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暗い森の少女 第五章 ① 響きあう孤独の調べ

響きあう孤独の調べ


白うさぎのような毛足のセーターに白いフリルのブラウス、紺色のひだスカートの着せられた花衣は、久々に瀬尾家の応接室にいた。
瀬尾がピアノでクリスマスキャロルを弾いている。
「ああ、間違えちゃった」
そういって笑って、鍵盤から手を離した。
「おかあさんの言うとおり毎日練習しないとね」
「わからなかった」
素直な感想を言う花衣を振り返った瀬尾は首をふる。
「おかあさんは大学を卒業するまでずっとピアノをやっていたけど、この村に来て練習をする時間が減ったら、やっぱりうまく弾けなくなったって言っているもの。僕はきちんと習っていたのは6歳までだしね」
「すごいね」
「葛木さんも弾いてみる?」
「私、ピアニカも苦手なのに」
慌てる花衣に、瀬尾は楽しそうな笑い声をあげた。
部屋の中は暖かく、ポットにはキルトのカバーが掛けられて甘いミルクティーが満たされている。夏木の焼いてくれたパイやクッキーの香ばしい香りが花衣を幸せな気持ちにさせる。
瀬尾の祖父や両親が帰ってこないことを夏木自身が確認してからの夏木の行動は早かった。
夏木の兄に電話をして、花衣ははじめて自分の父親と話せたのだ。
電話越しの父の声は、深いまろみのあり、かすかに震えている。
「すまない……本当にすまなかった」
謝り続ける父になんと言っていいか花衣は言葉につまった。
父とはいえ11年存在すら知らなかった人と、いきなり話すことは花衣には無理と判断した夏木が、受話器をそっと取る。
「少なくとも年末までは大丈夫だから。それまでに兄さんが花衣さんを迎えに来てくれたら……ええ、あちらの方も、もう気にしなくていいと思うの。うん」
長い電話が終わったあと、夏木は出かけて、山のような買い物袋を持って帰ってきたと思ったら、花衣を着せ替え人形のように様々な服に着替えさせたのだ。
「女の子は洋服を選ぶ楽しみがあって嬉しいわ」
そう言いながら、少しだけ夏木は淋しそうな目をした。
瀬尾家の別宅に暮らしているという自分の息子のことを思い出したのだろうか。
夏木を含む大人たちの間でどんな話し合いがあったかは分からないが、花衣は3学期まで学校を休むことになった。いくら瀬尾の家族が不在とは言え、毎日花衣が瀬尾家から通学するのはおかしいし、また、花衣自身にも休養が必要であると夏木が決めてしまったのだ。
祖母にはなんと言ったのは分からないが、ランドセルや教科書、花衣が大事にしていた白いオルゴールや青い目の人形など、持ってきてもくれた。
「これ夜中に動いたりしない?」
緑色のドレスを着た陶器の肌を持つ人形を見た瀬尾は、怖がっているようなそぶりを見せたが、すぐに悪戯っぽい目で花衣を見る。
「葛木さん、雛人形は怖がるのに」
「あれは目も小さいし、たくさんいるし」
花衣の家にはなかったが、葛木家には大きな雛人形が飾られる。
江戸時代から伝わるそうなその七段飾りは、屏風や金箔の華麗な道具、繊細で緻密な衣装は好きだったが、真っ白い表情のないような人形たちは、本当の夜歩き出しそうであり、3月3日に招かれた時は、日が暮れる前に帰りたくて仕方ないという話を、瀬尾にしたことがあったのだ。
「日本人形は私も苦手……花衣さん」
人形の金色の髪に櫛をいれながら、夏木が話しかける。
「この人形、本当は兄が花衣さんのおかあさんに贈りたかったものなのよ」
「おかあさんに?」
「花衣さんのおかあさん、子供の頃『小公女』が好きで、兄によくその話をしていたそうなの。干しぶどうの入った白パンや、人形に憧れるって」
綺麗に整えられた人形を花衣に手渡す夏木の目に光るものがある。
「おかあさんが気に入るものを探して、やっと見つけたときにはおかあさんと連絡が取れなくなって」
「でも」
この人形は母が去年、花衣の誕生日にくれたものもはずだ。
夏木は、村では母のことを3年前から姿を見た人がいないと言った。
花衣も、祖母から母は恋人の家に泊まっていてほとんど帰ってこないと聞かされていたのだ。
「……その人形は、兄が去年、花衣さんのお誕生日に贈ったの」
