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暗い森の少女 第四章 ⑥ 消えゆく絆の終章

消えゆく絆の終章


白い光の洪水の中にいるのだと思った。
高い天井からゆったりと白い絹が自分のまわりを取り囲んでいる。
ふわふわと柔らかくなめらかそうな質感に、花衣の口元は思わずほころんだ。
天使だろうか、白い柱に性別を感じさせない綺麗な子供の彫刻があり、そこに絹がかかって繊細な陰影を描いている。
(夢)
いつか見た夢も、こんな風に真っ白い光に溢れていたと、花衣は思い出す。
自分がとても柔らかい布団の中に寝かせられているのだと感じた。頭を包む枕も雲のようだ。
(ああ、夢なら覚めなければいいのに)
見知らぬ場所にいることよりも、今まで自分が置かれていた環境がどれほど惨めでひどいものだったか、花衣は知ってしまった。
花衣を愛してくれていると思っていた祖母は、葛木本家を継ぐ娘であったはずの自分の代替として、虚栄心を満たすためにだけ花衣を側に置いていたのだ。金のこともあっただろう。
祖母は花衣が村人から受けていた淫猥な虐待を知っていたのだ。
しかし、それを花衣が隠し通すならいいと黙っていた。誰にもばれないならいいと放置していたのだ。
愛子が現れ、なんとか取り繕っていて生活していたすべての幻想が潰えた。
悲しみよりも、諦めの感情に花衣は溺れそうになる。
自分の奥底にある鏡の部屋に逃げ込もうとしたが、その前にいつも無表情な少年が、ひどく怒った様子で立ち塞がっていた。
(帰れ)
そう言われた気がする。
(どこに)
(知らない)
少年はぶっきらぼうに答えた。
(俺にも分からないけれど、お前には帰る場所がある)
(家には帰りたくない)
花衣は涙をこぼしそうになる。だからといって葛木本家にも行きたくない。
少年は少しだけ顔を歪ませた。困っているようである。
(泣くな、お前が泣くのは嫌だ)
(あなたは誰なの)
(わからない)
(私は多重人格なの)
(わからない)
(なんにもわからないのね)
花衣の体がはっきり覚醒しようとしている。
少年の体が透き通っていく。花衣の意識が浮上をはじめた。
(待っていろ)
遠くから声が響く。
(待っていてくれ)
目を覚ました自分がどこにいるのか怖かった。
目の前に見慣れた四畳半が広がり、いつ祖母が怒鳴り込んでくるか怯えて息を殺している自分の姿がありありと想像できたが、目の前にあったのは、まさに夢の続きであったのだ。
天使が彫刻されている大理石の柱に、ゆったりと白い絹のレースが層をなして垂れ下がっていて、所々に金色のリボンが結んであった。
まだ痛む体をゆっくりと起こすと、これも絹なのだろうか、恐ろしくすべすべとしたシーツにくるまれているとわかる。ふんわりしたベッドは体が沈むようであった。
「起きた?」
レースの向こうから声をかけられて、花衣は本当に飛び上がった。しっかりと花衣の体を支えるベッドはみしりとも言わない。
「夏木さん」
レースの隙間から顔を覗かしたのは、なぜか懐かしささえ感じる夏木であった。
上の叔父の葬儀からほんの数日しかたっていないのに、もう何年も過ぎ去ったように感じる。
夏木は半透明のプラスチック製らしい救急箱を持っていた。
「まだ痛む? ちょっと体を見せてね」
知らないうちに着替えさせられていたのか、花衣の体には大きな浴衣の前のひらく。夏木相手とはいえ、自分の裸を見られるのは恥ずかしい。
「ごめんなさいね……きちんと往診のお医者様を呼べればいいのだけど、もしかしたら花衣さんは嫌がるかと思ったから。……傷は浅いからあとは残りそうにないし、打ち身も今は青いけど、すぐに薄くなるわ」
自分の体を見たくなくて、顔を背けている花衣を安心させるように夏木は手早く消毒をしていく。冷たい消毒薬の感触にぞくっとするが、ガーゼも取り替えられ、浴衣を着せ直して貰った頃には心も体も落ち着きを取り戻していた。
「ここは」
「瀬尾の家よ」
花衣が再び横になるのを見てから夏木は答える。
