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暗い森の少女 第一章 ⑨ 鏡の中の覚醒


鏡の中の覚醒


「こっちにおいで」
そんな声が密かに届いた。
学校から自宅まで歩いて1時間ほどだ。
行きは集団登校だが、帰りは自由で、図書館で本を読むのも飽きてしまった花衣は、校庭で走りまわりながら明るく笑い声をたてて遊ぶ子供たちを窓から見下ろした。
本を読んだり、祖母から料理や編み物を習うことが好きな花衣に疎外感はない。
むしろ、無理矢理連れ出されて、鬼ごっごやドッジボールに付き合うほうが苦痛だった。
瀬尾や、瀬尾と仲のいい上級生が、花衣が足が遅いこと、飛び跳ねるような激しい外遊びが苦手なことに配慮してくれるようになり、鬼を押しつけられたりすることもなくなり、ボールを投げつけられることも減っていく。
子供たちの一部は不満げであったが、瀬尾が笑うとなぜか受け入れてしまう。
2階のガラス越しに瀬尾の姿が見える。
今日は襟だけ青いポロシャツに、紺色の半ズボン、同じ色のハイソックス。
まだ幼く小さな少年には、明朗な印象だけでなく、ひとを魅了する不思議なオーラを宿しているようだ。
瀬尾の姿だけを目で追いかけていたが、走っていた彼がふと足を止め、こちらに振り返った。びくっと一歩窓から後ずさったが、瀬尾は大きく手を振った。
突然のことに花衣はどうしていいか分からず呆然としてしまったが、次の瞬間、花衣にはあり得ない早さでランドセルを持ち、廊下を走り逃げるように学校をあとにした。
花衣の通学路は川に面していて、煙草の畑や稲田だけが広がっている。
このあたりの畑を持つ家庭は兼業農家で、早朝と仕事終わりの17時以降にしか来ないので、花衣が下校する15時頃は、いつも無人だ。
花衣は先ほどまで読んでいた本のことを頭の中でなぞるように思い出していた。
鏡に異常な興味をもつ男が、様々な鏡を集めていたが、ふと、球状に作った鏡の中に自分が入ったら、どんな風に見えるのかと特注する。
そんな男を心配する友人を尻目に、男は鏡の中に入るが、出てきたときには正気を失っているという話だ。
花衣は、鏡が怖かった。
鏡に映る自分が、いつも血色の悪い不健康な白い顔で見返してくるのも嫌だったが、ある日、そこに映った花衣は、花衣の姿をしていなかった。
見たこともない女が、仮面のような無表情で花衣を見つめる。
喉の奥で悲鳴をあげて花衣は鏡の前から逃げ出した。
祖母に泣いて話したが、
「寝ぼけていたのね」
と抱きしめてくれるだけだ。
そんなことが毎日ではないが、徐々に回数を増やしていく。
また、花衣を脅かしていたことは、その時々で映る顔が違うことだ。
祖母よりも年上らしい老婆や、10代の少年、そして、3歳くらいの女の子。
最初に見た20代から30代の女を含めると4人いるが、みな、口をまっすぐに閉じた感情を消した顔で、花衣を見返してきた。
何度も祖母に訴えたが、祖母はいつも同じように笑って抱いてくれるだけで、花衣の恐怖に気がついてはくれない。
花衣は、やはり自分かおかしいのだと思い込んでいった。
この頃回数は減ったが、叔父たちに暴言や暴力を振るわれるのも、いじめを受けることも、花衣の異常さに気がついての行為なのだ。
家に向かう足はどんどん重くなる。
誰にも会いたくなかった。
球状の鏡に自分が入ってしまいたい。そこで誰の目にもとまらず生きていたい。
しかし、花衣のまわりをあの4人が合わせ鏡の世界で延々と続いて見える。
(そのまま鏡が割れたらどうなるのかな)
あの4人はバラバラになって消えていくのだろうか。
しかし、あれが花衣の影なら、本体である花衣はどうなるのだろう。
「やあ」
自分の心の内に深く入り込んでいた花衣は、急に声をかけられて飛び上がりそうになった。通学路の中程に川をせき止める水色の小さな堰がある。
その堰の手前には石で作った階段があり、そこで芋を洗ったり、スイカを冷やすこともある。そこから顔だけのぞかせて、中年の男は言った。
「来てごらん、綺麗な魚がいるよ」
妙に粘つく声で男は話しかけてくる。
幾何学模様のシャツの襟がだらしなく開いて、貧相な鎖骨がのぞいている。
ひとの顔を覚えられない花衣だったが、その男が地元の人間でないことは感じた。
知らないひとについていってはいけない。
家でも学校でも何度も言われていたし、実際、数年前に付近で誘拐事件が2件起こっていた。1件は果敢にも犯人を蹴り飛ばして逃げて未遂、1件は2日後に救出されるという事件であった。
その後も何回か不審者から声をかけられる事案があったが、対策はされていないままだ。
農業と勤めをかけもちでしている農村に、見回り役をかって出るような暇な家はない。
「こっちにおいで」
男は、石のように固まった花衣に焦れたように言う。
逃げなくてはと思うが、背を向けた途端、男がなにをするのか分からないのが怖くて目が離せない。
「おい、いつもは大人しくさせているだろ」
苛立った声を出して、男は川から上がってきた。
逃げようと思った瞬間、男は花衣の腕を掴んで階段を転がるようにおりる。
伸びた草が花衣の頬を切りつける。
大人が2人、やっと立っていられるような小さな空間が水辺にあり、花衣はそこで男の手でいきなりワンピースの裾をまくった。
(いや)
悲鳴を上げようとしたしたが、男の煙草臭い手が口を覆い、遮られてしまう。
男は激しい息づかいで、花衣のなだらかな胸をなで回し、ナメクジのような感触の下で舐めていく。
「どうしたんだ、いつものように感じてみろよ。本当に淫乱な子供だよな」
おぞましさで体を震わした花衣を嗤うように男は言う。
何のことだか分からない。花衣は混乱していった。
(怖い)
心臓が爆発しそうに鼓動は早くなる。
男が花衣の下着に手を伸ばしす。
その時、花衣は夢想の世界でした見たことのない、球状の鏡の世界に入り込んでいった。