「え」
「葛木本家に着ていく用のワンピースは、一度は花衣さんの手に渡ったけれど、その後売りに出されたようね。この人形も質屋の流れで私が見つけて、慌てて買ったの。もしかしたら違うかも知れないけれど、あんまりに兄の話していた人形に似ていたから……。この人形は一点物で、背中に小さく番号が刻まれているの。兄に確認したら、やはり一致した」
「この人形……?」
「10歳の誕生日に贈られた人形を、花衣さんは見たのかもしれない。それをおかあさんからのプレゼントと思い込んでしまったのね。この人形もオルゴールも、箪笥の奥に隠してあった」
痛ましいものを見るように夏木は花衣に目線を向ける。
混乱した。
去年、母がくれたはずの人形は、実は父からのものであり、しかも花衣の手には渡らなかったが、密かに夏木が買い戻し、今年の誕生日に花衣にくれたのだとしたら。
(新しい服は自分で作ることを覚えなさい)
皮肉っぽい母の口調をよく覚えている。
「葛木さん」
両手で顔を覆った花衣を心配したのか、瀬尾が声をかけてきた。
「葛木さんが、村の人の顔を見えていないんじゃないって思ったの理由のひとつは、夏木さんにあったんだ」
「え」
「僕は写真でしか知らないけれど、葛木さんのおかあさんと夏木さんは、姉妹みたいににているんだよ」
花衣は思わず夏木を見上げる。
面長の輪郭にまとまっている顔、太めの眉は知性的で、それを裏切るように目尻はさがり優しげである。薄めの唇は口角がきゅっとあがり、意志の強さを表しているようだ。
分からない。
記憶の中の母の顔は、やはり白い仮面をかぶり霧に包まれている。
「花衣さんのおかあさんが、私を覚えていてくれたのも、この顔のお陰だったの。『妹がいたっけ? とよく聞かれた』そうよ。実際私も花衣さんのおかあさんに興味を持ったのは、自分に似ているなと感じたからだった」
血が血を呼ぶ。
花衣の母と夏木にそんな共通点があることに、花衣は驚きと同時に恐怖に似た感情を覚えた。
「葛木さんは、専門のお医者さんの治療が必要だと思っている」
瀬尾の言葉に夏木も頷く。
「今まで、過去に非道な行いをした親族がいたとしても葛木本家で大切にしてもらえるなら、いきなり顔もしらない父親に引き取られるよりは環境がいいかもしれないと悩んでいた兄にも、花衣さんの状態は知らせてあります。きちんとした専門医も見つけてあるようです」
「私は、病気なの?」
花衣の不安げな声を聞いた夏木はそっと肩に手を置いた。
「私には診断はできない……けれど、花衣さんが村の人の顔を認識できないのも、記憶が混乱しているのも、今までご家族や村の人の手で行われた虐待のせいだと思っているわ」
「治療は早いほうがいいんだ。僕のおかあさんみたいになる前に」
「え」
「直之さん!」
花衣と夏木の声が重なる。
瀬尾は、清潔で天使のように見える顔に、なにかを侮蔑したような歪んだ笑みを浮かべている。
「僕のおかあさんは、この村に来るまで夏木さんとその子供の存在を知らなかったんだ。僕のおとうさんはその辺が器用なのかな? ずっと自分だけが大切にしてもらえていると信じていた。それが、この家にやってきて、はじめておじいさんに会ったとき、告げられたのは『お前が産んだ子供はこの家の跡継ぎではない』って言葉だった。……僕も一緒にいたけどね」
「……」
「この村に帰ってきたのは、ひいおばあさんの危篤の報せだったんだ。村では瀬尾家の跡取りが帰ってきたと思われていたけど、本当はひいおばあさんの葬式がすんだら僕らはもとの家に帰るはずだったんだよ。それをおじいさんの一言が変えてしまったんだ」
「なにがあったの」
「僕の他におとうさんに子供がいて、その子を瀬尾家の跡取りにすると言われたのは、都会のお嬢さんだったおかあさんにはひどくプライドを傷つけられることだったらしくね。無理矢理この家に引っ越してきたんだ。村の人にも僕が、僕だけが瀬尾家の跡取りだって言ってね。そうやって強気に振る舞っていたけど、おかあさんはすぐにおかしな行動をするようになった」
「……」
「都会にいたときから、おとうさんは理由をつけてこっちに帰ってきていたけど、もう外泊の理由はひとつしかない。最初は派手な喧嘩をしていたんだ。それでもおとうさんが外泊をやめないと……おかあさんは、夏木さんの子供を、殺そうとした」
