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暗い森の少女 第四章 ⑨ もつれあう涙の軌跡

もつれあう涙の軌跡


「夏木さんは、葛木さんのひいおじいさんから見ると又姪。僕のおとうさんは又甥」
瀬尾は、夏木がいれてくれたあたたかいアップルティーを見つめながら言う。
「夏木さんのおにいさんが、葛木さんのおとうさんだから、夏木さんは葛木さんの叔母さんになるんだ」
「……」
「ややこしいよね。僕もひいおじいさんが書いてくれた家系図を見ても最初意味が分からなかったし。僕と葛木さんは、又甥と又姪の子供だから、ほとんど他人かな」
白い頬に複雑な笑みを浮かべる。
夏、瀬尾の肌はほんの少し日焼けをしていた。
毎日野球部の練習で、他の男子が真っ黒に日焼けする中、瀬尾は確かに焼けてはいたが、黒くなるより真っ赤に腫れて、軽い火傷をしたようになっていたのだ。
それは、花衣自身もそういう体質であり、まったく違う環境の瀬尾との共通点に密かな親しみと嬉しさを感じていた。
わずかなことであったが、お互いは確かに同じ血を分け合っているのだ。
「泣かないで」
瀬尾に言われて、花衣は自分がまた涙を流していることに気がつく。
悲しみの涙ではない。
祖母や叔父たち、また葛木本家や一族とは感じられなかった「家族」の情が、今まで憧れと儚い恋情の相手だった瀬尾に向かって堰を切ったように流れ出していく。
今まで感じていた孤独な思いが、自分自身が嫌っていた「血縁」の相手によってあたためほぐされてく。
堅いつぼみが温室でかすかに開いていくような新鮮な喜びであった。
「さみしかった」
花衣はつぶやく。
「誰も私を大切にしてくれない。おばあちゃんもおじさんたちも。村の人からは嫌われているし、そうじゃなきゃいやらしいことをしてくる。谷の人も、優しかったけれど本音はよくわからない」
「葛木さん」
「瀬尾くんが好きなの」
瀬尾は目を丸くして花衣を見返す。
「優しくて明るい瀬尾くんだけじゃなくて、森の中で見せてくれる、冷たくて意地悪な瀬尾くんのことも好きなの……ううん、そういう瀬尾くんだから好きなの」
「葛木さん」
困惑した声で瀬尾は何かを言いかけた。それを遮り花衣は話し続ける。
「瀬尾くんが、こういう気持ちを理解できない……ううん、きっと気持ち悪いって思っているのは気がついているの。瀬尾くんが私のそばにいてくれたように、私も瀬尾くんのそばにいたんだから」
「……」
「瀬尾くんが私のことを気にかけてくれたのは、ひいおじいさんい言われたから……ううん、それでもいいの。私はそれでもいいの。それよりも」
花衣は指で涙を拭う。
「葛木家では純血を重んじる」
現当主は、その父が谷の外の女性との間に作った子供である。
一族の中でも本家により近い家の娘が妻にしているが、総領息子であった曾祖父の血筋を欲しがって花衣を養子に望んでいたはずだ。
しかし、花衣の祖母は曾祖父の子供ではあるが、谷の娘の子ではなく、花衣の母はまた、曾祖父の異母妹の子供であったという。
曾祖父が必死に隠した異母妹のことは、葛木家には伝わっていないかもしれない。また、母が祖母の本当の娘でないことも、もしかしたら知らないのかもしれなかった。
しかし、祖母が曾祖父と谷の娘の子供ではない事実はわかっているはずだ。
「なぜ、私は葛木家に求められるのかわからなかった。それよりも、瀬尾くんと夏木さんの話を聞いて、気がついたことがあるの」
「なにを?」
「私たち葛木家の人間は、無意識に同じ血筋の人を好きになってしまうんじゃないかしら」
「あ……」
「私は、人が怖い。どんなに優しくされても、なにか他に理由があるんじゃないかって疑ってしまう。でも、瀬尾くんのことは、初めて会ったときから特別に感じていた」
