選別される少女たちの都市伝説/マンガ、「アンはアン」を読み返して
性への怯え
私は50歳の今でも性に対して、強い羞恥心、嫌悪感、怯えがある。
振り返れば、ただ3歳か4歳かの子供の頃から性的ないたずらをくり返されていた。
その行為の意味は分からなくても、それが厭わしい、保護者にも言えないようなことだ、というのは、子供はなんとなく分かるものだ。
実際、7歳の時、今思えば無理矢理、私に挿入をしようとした男は、近所の女の子誰彼かまわず物陰に引きずり込んでは、忌まわしい行為をくり返していた。
同年代の女の子同士での情報共有はされたが、誰一人、けっしておとなに相談しようとしなかった。
今では考えられないような話かもしれないが、40年前、いや、30年前の田舎の農村では、「被害者は加害者」という考えがまかり通っていた。
「事故に遭った」
・ひいた奴がかわいそう。警察沙汰にするなんて
「若い家族か死んだ」
・前世でよほど悪いことをしていたんだろう、香典も安くないし迷惑
「性的被害にあった」
・女が誘ったんだろう、男もいい迷惑だ
ニュースを見ながら、井戸端会議で、おとなたちの話していることを、子供は他のことに気を取られているようで、よく聞いている。
「決して知られてはいけないこと」
なにをどうされようと、沈黙するしか、なかった。
アンはアン
私が子供の頃、母から与えられる漫画誌を、「りぼん」でなく「なかよし」にしたのは、子供の印象だが、「りぼん」が恋愛ものが多く、「なかよし」がミステリー、冒険ものが多かったからだった。
母は未婚で私を産んだ。
叔父達も結婚したのは私が13歳を超えてからだったので、一般的な「夫婦」というのは分からなかったし、その前段階の「恋愛」も、私にはよく分からなかった。
また、私はヒューマンドラマもあまり好まず、当時女の子の間で流行っていた「キャンディ・キャンディ」など、いがらしゆみこの作品はピンときていなかった。
10歳頃だろうか、「なかよし」で連載されたいがらしゆみこの「アンはアン」は、ぼんやり生きていた私に、大きなショックを与えた。
両親が離婚し、母親に引き取られているアンは、「自立した女」である母の自慢の、都会的で、ボーイッシュな服装の似合う、イキな女の子だ。
年上の崇拝者もいるませたアンは、たまに田舎暮らしをする父親を訪れるのだが、そのときの姿は、長いウィッグ、ふんわりしたドレス、大人しく家庭的な少女へと変貌する。
両親を復縁させたいために、幼い少女が必死で考えた一世一代の大芝居なのだが、残酷なかたちで、その夢は破られた。
「跡取り娘」として生きて
アンは、両親に裏切られ、自分のアイデンティティを徹底的に破壊された。
自我が曖昧になり、自分が演じているのか自然に過ごしているのかさえも判断できず、人間関係は壊れていく。
なにもかも失って、たった一人で生きてゆかなければならなくなった少女の成長譚であるのだけれど、私が強烈に惹かれたのは、「二面性を演じる少女」であり、「本来の自分では愛されない怯え」の気持ちであり、「激しく誰かに求められたい」、そんな叫びに満ちた前半部分だった。
私は「一人娘で甘やかされた子供」であった。
そうして、どこに行っても、「この子がいるから家は大丈夫」と紹介され、また、なにもしていないのに褒められた。
子供だってその状況に違和感がないわけではない。
「一人娘」「墓守」「大事な跡取り」として、常に「私」は見られていた。
そこには、私個人である必要は全くなかった。
そうして、私が17歳の時に母が待望の男の子を産み、私は「跡取り」というレーベルをいきなり剥がされた。
それは心から望んだ自由ではあった。
「結局、私でなくても換えはきく」
という、苦い現実を孕んではいても。
「求められたい」
そうして、私は幼少期の性的いたずらのことを思い出す。
彼ら(彼女であった時もあった)は、「幼い女の子」であれば良かったのだ。
もう少し踏み込めば、「大人しそうな」、大声を上げて抵抗しないような幼女であれば良かったのだ。
そんな「選別」をくり返し受けて、私はすっかり「人目につくこと」を避けるようになった。
友人が作れない、友人になろうと言ってくるひとが怖い、踏み込まれるのが不愉快だ。
それは、恋愛に関してもそうで、自分のことを「好きだ」と言ってくる男の子が怖かった。
「私」のなにを知っているの?
と、戸惑いと猛烈な不信感でいっぱいになった。
片思いなら安心できた。
「この人とはわかり合えることはないだろう」、そんなひとばかり選んで付き合った。
付き合ったひとは4人だが、それ以外に、関係をもった相手がいない、とは言わない。
一夜限りの相手だとしても、それが私に特定の相手がいる時期ばかり、馬鹿なことをしていたことに意味はあったのかもしれない。
妊娠と病気さえ気をつければどうなってもいい。
自暴自棄になっていた。
しかし、そのような態度の裏でずっと絶叫し続けていた。
「私を見て。私を選んで。私を求めて」
選別される少女の都市伝説
もう何十年も前から、「消費される存在としての少女」は、繰り返し繰り返し、メディアでも取り上げられてきた。
名前をどう変えたって、「切り売りされる」存在である、「少女」という概念。
それは、たったひとりを指してはないし、望まないおぞましい形で自分が選ばれるかもしれない、暗号のような言葉。
「少女」と言っているが、成人した女性、少年、もしくは成人した男性でさえ、その対象にされるかもしれない、交差し倒錯し、迷路になった時代。
「少女」には、自我がない。
「少女」は、逆らうことができない。
「少女」は、自らは選別する立場にいない。
「少女」は、ガラスに入った人形だ。
自分の意思を持たず、みんなの目にさらされ、摘み取られていくばかりの存在。
「現代」を生きる人間は、みなそうじゃないか。
自分で選んで自分で行動して自分で立ち上がっている、と本当に言い切れるひとはこの世に何人いるのだろう。
綺麗に彩られた「売り場」から、自分だけの「大切なもの」を選んでいるつもりでも、それ自体がマーケットの操作で、「自分の嗜好」「経済状態」「健康状態」も、市場へ勝手に流し込んでいく。
遠く、生家からも離れ、こんなにも年を重ねたのに、自分で自分を守ることが、幼い頃に覚えた「沈黙」と「他者にたいする無関心」しかない。
「少女」は私自身である。
そうして、あなたも現代社会では「少女」だ。
救いの手を、どこに求めていいのか。
この世界が都市伝説とかした今を生きるしかない、そんな存在のまま。
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