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暗い森の少女 第四章 ① 夢幻に囚われた影

夢幻に囚われた影


花衣は泣きながら目を覚ました。
とても悲しい夢を見ていた気がしたが、起きた瞬間にその欠片はちりぢりになってしまう。
むなしく手を伸ばして夢の端を掴もうとしたとき、ココアの甘い香りが花衣の意識を幽玄の世界から現実に連れ戻した。
真白い部屋で花衣は眠っていたようだ。
白い壁紙には淡いピンクの小花が散っている。ビーズが縫い付けられているレースのカーテンが朝日にキラキラと光って部屋に虹を描いていた。白い洋箪笥に、白いテーブル。テーブルの上にはやはり白い一輪挿しが置いてあり、可憐な白い花が生けてある。
花衣は怯えた。
ここはどこだろう。
ベッドから起き上がると、やはり白いレース模様の布団があたたかく体を包んでいたのに気がついた。そして、自分の白いドレスのようなネグリジェを身につけている。
そのことに気がついて花衣は羞恥を覚えた。
小学生になるまで、母は花衣に柔らかい生地の、レースで出来た蝶々や花のモチーフをあちこちにあしらったネグリジェを着せていたのだ。
それはもちろん眠るときにしか身につけなかったが、お姫様のドレスのようなネグリジェは花衣の心をときめかせたし、あまり花衣と関わらない母も、その時は笑っているような気がしたものだ。
しかし、花衣が8歳になった頃から、そのネグリジェを着ると祖母や叔父たちが嫌な顔をするようになっていった。
気取っている、いやらしい、など、まだ花衣には理解できない言葉で罵られて、花衣は次第にそのネグリジェを着るのをやめて、祖母の選んだ、子供っぽい派手なプリントのパジャマを着て眠るようになったのだ。
どうして今、自分がこんな格好をしているのか。また、祖母や叔父たちに「ふしだらな娘」と叱られ、もしかしたら叔父は花衣を殴るかもしれない。
胸の奥が恐怖で締め付けられる。
それにしても、ここはどこなのだろうか。
ココアの香りに混じって、何かを炒めている音と香ばしい匂いが漂う。
部屋の外からはにぎやかな笑い声も聞こえてきて、花衣は立ち上がり、そっとドアを開けてみた。
そこにも白い廊下があり、一番奥の部屋から笑い声は聞こえてくるようだ。
恐る恐る、花衣はその部屋に向かった。
ゴクリとつばを飲み込み、勇気を出してドアを開く。
そこは光が満ちていた。
大きな掃き出し窓からは朝日が神々しいほど差し込み、中央に置かれている白いダイニングテーブルがきらきら光っている。
その上には形は様々であるが白いカップが置いてあり、手前にあるぱったりとした厚いカップにはココアが満たされているようだ。
「おはよう、早起きだね」
背の高い男性が声をかけてきた。花衣はびくりと身を震わした。
白いワイシャツにざっくり編んだ灰色のカーディガンを羽織り口ひげをはやした男性は、形の崩れたオムレツにケチャップで絵を描いていたようで、花衣を見つめて肩をすくめる。
「今日はハムとタマネギにしたんだけど、なんだか炒り卵みたいになってね」
愛しげに花衣を見つめてくる男性に見覚えはないが、村の男でないことは確かだ。
花衣は、家族を含めて村人の顔を判別することはできない。
幼い頃から繰り返された無視と暴行のせいなのか、村人はみな白い仮面をかぶったようなぼんやりとした輪郭しか認知できないのだ。
それは家族も同じで、祖母も叔父たちも、母ですら顔はよく分からない。声や、手にあるほくろ、着ている服で判別しているにすぎない。
瀬尾の顔が分かるのは、やはり6歳まで東京で暮らして「村の外から来た少年」であるからだろうか?
いくらか髪に白髪が混じっているがまだまだ若々しい肌の艶をもった男性は、卵形の顔に、一重の切れ長の目、薄い唇を持っていて、もしも無表情になったら冷たい印象を与えるだろう。
だが、今花衣に向けられている目差しには限りない愛情が込められているようで、口元も優しい笑顔でほころんでいる。
「どうかしたのか、寝ぼけている?」
男性は花衣を気遣うようにそばに寄ってきた。花衣は体を固くして逃げようとしたが、男性の手が花衣の頭に触れる方が早かった。
「お父さんにおはようは? 花衣」
その言葉に再び花衣は怯えてしまった。
(おとうさん?)