「え……!?」
花衣は思わず声を上げてしまった。
夏木はうつむき、表情は見えない。
「歩道橋から数段落ちただけで、その時はただの事故だと思われていたけど、そういうことが何度か続いて、とうとうおかあさんがやっている事だとおじいさんたちに分かってしまった。おじいさんは、おとうさんに離婚しろといったけど、今の瀬尾の事業を支えているのはおかあさんの実家なんだよ。おとうさんはそれがわかっているから離婚はできない。おじいさんには、そんな判断ができないくらい仕事は出来ないみたいだしね……おとうさんは、おかあさんをお願いした、もう夏木さんと別れるから、もうやめて欲しいって」
「……」
「でも、おかあさんには、『本当に』そんな記憶がなかったんだ。夏木さんのことも、その子供のことも『忘れていた』。おとうさんは驚いて病院に連れて行こうとしたけど、この辺でそういう専門病院に連れて行ったらすぐに大騒ぎになっちゃうし。しばらくはおかあさんにつきっきりになっていたよ。……そしたら、千佳が出来た」
しばらく会っていない、瀬尾の小さな妹の、ミルクのにおいのするような頬や、花衣に伸ばしてくる小さな手の平を思い出す。
「これも僕には分からないんだけど、妊娠している時って、つわりの他にも感情が抑えられなくなってなったりするらしいね? おかあさんは、ある日僕を……殺そうとした」
「どうして」
愕然とした。
「葛木さんのおかあさんと、夏木さんが似ているように、僕と、夏木さんの子供さんも似ているらしいね。会ったことがないから知らないけれど」
誰かがつばを飲むこむ音がする。それは花衣自身の喉がなったものかもしれない。
「その日はおとうさんがいたから僕は助かったんだけど、包丁をもった自分のおかあさんが、夜中に馬乗りになっていたことは、怖かったかな。……とにかく、おとうさんはなりふりかまっている余裕もなくなって、おかあさんのおとうさん……僕の母方のおじいさんだね……に相談して、おかあさんを里帰りということで引き取ってもらい、都会の専門の先生に診てもらうことになった。千佳が生まれてから少し落ち着いて帰ってきたけど、また治療のために帰省している」
ふっと瀬尾は息を吐く。少年の顔には痛ましい老成した色があった。
大人になるしかなかったのだ。母親は病気で、父親にも頼れない身の上の子供は、自分を守るために、誰よりも冷静でいなければならなかった。
「長くなったけど、葛木さんにも、同じように治療がいると思うんだ。……覚えているかな、葛木さんが多重人格かもしれないって」
それは、森の中で、花衣の奥底の鏡の部屋について話したとき、瀬尾が言った言葉だ。
「でも……私の知らないはずのことも、座敷牢の女は知っていて」
「それはもしかしたら、おばあさんや葛木家の誰かが話しているのを聞いてしまったんじゃないかな? そういう記憶が混じって、葛木さんの中に別の人格を作ったと僕は思う」
そうなのだろうか。
座敷牢の女の乱れた黒髪、淫蕩な笑み。
3歳くらいの幼女の、密やかな悪意。
ぶっきらぼうな少年の、思いやり。
しわだらけで目も口もどこにあるかわからない老人の、底知れない執着。
『そんなもの』を、いつしか胸につちかうほど、自分は病んでいたというのか。
「直之さん、今日は花衣さんをやすませてあげてください。もうこれ以上は」
夏木の言葉に、瀬尾も頷いた。
そして、瀬尾家での奇妙な生活は始まったのだ。
母でもなく、父もおらず、兄でもない、妹でもない。
瀬尾が学校に行っている間、花衣は本を読んだり、家事をする夏木の手伝いをした。
瀬尾が帰ってくると、瀬尾に教えてもらいながら勉強もする。
不思議な多幸感に包まれたある日、カーテンを開いて、花衣はこの生活も長くないことに気がついた。
鬱陶しい冬の雨がようやく上がり、眩しい日差しが朝の空気で冷やされた部屋に強く差し込んだ。
それは、まるで終末をつげる天使のラッパのように、黄金に輝いていた。

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