「普段は応接室しかはいらないから知らないよね。ここは直之さんのひいおばあさんのお部屋。……今は使われていない部屋なの」
「ひいおばあさん」
驚愕に声が震えた。
瀬尾が話してくれたことがある、瀬尾家の歴史に出てくる曾祖父が恋し、攫うように妻にした曾祖母が暮らしていた部屋に自分がいるのか。
瀬尾の家は何度も増改築が行われているのは見て分かっていたが、こんな童話に出てくるような立派な洋室があるとは思ってもみなかった。
目を丸くする花衣に小さく微笑んで夏木は言う。
「他にも部屋はあるけれど、この部屋が一番いいと思ったの。……直之さんからひいおばあさんのことは聞いているわよね」
戸惑いながら花衣はうなずく。
「直之さんのひいおばあさんは、葛木本家のお嬢さんだった。花衣さんのひいおじいさんの妹さんに当たる方ね」
「うん……」
「直之さんのひいおばあさんには婚約者がいた。お金持ちで今でも有名な旧家よ。その頃ただの惣菜屋の主人でしかなかったひいおじいさんとの恋は認められることはなかった。けれど、若いふたりは恋しあうことを止められなかったの」
なぜか夏木が切なそうに眉根をよせる。
「引き離されそれでも求め合ったふたりは、ある過ちを犯してしまった……意味がわかるかな?」
座敷牢の女の記憶が蘇った。
(瀬尾くんのひいおじいさんの赤ちゃんがお腹にいたんだ)
「……それが葛木の一族にばれてしまって、ひいおばあさんはひどい暴力を受けていた。花衣さんのひいおじいさんが助けようとしたら反対に閉じ込められる始末。そして、それから1年たったとき、やっと直之さんのひいおじいさんが、助け出した」
「うん」
「ひいおばあさんは助かった。けれど、自分が1年間受けてきた暴行のことをまったく覚えていなかったの。ひいおばあさんの中では葛木の家からは追い出され勘当されているけれど、それ以外は幸せに瀬尾家に嫁いできたという記憶に置き換わってしまった」
瀬尾も言っていた。
(座敷牢の女は死んでない。幸福に生涯を終えたはずなんだ)
夏木は大きく息を吐く。
「……花衣さんのひいおじいさんが、母親の遺骨を持って谷を逃げてこの村に隠れ住んだのは、妹であるひいおばあさんのことを見守っていたかったから。谷でひいおばあさんを助ける手助けをしてくれた女の人を奥さんにして。……けれど、その奥さんが亡くなり後妻をもらってからひとが変わったようになってしまったらしいわ」
後妻というのは、祖母の義母であり、何年も前からひどいぼけで入院させられたままの曾祖母のことだろう。
「おばあちゃんの継母が意地悪だったから?」
花衣の言葉に、夏木は驚いたように目を見張る。
「継母?」
「え」
「そう聞いていたの? ひいおじいさんと谷からやってきた女の人との間には男子がふたり。そして、年が離れた妹としておばあさんが生まれている。……谷からやってきた奥さんはその時には亡くなっているはずよ」
「……」
「おばあさんは、谷の女のひとの血は引いていない。後妻さんの子供なの」
もう驚くことなないと思っていた花衣は混乱の海に投げ出された。
祖母は、義理の母親である曾祖母を嫌い抜いていたのだ。自分が芸者の叔母のもとに養子に出されたのは、継母の入れ知恵と思っていた節もある。
花衣が落ち着くまで夏木は待った。
「当時は戦争が始まる前で、あやしげな宗教が色々あったの。後妻さんはある宗教に入っていて熱心な信者だったらしいの。……谷の女の人が奥さんだったとき、ひいおじいさんは村に溶け込む努力をして、熱心に農作業もやっていたらしいの。谷から生活のために持ち出したお金にも手をつけず地味に、目立たないように暮らしていた。だって妹さんの安全と幸せを見届けるためにこの村に来たのよ。目立って谷に連れ戻されたらことだわ」
「でも」
「後妻さんが入信していた宗教は、『心が軽くなる薬』をお布施をした信者に配っていた」
夏木の声は冷え冷えとしている。
「戦争がもたらした害悪のひとつに麻薬があるのだけれど、その『心の軽くなる薬』は麻薬の一種ではないかと私は思うわ」