目を覚ましたとき、花衣は水辺にひとり座り込んでいた。
ワンピースはぐちゃぐちゃに乱れて、足首には下着が絡まっている。
踏み潰した草のにおいではない青臭いさを、川辺からの風が消していく。
自分がなぜこんな所で、こんな姿でいるのか花衣には覚えがない。
立ち上がろうとしたとき、手に何か握っていることに気がついた。
しわくちゃな千円札。
学校にお金を持っていくことは禁止されていたし、花衣はまだ決まったお小遣いを与えられてはいない。
(拾ったのかな)
まだ陽は高い。
花衣は服の乱れを直して、転がしてあったランドセルを背負い、帰宅した。
ちょうど祖母は具合が悪く、花衣を出迎えては来ない。
「ただいま」
「おかえり」
祖母の部屋の前で声だけかけあい、花衣は自分の部屋に戻る。
眠るのは祖母の部屋だったので、勉強机とタンスだけの殺風景な部屋だったが、ここにいると落ち着いた。
手早く汚れた服を着替え、下着も取り替える。
洗濯物かごの汚れ物の中に紛れ込ませば祖母は気がつかない。
(何を考えているの?)
花衣は不思議になった。
だが、体は自然とそう動き、洗面所で血のついた頬を洗う。草で怪我を作ることなど茶飯事なので、誰も違和感を覚えることない。
二重になっている思考のまま、花衣はまた自室に戻り、勉強机の一番したの引き出しをあけた。
そこには、母の友達や、下の叔父が機嫌がいいときにくれたプレゼンをしまってある。
花衣の気に入っていたのは、大きなガラスのペンダントと、白いオルゴールだ。
オルゴールはずっしりと重く、虹色に輝く貝殻を貼り付けてあり、可愛い星形の錠前がついている。
上の引き出しの奥から鍵を取り出し花衣はオルゴールを開いた。
ぜんまいをしばらく巻いていないので、妙にゆっくりと「トロイメライ」が儚い音をたてた。
オルゴールの半分は小物入れになっている。
大好きなペンダント、道で拾った石英、縁日で買ってもらった指輪などの下に、押し花で作ったカードがある。
その下にもなにかあるようで、カードは不自然に斜めになっている。花衣は無意識にペンダントなど机に並べて、カードも取り上げる。
そこには、伸ばしてあるがしわだらけの千円札が何枚も入っていた。
無感情に花衣は、今日手の中にあった千円札も同じようにオルゴールに隠す。
札の上にカードを乗せて、自分のお気に入りたちをしまっていった。
オルゴールの蓋の裏は、鏡になっている。
そこに映っている顔が、花衣のものではないことに気がついていないふりをして、花衣は静かにオルゴールを閉じた。
引き出しにオルゴールを片付けてた頃に、祖母が起き出して台所に向かう気配がある。
さっきまでのことの大半を忘れて、花衣は祖母のもとにかけよった。

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