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暗い森の少女 第四章 ⑤ 鏡の憑依

鏡の憑依



「お前、なにをしていたんだい?」
祖母が壁のシミのようにぼんやりと立っている。
帰宅した花衣は、思わずのけぞった。
花衣は破れたブラウスと泥だらけのスカートを隠そうとしたが、どう取り繕っても花衣に行われた暴力の傷跡は明確であった。
何日着続けているのだろう、シワだらけの喪服の襟は開き、腰元は乱れ、裾からも足が覗いている。
村の生活に馴染もうと農作業も手伝っている祖母は、顔や手などはよく日焼けをしていたが隠された部分の肌は仏壇のろうそくのように青白くぬめぬめとした質感を持っているようだ。
「なにをしていたんだ!」
祖母は発狂したように叫ぶと、花衣を無理矢理風呂場に連れて行った。体の弱い老人と思っていた腕の力は思いのほか強く、また、抵抗すればなにをさせるかわからない怖さに花衣は従うしかない。
「この淫売が!」
風呂場は12月の寒気で震えるほど冷たく、風呂釜に残り湯は凍りそうだったが、祖母は花衣の髪を掴んで風呂釜に頭を突っ込んだ。
あっという間に息を切らし、花衣は水から顔を上げるが、そこをまた祖母水の中に花衣の顔を沈める。
「お前は葛木の跡取りだというのにいやらしい。そんなに男が欲しいのか」
憎々しげな祖母の言葉も、何度も何度も冷たい水に顔を押しつけられ、溺れているようになっている花衣には届かない。
何度水責めが続いたのか、花衣の意識がもうろうとなったところで祖母玄関から竹箒を持ってきた。
風呂場の洗い場でぐったりと座り込んでいる花衣を、竹箒で殴っていたのだ。
もともと花衣は三好という男子から受けた陵辱で体が凍え弱り切っていた。
そこに凍り付きそうな水に何度も顔を沈められて、息も絶え絶えと言うところを、風呂釜の水を吸った竹箒に、胸や下腹を繰り返し叩き続けられて、花衣は悲鳴を上げることすらできない。
「お前の悪いところはここか、ここか? どこにお前のいやらしいところを隠している。今から男なしでいられないなんて末恐ろしい」
花衣は意識を手放したかった。胸の奥にある鏡の部屋の住人のひとり、10代の少年が花衣に自分の感情をかぶせてきた。
(馬鹿野郎、逃げるんだ)
手も足も動けないほど痛めつけたれた花衣に、少年は苛立ったように言う。
(まだ動ける、逃げれる。早く、お前を守ってくれる奴のところにいけ)
そんなひとはいない。
祖母が再び高く竹箒を振り上げたとき、弱々しく横たわっていた花衣の体は跳ねるように飛び起きた。
「な……」
腰を低くした花衣は、下から祖母の睨めつけながら、不意をついて祖母から竹箒を取り上げる。
いきなりの反撃に腰を抜かした祖母に、竹箒で殴りつけるふりをして、それから吐き捨てた。
「馬鹿馬鹿しい」
普段の花衣からは想像もできないほど粗暴な口調である。
「まだ子供の私が『男狂い』だって言うなら、52にもなってまだ家に男を連れ込んで楽しんでいるあんたはなに」
雫をたらして頬に張り付く髪をかき上げ、祖母を見下ろす。
「自分だけが『正しい』と、自分だけが『我慢している』と、被害者ぶって家族を支配するあんたは、異常者だ。……葛木の家があんたを嫌うのは、そういうのが透けているからじゃない?」
花衣の言葉に、祖母は青くなりガタガタ震えた。
「あんたの罪は、自分で贖え」
それだけ言うと、花衣は祖母を風呂場に置いたまま自室にも戻り、雨に濡れ泥にまみれ、今さらに血に染まったぼろ雑巾のようになった服を脱いだ。それだけで体がミシミシという。
「くそ」
花衣、いや花衣を意識の上に立っている少年は、粗末な箪笥の中にある、着古された服を見てため息をついた。
(子供の頃はずっと母に服を選んで貰っていたが、ここ数年はあのばあさんがどこかから貰ってきたお古ばかりだったじゃないか)
大切に残していた母からの贈り物のワンピースやコートも取り上げられて、今の花衣は粗末な服しか持っていない。
「ここで夢の世界に逃げたって意味はなかったんだ」
傷からにじむ血が目立たないように毛玉だらけの黒いセーターにサイズが大きすぎる黒いフレアスカートに着替え、花衣である少年は数日分の荷物をまとめる。
祖母はまだ風呂場で震えているようだが、かまっている暇はない。
外は鬱陶しい雨がまだ続いているが、花衣は傘も差さずに家を飛び出した。