「……」
「夏木さんが、瀬尾くんのおとうさんと好き合っているのも、子供の頃から婚約者って決められたことより、もっと強い絆があるような気がする。だって、あんなに賢い人だもの。どんなに好きだからって、自分の子供を『愛人の子供』という立場にするかしら」
「確かに……。夏木さんは看護婦の資格をもっているんだよ。立派に1人で働いて生きていける」
瀬尾は考えながら頷く。
「僕のおとうさんも、おじいさんのいいつけもあるんだろうけど、夏木さんを離したくなうみたいだし。そういうことを見てきて、僕は誰も好きになることなできないと思ったんだけど」
花衣の胸に小さく痛みがった。
瀬尾は気づかないうちに、花衣の告白を拒んだ。
「私のおとうさんが、夏木さんのおにいさんというのも……あ、待って」
花衣は急に思い出す。
「どうしたの?」
「私のおとうさんは、おかあさんより年下だって聞いていたの。高校生だって、子供が出来たら逃げたって」
「ああ、それは」
瀬尾がなにか言おうとしたとき、天蓋の外にいたらしい夏木が声をかけてきた。
「いいでしょうか?」
そっと白いレースをめくって顔を覗かせる夏木に、瀬尾は首を縦に振る。
「花衣さん」
夏木は慈しむような瞳で花衣を見る。
「私は、花衣さんのおかあさんと、高校の同級生だったのよ」
「え」
息を飲んだ。そんなことは考えもしなかったのだ。
夏木は実際の年齢よりも若く見えるが、母と同い年と聞いたことを思い出す。
「花衣さんのおかあさんは、学生運動に憧れていて、女性差別や村の因習といつも戦うように過ごしていらした。いつも厚い本を読んでいて、男子とも対等に喧嘩をしたり、煙草を吸ったり、喫茶店に入り浸ったり……こう話すと不良みたいね。でも、信念を持って行動されていたのは感じられて、私や、他の生徒も憧れたり友達になりたがったりしていたものだわ。私は、瀬尾家の援助がないと生きていけない身の上だったから、自分が恥ずかしくて、余計に惹かれだと思う……さっき花衣さんが話していた、血が血が呼んだのかもしれないけれど」
夏木は手に持ったカップから紅茶を飲んだ。少し息を吐く。
「あの頃の私は、どうしたら自然に、でも目立たなく生きていけるかそんなことばかり考えていた。自分の中にある、両親や瀬尾の家、この町自体に違和感を感じて逃げ出したくなっていることを知られたら、私だけじゃなく、家族も破滅すると思っていたの。私は、行動することは出来なかったけど、花衣さんのおかあさんが図書館で借りられた本をたどって読んでいたわ。直之さんのおとうさんのことはあったけれど……おかしな話、私の初恋は花衣さんのおかあさんだって気持ちはあるわ」
「……」
「当時兄は、両親や瀬尾の家のことを嫌って、都会の大学に行ったまま帰ってくることはなかった。そして、私の弟が、私の読んでいた本に影響を受けて、よくない仲間と付き合おうようになってしまった」
「夏木さんの、弟さん……?」
「私は3人兄弟なの。弟は2つ下。……私が19歳のとき、弟は高校2年生」
「……」
「自分が何をしたいのかわからないまま活動家の真似をして、悪い友達にお金だけを奪われているようだった。そのお金も両親の財布から抜いていていて、とうとう父が弟を怒って家から追い出したの。弟は友達を頼ったけど、お金がない弟はいらなかったのね……ひどく殴られたりしていたのを、通りかかりの喫茶店のマスターが助けてくれなければ、もしかしたら死んでいたかもしれない」
小さく苦笑する夏木は、遠い思い出をたどっているようだ。
