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小説 小料理わかば 三品目

 二品目はこちら。なお、前作を読まなくても楽しめるようにしています。

 

 午後三時の葉子さんは、まだ白いTシャツとジーンズ姿だ。今日は仕入れの日で、小口注文ゆえに配達されないものを手で持ってきたので、両手に重たそうなエコバッグを提げている。

 鰹と昆布で出汁を取っている間に、飾り棚にはたきをかけ、店内と入り口を掃き清める。カウンターに逆さにしてある椅子を下ろし、座面とテーブルに消毒液をスプレーする。

 おつまみが何品かできたところで、葉子さんは奥の小さな控室で着付けを済ませ、念入りに化粧をする。テーブルにお盆と敷き紙と箸置き、竹の割り箸を並べると、店内にしまってあった暖簾を軒先にかけ、行灯を出す。

 板前のユキさんがクーラーボックスを抱えてやってくる。懇意にしている料理店に融通してもらい、週二回板さんをレンタルしているのだ。葉子さんも刺身を扱えないことはないが、本職に任せたいというこだわりがある。

 ユキさんは本当は行博さんという。そろそろ独立してもいい頃だけれど、雇われの方が気楽なのだといって、向こうの店のオーナーをやきもきさせている。恋愛相手には困らなさそうな目鼻立ちだが、それにしてはオフの日に暇そうにしていて、恋人の有無について誰も突っ込んだことがない。

「このにおいは……肉じゃがですか」

「ええ。夏場は、この先煮物を食べたくなる時が来るとは思えないけれど、今年もちゃんとそういう時期が来ました」

 とはいえ、今週のおまかせミニコースには、トマトと夏野菜のひやしおでんが入っている。日中はまだまだ暑く、温かい料理と冷たい料理の組み合わせの最適解は、客の数だけある。

🗝 🗝 🗝

 久しぶりに来店した高橋は、今日のお品書きを見て驚いた。

「へえ、肉じゃが」

「ええ。高橋さんは肉じゃががあまり得意ではなさそうですけど、うちの肉じゃがはよそとは少し違うんですよ」

「わかりましたよ、じゃあひとつください」

 葉子さんが肉じゃがをよそう間、高橋はなぜ肉じゃがが苦手なのかを語りだした。

「大体男って、芋とかカボチャとか、ホクホクしたものがそんなに得意じゃないんですよ。それに肉じゃがって、出来立てが一番美味しいと思うんですよね。でも母親って二日分とか三日分とかいって、沢山作るでしょう? すると人参が目立つただの煮物になるんですよ。肉なんてあっという間になくなるから、『じゃが』ですよ、じゃが」

「ポテトフライはおつまみの定番なのにねえ」

「そうそう。肉じゃがって、メインのおかずにしては物足りないし、これで飲むには甘すぎて、中途半端なんですよ。なんでお前がお袋の味の定番料理みたいになってんだって思いますもん」

 高橋は残った人参ばかり食べさせられてきたのかもしれない。今は斜に構えた雰囲気の成人男性だが、厳しい親に逆らえない、生真面目な少年だった頃があったのかもしれない。葉子さんは高橋の言葉から伺える、彼の人生の端切れを頭の中に刻み付けながら、少し深さのある織部をカウンターに置いた。

 小ねぎが散らしてあるのが飲み屋仕様だが、じゃがいも、しらたき、玉ねぎの他に牛スジが入っていた。人参は花の形に切った薄切りが三枚、上に乗っているだけだ。高橋は、葉子さんもこの店も、肉じゃがのイメージじゃないと思っていたのだが、この肉じゃがなら納得がいった。

「ん! 酒に合いそうですね」

「さ、日本酒になさいますか」

 普通ならしてやったりなところだが、この程度では葉子さんの表情は揺らがない。

「からしください」

「もちろん」

🗝 🗝 🗝

 八時頃入店した三人客は一見さんだった。この店は紹介制ではないが、複数人で、しかも予約もなしに入ってくるのは珍しい。すでにどこかで飲んできたらしく、三人とも顔が赤くて声が大きかった。

