赤い傘の少女~捏造される記憶たち~#シロクマ文芸部
※ある病状に対して否定的な文章があります。
※けしてその病気を患っている方々を否定するものではなく、自身の心理状態を表現するためのものです。
解離性記憶障害と霊障
赤い傘を差した幼い自分がのぞき込んでくるような雨の日。
好きな音楽をかけて、自分の中に深く潜り込む。
子供の頃から体の弱かった私の読書と同じくらい馴染んでいたひとり遊び。
幼い頃は絵を描きながら、ずっと独り言をいうという形でやっていた。
私は解離性記憶障害であり、解離性同一障害ではない。
このあたり、なにが違うのかと色々調べてみたけれど、明確な答えはまだ見つけ出せない。
たまに記憶が飛んでいて、知らない場所にいたり自分の体が他人のもののように感じたり。
二十歳の時に、ダニエル・キイスの「24人のビリー・ミリガン」を読んだとき、あまり評価しなかった。
幼い頃に養父に強姦された少年ミリガンが、自分を守るために「大人の女性」の別人格を作り出す。
その「彼女」が成長したミリガンの肉体を使って「女性」を暴行したことで、ミリガンは逮捕されるのだが、なんと「彼女」はレズビアンであるとわかる。
何かの文芸評論で、「キイスはミリガンに騙されて広告塔になっている」とあったが、納得してしまったものだ。
もう少し時間をおいて、「生徒諸君」で有名な庄司陽子の「I's」を読んだ。
主人公はやはり幼少期に養父に襲われて、解離性同一障害となる。
こちらの主人公は女の子であったけど、「24人のビリー・ミリガン」に強く影響されたのか、意識したのか知らないが、アメリカの少年と日本の女の子という違いをのぞけば、ほぼ同じ流れで話は終わる。
私は特に自分の中に、「別の何かがいる」と思ったことはない。
ただ、小説の登場人物たちと、私は目を閉じて色々おしゃべりをするだけだ。
なにが好きなの?
なにが嫌いなの?
誰を……殺したいほど憎んでいるの?
幼少期から繰り返されたこのひとり遊びは、私が「小説」や「詩」を書くことを覚えるまで、大人からは気味悪く思われていたようだ。
あるとき、
「この子は何かに取り憑かれているのではないか」
と、母と祖母は思ったようで、あやしげな宗教家のもとに連れて行かれた。
「水子の霊が取り憑いている」
そう言われて、母は真っ青になった。
私が生まれる2年前、母は望まれない妊娠をして、中絶をしていたのだ。
そんなことを告げられた10歳くらいの私は、
「ふうん」
程度の興味もない。
私自身が、「望んでない妊娠」の末、2度目の堕胎は危険だと「産むしかなかった」子供であることは既に知っていた。
中絶した子供の性別は分からなかったのに、たまたま当時の私のひとり遊びの相手が女の子だったため、生まれなかった子は女の子、姉にされてしまった。
私の遊び相手は、その子だけではなかったし、男の子もいたけれど。
理解できないことに「名前」がつき、大人は安心する。
墓やら仏壇をやたら大切にするようになった。
私も成長し、私の心の中にいる「友達」の話を小説として書くようになり、ひとり言は消えていく。
この「友達」がみな霊というなら、私はいくつ浮遊霊や地縛霊をつれていることになるんだろう。
セイラム魔女裁判
このような扱われ方をして育った私は、当然の事ながら霊感は全くなく、ただ好奇心として「オカルト」世界にのめり込んだ。
小学生2年くらいで読んだ、曽祢まさこの「魔女に白い花束を」で魔女狩りがあったことを知り強い興味を持った。
定期的な小遣いもまだ貰っていない私は、可愛がってくれている曾祖母を訪ねてはおこづかいをもらい、本を買って読んだ。
完全なオカルト系の本、歴史の本、心理学の本。
子供には難しい、ルビもふってないその本を読みあさって、
「こんなに恐ろしいことが現代に起きなくてよかった」
と震えていたものだ。
「普通のひと」と少しだけ違う、変わっているという理由で「魔女の烙印」を押され、拷問を受けたあげくに火あぶりにされることは、現実味はないはずなのに、どうしても頭を離れなかった。
旧態依然とした農村で「変わり者の家の変わり者の娘」、そう呼ばれて育った私には、他人事と客観視することが難しい。
いつも目立たないように生きていたはずなのに、因縁をつけられ大勢の前で笑いものにされ、そして物陰に連れ込まれて忌まわしい欲望の対象になる。