「そのマスターがしばらく弟を店の二階の自宅部分で住まわせてくれていたそうなんだけど、奥さんの腹に赤ちゃんがいて、狭くて困っていたのね。そんなとき、マスターの年下の友人で、お寺の離れに下宿しているって方が、『部屋が空いてるから引き取り手が見つかるまでなら』って条件で、弟と同居してくれた。それがね」
「……」
「花衣さんのおかあさんだったの」
「え」
息を飲んだ花衣を、夏木は泣き出しそうな笑顔を向ける。
「両親は弟のことはもう最初からいないもののように暮らしていたし、私も心配だったけれど、どうやって探していいか分からなかった。どこかからその噂を聞いた兄が、両親には秘密で帰ってきてくれて、弟を探し出してくれるまで、私は弟と花衣さんのおかあさんが一緒に住んでいるとは知らなかったわ。兄と一緒に、もう暗くなったお寺の境内の裏にある離れに行き、そこで花衣さんのおかあさんに再会したときの驚きは、忘れられないわ」
花衣の頭には、綺麗に整えられた木々の間、月明かりが白い石を照らす寺のようすが浮かんだ。
「花衣さんのおかあさんと、私の弟には、なんの関係ももちろんなかった。おかあさんにも同い年の弟さんがいたからか、むしろ弟は家事を鍛えられ、アルバイトも頑張るようになってきたくらい。兄は弟を引き取るが、もう少し準備をさせて欲しいとおかあさんに頼んだわ。おかあさんはあっさり引き受けてくれたの」
「……」
「それから、私に『久しぶり、夏木さん』そう言ってくれた。同じクラスになったこともなかったから、私のことなんて気がつかれてないと思っていたから、とても嬉しかった」
19歳の母と夏木の再会が、夏木の兄と母の出会いにも繋がった。
「……兄は何度かこちらに帰ってくる度、いつかおかあさんと付き合うようになっていたのね。そして、弟を引き取る時に、兄はおかあさんにもついて来るように言ったそうなの」
「え」
「プロポーズよ、でも、兄は振られてしまったの。ううん、振られるのはおかしいかな。当時、花衣さんのひいおじいさんが亡くなって、遺産相続や土地の名義変更を、おじいさんが1人でやらされてたそうで……ひいおばあさんやおばあさんは、口出しするだけで実務的なことはしなかったそうだから……おじいさんを手伝って、落ち着いたら行くと言ってくれたらしいの。その時、ふたりは花衣さんがおかあさんのお腹にいたことをまだ知らなかったのよ」
「……」
「兄が頑なに両親から姿を隠していたのは、直之さんのおじいさんに葛木家の血筋の女性との縁談を何度も仕組まれたから。だから、弟を引き取って都会に帰ったあとは、しばらくおかあさんともまったく連絡を取らなかった。おかあさんも、兄に黙って花衣さんを出産したのよ。……そのせいで、おかあさんは、『高校生との間に子供をもうけたふしだらな女』と言われるようになってしまった、ごめんなさい」
「夏木さんのせいじゃないし……」
「私がもっと花衣さんのおかあさんと兄との仲介役になれればよかった。ごめんなさい。……同じ頃、私も、妊娠していたの」
区切るように夏木は言った。
「私も子供が生まれてから数年間、嵐のような日々を送っていたの。兄は花衣さんのおかあさんと連絡がつかないことを何回も聞いてきた。でも、私はそれに答えるどころか、花衣さんのおかあさんの現状を調べることもしなかった……花衣さんが8歳のときに、直之さんに、『葛木花衣さんという人について調べてもらえる?』とお願いされるまで……私は、知らないということで、花衣さんをこんな状態になるまで放置したのよ」
夏木はベッドのシーツをきつく掴んだ。指の関節が白く浮き出て、夏木の慟哭が花衣に伝わる。
「夏木さんのせいじゃない、そんな風に思わない」
「慌てて、兄に連絡をしたわ」
花衣の声が聞こえないように話し続ける夏木の顔も白い。