「おかみさん、名前は?」おそらく他の二人の上司であろう、真ん中に座った眼鏡の男が葉子さんに声を掛けた。

「ああ、失礼しました。葉子と申します」

 葉子さんは袂から千代紙柄の名刺入れを出し、男に差し出す。高橋もはるか昔にもらった、桂木葉子と名の入った名刺だ。酔いが回った高橋の頭に、ふっと天啓が訪れる。俺たちはカモの刷り込みのように葉子さん、葉子さんと呼んでいるが、彼女の本名の中に、この四つの漢字はないのではないか。

 楠元と名乗るこの男は自分も葉子さんに名刺を差し出しながら、太鼓腹を反らすような仕草を見せた。

「いやぁ、こんな店が近くにあるなんて知らなかった。おかみさんは美人だし、肉じゃがが置いてあるのも気が利いてるじゃない。これからちょくちょく通わせてもらうよ」

「ありがとうございます」

「いいよねえ、『お母さん食堂』って感じで」

「楠元さん、それコンビニっすよ」楠元の部下らしき二人のうち、年長の方がツッコミを入れる。

「あっ、そうだっけ? 失礼しました。葉子さん、この店の料理がコンビニ並みって言いたいわけじゃないからね、たまたま、たまたまだよ」

「もー、すいません。楠元さん、これでも飲んでないときはいい上司なんですけど」

「コンビニのあのブランドのタイトル、確かSNSで揉めてましたよね」年若の方がぽつりと言った言葉を、楠元は耳聡く捕まえた。ああ、うるさいフェミニストたちが騒いでたやつでしょうと言う。

「ねえ葉子さん、そういうのってどう思う?」

 店でこういうことを訊いてくる客は、楠元に限らない。長く客商売をしているが、葉子さんには正解がよく分からない。「女なら、正面切って対決するんじゃなくて、男性をうまく転がさなきゃ」と言って微笑むのがよいのか、「今は女性をか弱い女の子のように扱う時代じゃないわ」と軽く怒った顔を見せた方が、被虐の楽しみがあるのか。しかしどちらも、葉子さんにとってはほんとうではない。店に立っている自分がどういう顔をしているのか分からないなんて、小娘の言うことかしら。

 葉子さんは「コンビニさんは、商売の敵です」とだけ言った。これも、ほんとうであってほんとうでない。ほんとうのことを、いう必要もない。

「ははあ。なるほどねえ」楠元は、ないあごひげをさすりながらにやにやしている。

「ここが第二の家みたいなもんだから、他の女の所に行かれたんじゃあね」

「ええ」葉子さんは薄く微笑む。

「レトルトだからって馬鹿にできないですよ。僕、たまにあれ買いますけど、思い立った時に惣菜が食べられるのは有難いですもん。企業が研究してるだけあって、味も悪くないし」と言うのは、年長の部下の方。

「男ってモンは単純なんですよ。女の人がそっと料理を差し出してくれて、それで明日も頑張れるなら、名前にこだわることないと思うんだよなあ。最近はなんでもセクハラ、パワハラになって窮屈だね」

「お母さん食堂は、実際はお母さんが作ってないですしねえ」などと言って笑う先輩二人を、隣に座る若手は黙って見ている。

🗝 🗝 🗝

 高橋が会計を済ませ、別の一人客、三人組が雪崩れるように去り、わかばは静かになった。ユキさんは残った魚をなめろうや漬けにしている。

「ユキさんが来る日を皆知ってるから、今日は刺身が沢山出たわ。いつもありがとう」

「今日はにぎやかでしたね」

「……ええ」

 ユキさんも葉子さんも、何か思うところがあるようだが口にはしない。金離れが良い方なら良し、どの人も、歪みがあるものなのだ。ユキさんは板前然とした格好のまま、空のクーラーボックスを持って一足先に帰って行った。

 葉子さんは普段、客がいないままラストオーダーの二十三時半が過ぎたらあっさり暖簾を下げてしまうが、今日は二十四時まで暖簾を下げずにいた。


「どうやら今年は来ないみたいねえ……」


 カウンターの内側には、小鍋で煮たてた、牛肉と大きめの人参の入った肉じゃがが、手つかずで残されていた。この店では、肉じゃがは年一回しか作らない。



※会話文の練習です。

※昨日の記事のネタを題材に別の切り口で書いてみました。

※この作品は、視点人物がコロコロ変わる三人称小説に自然となったのですが、これどうなんですかねえ。これが新人賞で忌避されるところの「神の視点小説」なのかしら。

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