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勉強の時間 三千世界への旅/アメリカ24

ジミ・ヘンドリクス

中学2年から3年にかけて洋楽、アメリカン・ミュージックが一気に押し寄せてきました。

それまで聴いてきた洋楽は、日本の歌手がテレビの歌番組『ザ・ヒットパレード』で歌う日本語版で、ビートルズの歌でさえそうだったのですが、中2になると洋楽付きの友達の家でオリジナルを聴くようになりました。

たしか最初に聴いたのはジミ・ヘンドリクスの『紫の煙』だった。1967年の秋か冬のことです。

そのときの衝撃がどんなものだったのか、今語るのは難しい気がします。

1967年と言えば、ビートルズもコンサート活動をやめてスタジオでアルバム制作をするようになっていた頃で、イギリスのロックと言えばローリング・ストーンズでした。

ロックの歴史で言えば、その前にまずアメリカで50年代にチャック・ベリーやリトル・リチャードのロックンロールが音楽を大きく変え、エルビス・プレスリーが黒人の音楽であるロックンロールを歌って白人に圧倒的なファン層を獲得していました。

60年代には最初はフォークシンガーだったボブ・ディランが、ブルースバンドのギタリストだったマイク・ブルームフィールドなどいろんなミュージシャンと組んで、ブルースやロックンロールなど様々な音楽を融合し、ディラン特有の文学的・社会的な言語表現で、一種の社会現象を巻き起こしていました。

イギリスではロックンロールから出発した人気バンドだったビートルズもそれと呼応するように、独特の音楽と言語表現を模索するようになりました。

しかし、僕の場合そうした流れを知らないまま、いきなりジミ・ヘンドリクスに出会ったので、なんだか世界が一瞬で破壊され、新しい地平が出現したような気がしました。



流行と基礎構築


それから僕は彼の視界でいろんなものを見るようになりました。

レコードを聴かせてくれた友達はギターやベースを買って、バンド的なこともやるようになりましたが、僕は本を読んで文章を書くことに夢中だったので、自分で演奏することに興味はありませんでした。

当時読んでいたのはビクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』とか、バルザックの『絶対の探求』とか、チャールズ・ディケンズの『オリバー・トゥイスト』『大いなる遺産』、ジェーン・オースチンの『高慢と偏見』といったヨーロッパの19世紀文学が主でした。アメリカ文学ではサリンジャーのような若い世代の作家が流行っていましたが、そういう流行りの情報はあまり入って来なかったと記憶しています。

学校で僕より進んでる連中は、思想的な色合いが濃いカフカとかドストエフスキー、安部工房や大江健三郎を読んでいましたが、僕はオーソドックスな文学世界の読み込みで自分の基礎を形成するのに精一杯でした。

一方、友達の家で聴く音楽は、ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリン、ザ・フー、クリームとエリック・クラプトンなど、60年代末期の流行のロックをリアルタイムで聴いていました。

この音楽と文学に対する姿勢の違いはなんだったんでしょう?

音楽では友達に紹介されるまま新しい流行を追いかけ、文学では自分の表現手段として基礎を練習していたということかもしれません。

世界像の雨


だからといって音楽が自分の深いところに入ってこなかったわけではないし、影響を与えなかったわけでもありません。

ジミ・ヘンドリクスのシングル版『紫のけむり』を聴いてから、アルバム『Are You Experienced?』や『Electric Lady Land』なども友人の家で聴くうちに、自分の中に入り込んできました。

レコードを聴いていなくても、いろんな場面で曲が自分の中で繰り返し鳴っていました。

学校の古臭くて高圧的な教師たちに反感を覚えたとき、1968年にキング牧師が暗殺されたとき、チェコにソ連の戦車が侵入してプラハの春を潰したとき、ベトナムでアメリカ軍が民間人虐殺や無差別爆撃をやったとき、東大の安田講堂に象徴される学生運動の敗北が見えたときなど、ありとあらゆるときに彼をはじめとする60年代の音楽が僕の中で鳴っていました。

学校は六甲山の中腹にあって、校舎の窓から神戸東部の工業地帯や海が見渡せたのですが、その眺めの中に淡い光が雨のように降り注ぐのを何度となく見るようになりました。その光の雨は美術的なイメージのようでもあり、膨大な言葉が喚起する概念のようでもありました。

もう少し年上の世代のように、学生運動に身を投じたわけでもなく、ヒッピー的な生き方を始めたわけでもありませんでしたが、人類とか世界とか国家といった巨大なものに対する自分の基本姿勢がその中から見え始めていました。

そんなときにも、僕の中ではジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンが鳴っていました。



影響の上書き


そんなときにも、僕の中ではジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンが鳴っていました。

音楽をやったわけでもないし、ドラッグや酒もやっていませんでしたが、自分が孤立無縁で、世の中はわけがわからないことだらけだということ、うっかりしていると何かに潰されてしまいそうなこと等々、彼らが曲の中で歌っていたことは、僕の始まりかけの人生にも当てはまると感じていました。

1970年の秋に彼らが立て続けに死ぬと、僕とってのロックの時代は終わってしまい、あとは商業化した商品としてのロックがあるだけという気がしました。僕は流行りのロックを聴かなくなり、黒人のブルースを聴くようになりましたが、その後も1969年に開催された野外音楽フェスの記録映画『ウッドストック』が日本で公開され、ロードショーが終わって、100円の名画座で『イージーライダー』と2立てで観られるようになると、何度となく観にいきました。

高校時代の終わり頃には、ジャズ喫茶でカッコつけてタバコを吸ったり、ジンフィーズとかコークハイといったアルコールを飲みながら、ジョン・コルトレーンやビル・エバンスを聴くようにもなりましたが、それでも人類とか世界といったものに対する姿勢は大きく変わりませんでした。

孤立無縁のまま、そうしたものの中で動き回りながら、同時にそれらと絶対的な距離を取り、自由に生きていく。そういう生き方を死ぬまで続けようと決めていました。

そしてそれは現実になりました。

この50年間、いろんなことがありましたが、僕の中ではずっとジミ・ヘンドリクスが鳴っていて、少年時代の記憶とその後の影響はそのたびに上書きされてききました。影響というのはそういうものなんじゃないかという気がします。


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