「花衣さんという娘がいたことを知らなかった兄は、すぐに帰ってきて、松下の家に行ったの……でも、もう花衣さんは葛木の養子に出されていたし、花衣さんのおかあさんとも会えなかった」
「え」
「花衣さん……」
「葛木さん」
息も絶え絶えな夏木の代わりに、瀬尾が話し始めた。
「僕たちが仲良くなったのは5年生になってからだけど、その前も何回か話したことはあるおよね」
「うん……」
同級生だし、当然だ。
「あれは3年生の時だったかな。葛木さんと本の話をしたことがあるんだ。誕生日におかあさんに買ってもらった本だって」
母からのプレゼントは、本や服が多かったのでそんな話をしたことがあったかもしれない。
「でも、その本は、夏木さんのおにいさん、葛木さんのおとうさんが贈ったものだった」
「え」
「それからも何回か、おかあさんの話は出てきたけど、なんだかふわふわとして、まるで実体がないような、想像の世界の人のことを話しているようだったんだ。葛木さん、本当はいつからおかあさんに会っていない?」
瀬尾は貫くように花衣を見つめる。
母はいつも恋人の家にいる。だからあまり帰ってこない。でも、花衣の誕生日にはいつもプレゼントをくれる。そう、人形だって、紺色のワンピースだって。
「花衣さん、今年の誕生日に贈られたワンピースは、兄が選んだのよ。何回か直之さんと一緒に写真を撮ったわよね……私が送った写真を見て、兄はあのワンピースを選んだの」
何かが花衣の中で壊れていく。
記憶の中をいくら探しても、『母の思い出』がない。
座敷牢の女との思い出のほうが多いくらいだ。
(おかあさん)
花衣は記憶の中の母を呼ぶ。
しかし、その顔は白いクレヨンで書き殴ったように虚ろだ。
「葛木さんのおかあさんは、夏木さんに僕が調査をお願いしたころから、もうこの村からは姿を消しているんだ」
瀬尾の言葉のあと、一瞬部屋の中に沈黙が訪れる。
その間をついたように、黒電話の音が不吉に響いた。
夏木が慌ただしく部屋を出て行く。
花衣と瀬尾は、少し気まずく黙り込んでいた。
口火を切ったのは、瀬尾である。
「……葛木さんが8歳の時、僕が葛木さんに興味をもって夏木さんにお願いして色々調べてもらった。そして、夏木さんが、葛木さんが自分の姪だと知って、おにいさん、……おとうさんに連絡をした。おにいさんは慌てて松下家にいったが、葛木さんにもおかあさんにも会えなかった。……葛木さんが思えている限りでいい、他になにかなかった?」
「……おじさん」
「え?」
「おじさんがふたりとも家を出ていった。上のおじさんは寮に入るって。下のおじさんは漁師になって、港に近いところで暮らすからって」
「おじさんが家から出て行った……?」
瀬尾は見えない何かをたぐり寄せるように、じっと一カ所を見つめていたが、そのとき夏木が戻ってきた。
「直之さん、雨が上がりそうです。……雨が上がり次第、山狩りが始まるそうです。愛子ちゃんを探すために」
「その電話?」
「はい、いくらか瀬尾家でも手伝いが出せないかと」
「おじいさんやおとうさんが出るはずもないし……でも、おとうさんに連絡をして、男手を出してもらえるように頼んでくれる?」
「分かりました」
「愛子は」
花衣はつぶやく。
瀬尾と夏木が振り向く気配がする。
「愛子は、山にはいない……殺したの、私が。……ううん、『私が殺したんじゃないけど殺されている』の。山を探しても、いない」
花衣の言葉に、ふたりが叫んでいるようだ。
しかし、花衣には聞こえない。
(おねいちゃん)
心の奥底にある鏡の部屋から、覗いている幼い女の子の指が徐々に花衣に向かって伸びてくる。
(かわってあげるから、ここまでおいでよ)

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