国と一緒に滅亡してもよさそうなものですが、ゲルマン人たちはむしろキリスト教を受け入れていきました。後のヨーロッパは彼らによって統治されるわけですが、彼らがキリスト教徒になることで、カトリック教会はヨーロッパのオフィシャルな宗教として生き続けます。

西ローマ帝国領に侵入してきたとき、ゲルマン人は多神教の世界に生きていましたが、彼らの信仰を旧ローマ帝国側の住民に押し付けようとは考えなかったようです。

常識で考えると不思議ですが、神とか宗教とか国家とか民族といったものが絡む支配関係には、そういう不思議なことが起こります。

戦争とか強権的な支配とか残虐な処刑とか、常識では理解できない残酷なことが起きることもあれば、一方でわりと平和で公正な感じの妥協や浸透が生まれることもあります。

ひとつの理由は、ゲルマン人が侵略・征服を目的としてライン川を渡ってきたわけではなく、もっと東方の野蛮人に土地を追われて、家族を連れて逃げ出してきた人たちだったからかもしれません。

彼らは弱体化していた西ローマ帝国と戦って勝てる程度の武力は持っていたのかもしれませんが、ローマ人より野蛮で後進的な自分たちの価値観とか宗教とかシステムをローマ人に押し付けて支配する意志とか能力は持っていなかったようです。

彼らはギリシャ・ローマと同様、多神教の神話・神々を持っていましたが、旧ローマ帝国内で迫害されながら発展してきた百戦錬磨のキリスト教・カトリック教会に取って代わることはできなかったということでしょうか。


滅亡か衰退か


このあたりのことをもっと知りたくて、ロドニー・スタークの『キリスト教とローマ帝国』、ブライアン・ウォード=パーキンズの『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』、ベルトラン・ランソンの『古代末期』といった本を読んでみました。


こうした本にはわりと最近の研究の研究成果を元に当時のローマ帝国で何が起きたのかが紹介されています。それによると、そもそも西ローマ帝国は滅亡したというより緩やかに衰退し、時代は徐々に古代末期から中世へと移っていったという見方が有力になってきているようです。


油やワインを入れて運んだアンフォラという素焼きの容器が、ある時点から急速に減少しているといった事実も考古学的な調査でわかってきて、ローマ帝国の経済はかなり急速に崩壊したとは言えるようです。

ただし、それはゲルマン人の侵略・征服によるものではなく、あまりにも巨大化したサプライチェーンが色々な理由から自壊したのではないかと推測されています。




つまり、ゲルマン人は自ら崩壊した西ローマ帝国に入ってきたということのようです。彼らは紀元前5世紀あたりまでの古代の地中海沿岸でよく行われていたような征服、つまり成人男性は皆殺し、女性や子供は奴隷にしてしまうような征服はしませんでした。むしろ旧ローマ帝国のシステムや市民たちと共存するような統治を選んだようです。

先に触れたように、西ヨーロッパに侵入してきたゲルマン人はそんなに強力な軍団ではなく、自分たちよりもっと野蛮な民族に追い出されて家族ごと逃げてきた人たちでした。彼らにとっては、武力にものを言わせて先進国のローマを征服・支配するより、自分たちが定住できる土地を確保できればOKという感じだったのかもしれません。


ゲルマン民族の支配と変質


とはいえ、異民族が新たに移住してきて、生活を始めたわけですし、ゲルマン人の方が勝者だったわけですから、旧ローマ市民たちの所有権とか利益は圧迫されたでしょう。

しかし、ゲルマン人側も自分たちより進んでいたローマの知識やノウハウ、慣習を少しずつ受け入れていったようです。

モンゴルの遊牧民が中国を征服したときも、中国の官僚制度などをそのまま残して、国家機構のから統治するというやり方を採用していますが、武力的には強いけど国家や社会のシステムを構築したり運営したりするのが苦手な未開人は、より発達した国家や民族を征服しても、そのシステムまで壊そうとせず、活用しながら統治・支配するケースがあるようです。

この征服者と被征服者の新しいパワーバランスによる統治から、ゲルマン人の部族間闘争を経て、いわゆる中世ヨーロッパの王・貴族による支配体制へと時代は移っていったわけですが、キリスト教はこうした政治・軍事的な勢力とうまく距離を取りながら生き延びていきました。

そして、ゲルマン人の権力者たちはキリスト教に改宗していきました。

ここでもかつてローマ帝国に広がったときに作用したような、ある意味魔術的なキリスト教の生命力がはたらいたと見ることはできるでしょうか?

ローマ人の心の中にどんなことが起きて、彼らがキリスト教に改宗したのか、本当のところはわからないように、ゲルマン人の心の中に起きたことも、実際のところはわかりません。

ローマ人がキリスト教を受け入れたときの心理は、ローマ帝国の歴史や社会状況から、あれこれ推測することはできましたが、ゲルマン人のように、ローマに比べて未開の状態だった人たちが、どんなマインドでキリスト教に触れ、何を感じたかを知る手がかりはあまりないような気がします。


ローマ人の感化力


未開の民族が先進地域の宗教を受け入れた例としては、ローマが強力だった時代に征服したガリア、今のフランスの人々が、それまでの原初的な精霊信仰を捨てて、ローマの多神教を受け入れた例がありますが、これはローマ側が勝者、征服者だったから可能だったことです。

ゲルマン人のキリスト教改宗の場合、勝者は彼らであり、ローマの公式宗教だったカトリックは敗者側です。勝者なのに敗者の宗教を受け入れたときのゲルマン人の心理はどんなものだったのでしょう?