多分、この国に魔女狩り制度ができたら、真っ先に殺されるのは私だと思っていた。
しかし、魔女狩りはもう何百年も前のことだ。
不安になるのは馬鹿げていると思い始めた私は、読んでいた雑誌のコラムで「セイラムの魔女裁判事件」を知る。
1960年代に起きた、神がかり的な力を持った少女たちが次々と村人を告発して絞首刑にされた。
私は1972年生まれだ。
事件が起きた世代と大きく変わらない。
その後、日本でも「こっくりさん」などで集団ヒステリー事件が起き、セイラム事件も、閉鎖的で抑圧された環境での少女たちのヒステリー症状だという結論を出した記事を読む。
「閉鎖的で抑圧された環境」
私が住むこの村となにが違うのか。
あちらはキリスト教で、こちらは主に仏教徒が多いという違いくらいしか思いつかない。
私が迫害されるのは、自分の記憶のないうちに、なにかおかしな事でもしているからではないだろうか。
悪魔を思い出す娘たち
怯えながら年を重ね、二十歳になった私は村を出た。
村を離れたといっても、車で1時間ほどの町は、「大きな村」でしかないことは早々に気がついたが、気兼ねない一人暮らしを満喫していた。
給料の大半を本に変えていた。
読む作家、読むジャンルは明確になってきていて、本屋にいってもなじみの店員が私好みの本を取り置きしておいてくれる。
横溝正史を代表とするミステリ、島田荘司が立ち上げた「新本格宣言」もありそのジャンルは賑わっていて、謎めいた塔やら島やら双子が出てくるあやしげな人殺しの話が好きだった。
中学生の頃から流行っていた伝記物もまだ完結していない。
魔界水滸伝、帝都物語、宇宙皇子など。
好きな作家がたまたま明るい話を書くのは許容できたが、もともと明るいテーマしか書いていない作家にはまったく興味が持てない。
鬱々した小説やオカルト本、SF、ホラーばかり読んでも、世は世紀末ものが流行っていたので、そこまで悪目立ちはしなかったはずだ。
CLAMPは「東京BABYLON」が終わり「X」の連載が始まっていたし、映画は「羊たちの沈黙」などサイコパスな殺人を描いたものが多かったと思う。
スタジオジブリの映画も流行っていたが興味がもてない。
もうすぐ地下鉄サリン事件が起きる前夜祭のような日々、私は「死刑全書」をぼんやりと眺めていた。
その頃の偏った趣味の本で知った「悪魔を思い出す娘たち」は、平凡に生きながら頭の中は血まみれだった私に、一種の恐怖を感じさせたのだ。
それは1980年代、アメリカで実直な警官が実の娘に「性的虐待を受けた」と告発されたポール・イングラム事件を題材にした本だった。
警官はもちろん否認しするのだが、徐々に正気を失っていき、
「なかったはずの記憶を思い出していった」
また、告発していた娘も、
「新たな父の罪を思い出していく」
なんなんだ、これは。
あの頃は「ぼくの地球を守って」や、「アリーズ」など、転生ものが流行っていた。
現代の転生ものは「異世界にいって無双する」らしいが(あまり読まない)、当時は「平凡に生きている自分の前世は特別な存在だった」が大流行していた。
私は中学生の頃から、「オカルト雑誌・ムー」と購読していたが、あの頃の文通コーナーの「前世の仲間を探しています。こちらは騎士・天使です」といった投稿で埋め尽くされていた異常さは忘れない。
(東京BABYLONにはまさにそういう少女たちが登場する)
記憶はねつ造される。
こうであって欲しい記憶も、こうであって欲しくない記憶も、自分ではコントロールできない場所からやってきて「これは本当なんだ」と叫ぶ。
「私が解離性記憶障害であることも、本当は間違った思い込みなのかもしれない」
そう自問自答する昼下がり、心の中に未だに住み続ける少女が優しい笑みを浮かべて近づいてくる。
(もう疲れたなら、かわってあげる)
(いらないなら、ちょうだい)
(そのからだ)
少女は赤い傘をくるくると回している。
ああ、あれは母が私に買ってくれた傘。
あなたは、私。
私は、あなた?
遠い思い出。
私の中に残っている残滓、これは本当なのだろうか?
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