「花衣さん!」
夏木は傷だらけの花衣の姿を見て悲鳴を上げる。
花衣が頼ったのは夏木だった。夏木の自宅は車でいく距離であったが、瀬尾の母親が実家に帰省しているなら、夏木は瀬尾家にいるはずだった。
その予想があたったのだ。
「こんなに濡れて、どうしてこんなことに、誰が」
夏木らしくなく取り乱している。
夏木は花衣を風呂場に連れて行った。
そこは清潔で光に満ちて、あたたかいお湯が豊富に出る。
「湯船をためるけれど、とりあえずシャワーを浴びようね。……ああ、体にもこんなに傷がある。染みるけど我慢して」
血が乾いて服に張り付いているを剥いで行くのは骨が折れたが、夏木が丁寧にシャワーのお湯を使ってこわばりを溶かしながら服が脱がされた。
瀬尾家の風呂場は大きく窓がとってあり、白を基調にしたその空間は清らかで傷ついた体を癒やすのにはもってこいだろう。
壁に大きな鏡が設置してあり、花衣は裸の自分の体を見つめた。
最近背が伸びてきて、また乳房も膨らみを見せている。手足はまだまだ細く胴体にくびれはなかったが、もう「幼い体つき」とは言えないだろう
(最近、変な男が減ったのはこの成長のせいか)
花衣は皮肉に薄く笑う。
先ほどの三好はともかく、今まで花衣のことを散々欲望の対象にしてきた男は、幼い女の子しか興味がないのだ。
それが死んだ叔父のような歪んだ性癖か、それとも「大人しくて言うことを聞く抵抗できない存在がよい」、どちらかはわからない。
(腐ってるな)
三好のした行為が許されるとは思わないが、あの男子は昔から花衣が好きだったのだろう。力尽くでも花衣を手に入れたい、若い激しい恋情は少しだけ理解ができた。
「擦り傷と打ち身だけだから、消毒と湿布で大丈夫と思う」
風呂から上がると、いつもの応接室でない洋室で、夏木が手際よく手当をしてくれる。
この部屋も白を基調にしてあり、天蓋つきのベッドに、猫脚のテーブルなどがあった。
白い壁には複数の油絵が金色の額に縁取られて飾られている。
絵のことは分からないが、なかなか達者に見えるタッチで、描かれているのはすべて同じ女であった。
「落ち着いた?」
夏木は花衣を見つめている。
「はい、ありがとうございます。ごめんなさい急に訪ねてきて」
「気にしないで。直之さんは今日はおとうさんと夕食会なの。しばらくしたら帰ってくるから」
そう言って部屋を出て行った夏木は、湯気の立つカップをふたつ持って戻ってきた。
「なにか食べれそうなら作るけど、まずはあたたかい飲み物を飲んで落ち着きましょう」
渡されたカップの中は黒いが、灯りに反射してかすかに琥珀のような色合いに見える液体が香ばしい香りが漂わせている。
ミルクも砂糖もついていなかったが、まだ体の芯が冷えている花衣はその苦みと酸味の強いコーヒーを飲み干した。
「おかわりはいる?」
夏木の声に花衣は首をふる。
「いいえ、ありがとうございす。美味しかったです」
「次はミルクと砂糖も用意してあげるわよ」
妙にとげのある言い方だった。
上目遣いで様子をうかがう花衣を、夏木は正面に座りまっすぐに見返した。
「花衣さんはコーヒーが苦手なの。ミルクや砂糖をいれてもね」
花衣は心の中でため息をつく。
夏木は切り込むように聞いてきた。
「あなたは誰なの?」