『ローマ帝国の崩壊』によると、ゲルマン人は自分たちの支配下に入った地域を統治するのに、ローマ人の貴族を官僚として使ったようです。衰退・崩壊したとはいえ、国家とか社会といった仕組みのマネジメントにかけては、未開のよそ者であるゲルマン人より地元の元支配者・統治者たちの方がはるかに優れていたのでしょう。

ローマ人は何かにつけて、ゲルマン人の考え方ややり方の未開性を批判し、ローマ的なやり方の正しさを彼らに納得させたようです。敗者としてかなり高飛車な態度と言えますが、ゲルマン人はそれを受け入れたのでしょう。


ローマ・ゲルマン交流史


そもそも、ローマ帝国が機能していた時代から、帝国とゲルマン人の地域の国境地域では、防衛軍の人手不足解消策として、ゲルマン人を兵士として雇っていたと言いますから、ゲルマン人がローマ化するのは、これが最初だったわけではなかったようで、小規模なゲルマン人流入が続いた末のゲルマン民族大移動だったと言えるかもしれません。

ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』にも、今のフランスであるガリア地域を征服する際の戦闘で、ローマ軍がゲルマン人を騎馬隊として雇ったことが出てきます。ローマはゲルマンを征服することはしませんでしたが、ライン川をはさんで対峙しながら、部分的な交流が何百年も続いた可能性はあります。

となると、ローマの方が自分たちより優れているという認識は、移住者・侵入者としてやってきたゲルマン人にもある程度あったのかもしれません。

キリスト教の受容も、それがローマ末期のオフィシャルな宗教であり、カトリック教会がオフィシャルな社会機構だったことを考えれば、そんなに不思議なことではないのかもしれません。


支配されながら指導するローマ人


『ローマ帝国の崩壊』には、ローマ人が偉そうにゲルマン人を指導する様子があれこれ紹介されています。カトリック教会の指導者たちも、ゲルマン人がキリスト教を受け入れたことに驚きや感動を覚えながら、これも神の意向であるといった、独善的な感想を文書に記していたようです。こうした史料からはゲルマン人の心の中で起きたことまでは読み取れませんが、彼らが自ら進んで教会にやってきて改宗したらしいことがわかります。

そこから先は、スペイン人が中南米の先住民を征服して、カトリックに改宗させたときの例が参考になるかもしれません。中南米の先住民は敗者・被征服者だったわけですから、その点がゲルマン人の改宗とは違いますが、それでも多神教の異教徒として一神教のキリスト教に改宗するときに起きることには共通点があります。


多神教と一神教の融合


一番のハードルは身近なキャラクターを持つ多神教の神々に慣れている民族が、初めて一神教の唯一絶対の神をどう受け入れるかです。

ローマ人やギリシャ人がキリスト教に接したときは、キリスト教徒以上に論理的・科学的な思考様式が彼らの中に普及していましたから、唯一絶対の論理的・科学的真理という概念は彼らの中にありました。それを超越的な唯一神に適用するのは、それでも精神的にかなりの飛躍ですが、少なくともまず唯一神というものの機能、利点みたいなものは理解できたでしょう。

しかし、中南米の先住民やゲルマン人にはそうした論理や科学的な思考はなかったでしょう。彼らは自分たちに親しい多神教を、オフィシャルな領域では捨てて、唯一神を受け入れましたが、身近な神々をキリスト教の中に色々なキャラクターとして潜り込ませました。


神々になった聖人たち


たとえば聖人たちは様々な個性を持つ神々のような存在になり、それぞれの個性に合わせた信徒たちの願いを叶えてくれるようになりました。キリスト教の神は元々そういう頼みごとを聞いてくれる存在ではありませんから、これは古代の多神教が形を変えて生き残ったと言えるかもしれません。

多神教の名残りは、こうしたカトリックの聖人たちとして残っただけでなく、キリスト教に取り込まれないかたちの、素朴な民間信仰としても残ったようです。それらは中世から近世にかけて悪魔崇拝として問題になり、魔女狩り的な摘発が行われることもありました。

以前、人間の集合的な意識について考えたときに、北イタリアのベナンダンティという民間信仰を紹介しましたが、こうした多神教時代の宗教の名残りは、反キリスト教というより、自然と結びついた古い時代の神たちに祈ったり、自分たちが自然神的な精霊と一体化したりすることで、土地に雨や豊作をもたらしてくれるというタイプの信仰でした。

元々魔術的なパワーを持っていたキリスト教が、支配機構になることでそのパワーを失い、逆に民間に存続する、より古い「魔術」を弾圧するようになっていったわけです。


キリスト教の支配と変質


中世末期・ルネサンス期に起きた科学の革命が、元々古代ローマにはあった科学的・論理的な思考への回帰だったにも関わらず、その推進者である思想家たちに魔術信仰が生まれたり、地動説など科学の新しい成果をキリスト教側が、キリスト教の教えに背くものとして弾圧したりしたのも、元々魔術的だったキリスト教が支配機構になったことで生まれた変質、堕落のあらわれと言えるでしょう。

ヨーロッパ世界はルネサンス期以降、次第に科学と経済がもたらす発展によって、革命的な変化をスタートさせ、カトリック教会は古い権力機構として時代から取り残されていきます。

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