花衣は父を知らない。
祖母たちの話が本当なら、母は19歳の時、当時2歳年下の高校生と同棲していて、花衣の父はその高校生であるはずだ。
母の妊娠がわかると逃げてしまったというその高校生の顔も名前もしらない。
花衣が11歳だから父は28歳のはずだが、男性はもっと年上に見える。
黙り込んでいる花衣の頭を、心から心配そうに撫でながら言った。
「熱があるのかな? それとも悪い夢でも見た?」
「そうなの、花衣?」
ずっと台所で料理をしていた女性が振り向く。
その顔は白くぼやけている。
「おかあさん!」
花衣は思わずその体に抱きついた。
女性はざっくりとした黒いセーターに細身の白いジーパン姿だ。長い髪を後ろでゆくる束ねねている。
村の女はこんな格好はしない。
顔は分からなくても母だと確信した。
「おかあさん!」
「どうしたの、やだ、泣いているの?」
母は戸惑ったように抱きついたまま泣いている花衣を抱きしめる。柔らかいぬくもりに花衣は号泣した。
「花衣、大丈夫かい?」
後ろから男性がおろろしたような声をかける。
母は花衣の髪を撫でながら、あやすようにもう一方の手で背中を叩いた。
「怖い夢を見たのね。大丈夫よ。ここには花衣をいじめるひとは誰もいない」
「おかあさん」
パンの焼ける匂いがする。
花衣が泣き止むのを待って、男性が白い皿にトーストを乗せてテーブルに置いた。
「今日は苺ジャム? それともママレード?」
深い声音は、不思議に花衣を落ち着かせる効果があるようだ。
母の胸にすがったまま、男性を盗み見た。
赤い蓋のジャムの瓶をいくつも持って、少しおどけて花衣に笑いかける。
「チョコレート、ピーナツ、桃。どれがいいかな、お姫様」
『お姫様』という言葉に花衣はいいイメージはなかったが、男性は本当に花衣のことをそう思っているのだと信じられた。
「さあ、花衣、顔を洗ってきなさい」
母も微笑んでいるようだ。
言われるままに洗面所で顔を洗う。
鏡に映った自分の姿は、少し青ざめているが白い頬はふくよかで、肩で切りそろえられた髪の毛は光を反射して煌めいていた。
(こんな姿をしていただろうか)
頬に手を当て、花衣は鏡の中の自分に問いかける。
祖母は花衣を大切に「葛木家の跡取り」として育てているとは言っていたが、叔父たちが家を出てからは、朝は起きてこず、夕飯も花衣が作るようになっていた。
風呂も毎日入ると「贅沢だから」と二日おきになってしまい、夏など汗のにおいで自分でも気分が悪くなっていたものだ。
もちろん、叔父たちが帰宅したときは祖母は喜んで家事をしたし、葛木本家に行くときは風呂も許され、入念に洗われて、美容院で髪を整えられていた。
(葛木家の跡取りとして大切にされている……?)