「俺は気がついたら、花衣の中にいたんです。こいつが7歳くらいの時かな。叔父の暴力が始まって、まだ小さい花衣には耐えられなかったから、俺が表面に出て行って痛みを引き受けていました。……ええ、俺は最初からこの年でした。見ても分からないか。15歳くらいだと思います。そのあたりは自分でもよくわかってなくて。……はい、座敷牢の女は俺より前に花衣の中にいました。それだけ子供の頃から、『そういう目』にあっていたみたいです。そういうときは座敷牢の女が出て行って。……花衣は『鏡の部屋』と呼んでいる、精神の中に作られた場所に俺たちはいます。花衣がパニックになって自我が壊れそうになったとき、俺や座敷牢の女が交代していたんですが、その部屋には、意識に浮上しないもうふたりがずっといます。ひとりは俺より前からいる、いくつだか分からないばあさんです。こいつは何も言わず、鏡の部屋の隅でじっとしてますが、座敷牢の女は怖がってる感じです。ああ、そういえばこのばあさんだけ、年を取ってってる気がする……もとがばあさんだからわかりにくいけど、この頃はシワで目も口も隠れて梅干しみたい。もうひとりは、いつだったかな。花衣を守るためにそうしていたんでしょうけど、座敷牢の女が花衣にちょっかいをかける男たちから、金を取るようになったんです。金を払っている安心感か、男は必要以上に花衣のことを痛めつけたりすることが減りました。その頃3歳くらいの女の子が部屋の中にいるなって気がついたんです。最初はぼんやりとした影だったのが、どんどんはっきりしてきて。でもこいつは一番弱いです。何回か花衣の意識を乗っ取ろうとしましたが、跳ね返されてました。……そうですね、座敷牢の女と俺は、役割が決まっている。でも、ばあさんと3歳児はなに考えているかよく分からない。……そうですね、俺たち自体、なぜ花衣の中にいるのか謎です。……座敷牢の女は、花衣に同情的であったり、急に陥れようとしたり分裂的です。印象としては、俺たちが花衣の中にいるように、座敷牢の女の中にも複数人が存在している気がしてます。……葛木家のことは花衣を通して知ったことだけしか俺には分からないです。ただ、花衣はあの屋敷にある座敷牢に気を取られて気がついてないみたいですが、あの屋敷にいるのは、当主夫妻だけではないんです。宴会のとき、一族の女が離れに膳を持っていくのを見たことがあります。おかゆや柔らかくにた野菜とかなので子供か年寄りでもいるんでしょうが、それを一族総出で隠しているみたいです。それに、嫌なにおいがするんです。腐臭みないな鼻をつく気味の悪いにおいが離れから漂っている。俺は花衣を葛木家に行かせるのは反対ですが、ここにいても花衣は苦しいだけだから、花衣の父親に引き取って欲しいと思ってます。……ご存知なかったですか? 花衣の父親はずっと花衣の養育費を払ってます。松下の家は葛木家からも花衣の父親からも養育費を二重取りしているんです。最近は父親も花衣を引き取りたいと言っていて、そのせいか養育費も少なくなってきているようです。……花衣の父親の身元までは分からないかな。今は東京にいるとしか。……え? 花衣の母親のことですか? ……何でも知っていると花衣は思っているみたいですが、知らないことがあるんですね、夏木さん。……まあ、その予想はだいたい当たってます。ええ、だから花衣は母親に会えない。でもその存在は感じているようでもあります。どういう事なんでしょうか? それもわからない? 本当に?  夏木さん」

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