「麻薬」
「後妻さんは……どこからかひいおじいさんがお金を持っていること聞きつけて妻の座についた。村では男やもめには誰かしらそういう世話を焼くし、独り身になって子育てに困っていたのかもしれない。このあたりは想像でしかないけれどね。そして、その妻に『心の軽くなる薬』を飲まされ、その常習者になってしまった」
母の本棚にあった「毒薬の手帳」という難しい本に、麻薬がどれほど人類を狂わせてきた危険なものかと、強く書いてあったことを思い出す。
「私の考えがあっているなら、麻薬であった『心が軽くなる薬』には副作用があったと思う。薬が切れそうになったとき、とても暴力的になるとか、妄想に取り憑かれて誰彼かまわず攻撃するとか」
それは祖母から聞いていた曾祖父の姿であった。
酒乱で酒を飲む度に、暴れ回って近所の家に押し込んで『殺してやる』と叫んでいたと。
「でも、じゃあおばあちゃんはどうして家を出されたの」
「これも私の想像。その頃にはまだひいおじいさんにはかろうじて理性があったのかもしれないわ。自分は麻薬から逃げ出せそうにもないけれど、娘……おばあさんには、麻薬からも宗教からも遠ざけたかった」
「……」
「戦争が終わって息子たちが戦死してひいおじいさんには多額の戦争恩給が入ることになったのは聞いている?」
「うん……それをひいおばあちゃんが横取りしてひどいって言ってた」
「ひいおじいさんが亡くなった時、すべての財産は後妻さんが相続したからだけど……後妻さんがぼけてしまって、その管理をしているのは誰?」
母だ。
そう言いかけて花衣は戸惑う。
本当に母が管理しているのか?
「……おばあさんは」
夏木は花衣の目を見つめた。
「後妻さんが入信していた宗教団体に入っているわ。花衣さんがおじいさんが生きていらしたときはわからないけれど、今は確実に入信している」
「え」
「花衣さん……後妻さんがもらっている戦争恩給や葛木家からの養育費はけっして小さな額じゃないわ。そのお金はどこに消えているの? こう言っては失礼だけど、花衣さんのおうちは、この村でも厳しい経済状態にあるとしか思えない」
「でも」
「一時期は下のおじさんも入信していたみたいね。お酒を飲んで暴れていた」
花衣は息を飲む。
下の叔父は仕事を変えて家を出て行った。
その頃からあきらかに花衣への暴力は減り、今はまったくない。
「下の叔父さんは子供の頃から癇の強い子供さんだったそうだから、おばあさんが心配して『心の軽くなる薬』を後妻さんからわけてもらって飲ませていた。そして」
曾祖父と同じように禁断症状を押さえるために酒を大量に飲み、身近な存在である花衣を虐待していたのか。
「花衣さん」
夏木の声色が変わる。花衣も緊張した。
「この村には、その宗教に入っている家庭があるの」
「……」
「その家が、ひいおじいさんに後妻さんを紹介しているのは調べたらわかったわ。そして、その家のひとは、村の中では比較的花衣さんのおうちに同情的で、孫同士も仲良く遊ばせることも多かった……真実はどこまで把握しているか、知らないけれど」
夏木は再び大きく息を吐く。
少し迷いが瞳をよぎったが、断ち切るように軽く首を振った。
「花衣さん、覚えていない? ずっとあなたにつきまとっていた男の子の名前を。花衣さんが、この村のひとの名前も顔も記憶してないことはわかっているわ。その男の子がした行為はけして許されるものではないし、許す必要もない。だけど、花衣さんが自分の病気を乗り越えて行くためには思い出すことが必要なの」
「……」
「落ち着いてね。三好くんよ、三好隆介くん。……この子は生まれてすぐに自分の意志でもなく入信させられて、花衣さんが葛木家の養子になるまでは、大人からあの娘と結婚するんだって言われて育っていたのよ。こんな言い方卑怯なのはわかっているけれど、その男の子も被害者のひとりだわ」
『三好隆介』。
聞き覚えのない名前だった。
しかし、その名を聞いた瞬間、体の奥を切り裂かれているような強い痛みと衝撃が走ったのだ。
(俺の名前を呼べよ!)