ずっとそう思っていたし、祖母や叔父は口酸っぱくして言うが、それは真実なのだろうか。
葛木家からの養育費は自分たちの遊楽に使い、花衣には必要最低限のものしか与えられない。
着替えのために花衣は自分の部屋に戻った。
洋箪笥には様々な服が綺麗にならんで吊らされている。
そこに紺色のワンピースを見つけて花衣は思わず手に取った。
細かい畝の入った生地のワンピースは、首元に模造真珠がネックレスのようにぐるりと縫い付けられている。たけはくるぶしまであり、まるでドレスのようだったが、派手な印象はなく、清楚で上品だ。
(お誕生日に着ていった服)
葛木本家で行われた11歳の誕生日会に着ていった。
花衣はとても気に入っていたが、葛木家から戻るとすぐに祖母に取り上げられてしまったのだ。
母が花衣のために選んでくれたワンピースが戻ってきたことが嬉しかった。
母の言うように、これまでのことはすべて悪い夢であったのかもしれない。
普段着に着たら叱られるかと思ったが、どうしてもその服が着たかった。
そっと袖を通す。
(着たところ、瀬尾くんに見せたいな)
そんなことを思いながら台所に戻ると、男性が大きく目を見開いて両手を広げる。
「なんて似合うんだろう。やっぱりこのワンピースにしてよかった」
「少し花衣には大人っぽいと思ったけど」
母は苦笑しているようだ。
「本当によく似合うわ。花衣が着る服はやっぱりお父さんが選んだほうがいいみたい」
「そうだろう?」
戸惑いが花衣を襲う。
(この服はおかあさんが選んでくれたもの)
「毎月毎月服を買ってきて、お父さんは花衣に甘いわ」
「だって花衣は成長期なんだよ。それにこの服は誕生日の特別なプレゼントだ」
「そうなんだけどね」
母は棚からなにか袋を取り出した。
袋に入っている白い物を、花衣の目の前もココアに浮かべる。
それは雲が風にかき消されるように、ゆっくりと溶けていく。
「もう朝ご飯にしましょう」
「そうだね」
男性は自分たちのカップにもコーヒーを注いだ。
コーヒーが入ったカップは3つある。
男性はそのひとつに牛乳と砂糖を足しながら母に言った。
「お母さん、またあいつは寝坊だよ」
「仕方ないわ、期末試験の勉強で遅くまで起きていたから」
そして、花衣に向き直る。
「花衣、お兄ちゃんを起こしてきて」
「え」
花衣の困惑を無視して、母と男性は話を続ける。
「年末はお母さんの実家には行かなくていいんだよね?」
「そんなことを言ったら、お父さんの地元にだって帰らなくていいの?」
ここはどこなんだろう。
花衣の知っている世界ではないようだ。
花衣は「お兄ちゃん」を起こすために立ち上がった。
台所のドアを開けようとした寸前、勝手にドアが開いたので花衣は飛び上がそうになる。
「おはよう」
寝癖でぐちゃぐちゃな髪をかき回しながら、あくび混じりに少年は言った。
「花衣、なにしてんだよ」
立ちつくしている花衣を怪訝な顔をして見た少年は、すぐにテーブルに座ってしまう。
「あ、俺もブラックコーヒーっていったじゃないか」
「昨日も隠れてミルクと砂糖足したのはばれてるぞ」
男性の声に少年はふくれっ面を作る。
「食べちゃいましょう。花衣?」
母の声が遠く感じる。
少年は花衣より背が高く、二つ三つは年上に見えた。
しかし、その顔は花衣の知っているひとに酷似しているように見えたのだ。
(鏡の部屋にいる、男の子)
少し無愛想で皮肉めいた表情は、わざと虚栄を張って悪ぶっているように見える。
本当は両親の愛を惜しみなく与えられ、たったひとりの妹の花衣もいとしく思っているのが分かった。
しかし、鏡に映った無表情でなく、怒ったり笑ったりする姿を見て、花衣はあることに気がついてしまった。
(瀬尾くんに似ている)
寝癖で乱れていても、清潔感のある賢そうな雰囲気、両親を見返す生意気でだが優しい目線。
瀬尾が花衣や夏木に見せる、打ち解けた顔そのものだった。
(あなたは誰?)
花衣は自分の精神の部屋を必死で探す。
あがいても、あの鏡の部屋は現れない。
(ここはどこなの…!?)
花衣の声にならない絶叫に気づいたふうでもなく、少年が声をかけてきた。
「早く食べちゃえよ。お前食べるの遅いんだから。また友達待たすのか?」
その言葉に男性は眉をひそめる。
「別に友達が迎えにくる必要なんてない」
むすっとした声だった。
「お父さんは瀬尾くんに焼き餅を焼いてるだけだわ」
母が笑う。
その母の顔が、霧が晴れるようにはっきりしてきた。
面長の輪郭、気性の激しさを表しているようなきっぱりとした太い眉、目元だけ少したれていて、それが思春期の少女のような不安定な魅力を出している。
その顔も知っていた。
(夏木さん)
真白い世界は点滅して、やがて暗闇が広がっていく。

花衣は目を覚ました。
そこは北側にある四畳半。
葛木家の買ってくれた立派な勉強机の他は、祖母のお古の粗末な箪笥と、母が使っていたベッドだけがある部屋だ。
夜と一緒にやってきた冷気に、花衣は身を震わせる。
なにか夢を見えていたようだったが、それは儚く霧散していった。

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