誰かが、火のつくような怒鳴り声をあげている。
(俺を見ろ! 俺を感じろ! ……お前のためにあのガキを殺したのに)
気がつけば花衣は悲鳴を上げていたようだった。
夏木が強く花衣の体を抱きしめる。
必死でなにか言っているが、花衣の耳には届かない。
心の奥底の鏡の部屋で、ゆらりと座敷牢の女の影がうごめいた。
しかし、花衣が意識を手放す寸前、落ち着いた声が部屋に響いたのだ。
「夏木さん、せかしちゃ駄目だよ」
変声期前の高音だが、不思議とひとを従わせる魅力に溢れた声の持ち主は、ゆっくりと天蓋の中に入ってきた。
「葛木さん」
慈愛に満ちた目線で花衣を見る少年は、石鹸の香りがしそうな清潔感に溢れている。
「直之さん」
夏木が立ち上がった。
「ごめんなさい。急ぎすぎました」
「気持ちはわかるけれど、葛木さんが一番苦しいのだから、それを考えてあげよう?」
瀬尾は大人びた仕草で夏木に微笑む。
「葛木さん。しばらくはここにいればいいよ。ちょっと新しいこともわかったし、もしかしたら葛木さんを安全な場所に連れて行ってあげれるかもしれない」
花衣には、少しだけいたずらっ子のようにあどけない笑顔を向けた。
「直之さん、花衣さんは私の家で過ごしてもらおうと……」
「いいんだ」
瀬尾らしくなく、吐き捨てるように言う。
「おかあさんも年が明けるまで帰ってこないし、おじいさんもおとうさんも、しばらく別宅で過ごすそうだから」
夏木は鞭で打たれた犬のように体を震わせる。
「仕方ないよね」
瀬尾は、森の中で花衣にしか見せたことのない、空虚な瞳を宙に漂わす。
(私だけのものなのに)
この場にふさわしくない嫉妬心が芽生えた。そのことに花衣自身がうろたえる。
「大切な大切な、正当な瀬尾家の跡取りの誕生日が近いもの……。ねえ、夏木さんはいかなくていいの? 自分の子供の誕生日のお祝いに」
甘い毒のような声に、夏木はただうなだれる。
花衣はぼんやりと、森の中で瀬尾が話したことを思い出していた。
(夏木さんは、子供の頃、僕の父親の婚約者だったんだ。でも『過ち』で僕が先に生まれてしまって、仕方なく僕の母親と結婚したんだ。……夏木さんは、今も父親と付き合っているよ。『愛人』と呼べばいいのかな?)
大人たちの身勝手で、いつまでこの身は搾取され続けなければならない?
真白い部屋は、奇妙な暖かさで3人を包み込み、果てしない夜をさまよう小舟のように闇に光った。

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