見出し画像

小説 ビッグデータの活用事例

 子供たちの布団から静かな寝息が立ちはじめても、文音は暗い寝室で横たわったままだった。毎日、醒めない夢の中にいるようだ。子供たちは可愛い。もし別の人と結婚したら、全く別の子供を持つことになって、今の子供たちには恐らく会えない。その別の子供のことも私は愛せるだろうと思うが、それはやはりなってみないと分からないし、そのために今の子供たちを捨てるようなことは出来ない。

 でも、と文音は思うのである。私は多分今それなりに幸せなんだと思う。扶養の範囲内でパートをする程度の主婦は、刺激も、自分が社会の一端を確実に動かしているという自負も少ないけれど、自分の神経をすり減らすような苛酷な状況にも遭遇しない。お金は確かに大事だ。結婚や出産で退職すれば生涯年収は一億損をするというような話を大学でも聞いた気がする。このままの働き方では、子供を学校にはやれても自分たちの老後は危ないかもしれない。ただ、今は差し迫った生活の危機にまでは至っていないから、今が幸福だと誰かに言われたなら、そうかもしれない、と思う程度には平穏な毎日である。でも。私の人生にはもっと他の可能性があったんじゃないだろうか。

 ネット漫画・Web小説みたいに、生身の人間は簡単には転生できない。しかし人生のある地点に戻って、ある特定の選択をやり直した時に、どういう未来が起こりそうかを計算する技術は確立されつつあった。膨大な人数の行動選択のデータと、その人自身の脳のスキャニングによって、「かなり高精度に」予測できるらしい。

 最初に文音が選び直したのは、結婚してから出会ってしまった最後の恋の相手とのやり取りであった。後から考えると、あの時のあのやり取りがなかったら、もう少しうまくやれたのではないか、場合によっては夫と離婚し、彼と別の人生を歩めたのではないか……。しかし、文音の選んだポイントが悪かったのか、そもそも不倫というあだ花は咲き続けられない定めであるのか、「これは」と思ったポイントを、少しずつ時間を遡りながら選び直してみても、どの分岐でも結局彼と破局するという結果になった。

 彼とは所詮上手くいかなかったのだと今では納得もし、そのような関係に進ませた癖に、関係が進むと次第に優柔不断になり、こちらに責任を押し付けてきた彼を見限りきっているのに、もう一度あの時の心の痛みを追体験するような気持ちにさせられたのは最初の二、三回のことで、後はクリア要件が複雑すぎるクソゲーをプレイしている気分で、自分の人生のもうちょっと良い分岐を見たかったというよりは、よりよい条件を弾き出したいという欲が勝っていた。文音はそれに気付いてやっと我に返った。文音はこの件についての「選び直し」をやめ、もっと過去の自分に遡っていった。

 彼女がもう一つずっと蟠りを感じていたのは、大学で地元を出たのに、また地元に戻ってきてしまったことであった。彼女は両親とまあまあ大きな確執があり、地元を出るのは長年の宿願であったのに、何の因果か最初の就職先の配属が地元にある支店だったのである。

 毎年の面談時に別支店への転勤をもっと訴え出ればよかったのだろうか。それとも、社内エントリー制度を活用して、東京にしかない別部門の職種変更にチャレンジすれば良かったんだろうか。なかなか給与が上がらないことにしびれを切らして転職するのではなく、母校の大学院に入り直したら……いやいや、就職難でやっと出た内定にほっとして活動をやめずに、二次面接まで進んでいたあの会社、大学の特別求人で紹介されたあの会社の選考を進めていれば……。または、夫の前の恋人である、九州出身だったあの人とうまくやれていれば……。しかし、「選び直し」で分かったのは、最初の就職先は、当時たとえ総合職であっても女性をあまり転勤させないという方針を取っていたということで、文音がいくら頑張ってもおそらく転勤は叶わなかったということだった。また大学院に入り直しても、数年後に再就職した別の会社で、地元の拠点に配属され、そこで知り合った人と文音は結婚してしまうのだ。途中で辞退した例の二社は最終面接でいずれも落ちる公算が高く、それでも粘って就職活動を続けたら、ブラック企業と名高い飲食店に就職することになり、心と体を病んでやっぱり地元に戻ってきてしまった。さっきの分岐と同じように、文音が地元から脱出する道はないように思えた。

 「選び直し」はこの選択をするとこういう結果になりうるということがパーセンテージで表示される仕組みであったが、幼少期にまで遡っていっても、地元から離れられる確率は一番高くて51%程度に留まった。文音はもうどうしたらいいか分からず、小学生の時、親の転勤で遠方に越してしまう友人のトラックに乗り込むなんていう無理筋すぎる選択までしたが、却って親の束縛と監視が強まる結果にしかならなかった。

 唯一、常々文音の行動や思想を真綿で絞めてきたような母を、シミュレーション上で勢い余って殺してしまった時だけは、地元を離れることが出来た。しかしそれは地元以外の刑務所に送られたからであって、これでは地元を出られたといっても意味がなかった。

 文音の「選び直し」はもう数十時間に達していたが、結局文音は納得できていなかった。これはただのシミュレーション結果だ。シミュレーション結果の全てが、地元からの脱出を否定していたとしても、ある分岐点に戻った自分が本当にそうなるかはやはり分からないからだ。また、結局今の自分らしき自分にしか収斂しないのだとして、それが必然であり幸せであるかもわからなかった。たとえ過労で命が尽きたとしても、親との軛から離れられていること、曲がりなりにも自立できていることを、バージョンnの文音は誇りに思っていたかもしれないのだ。

 もうこうなったら、私がまだ卵子だった時に、結合する精子を選び直すか、全く思いもよらないような選択をどこかの段階ですべきだったのかもしれない。文音はラップトップパソコンを閉じた。


 別の並行世界にいる、文音が選考を辞退した会社に就職するも退職、一念発起して美容学校に入り直し、今は沖縄で美容師をしている文音の言:

「ふっと思い立って地元にあった前のサロンをやめて沖縄に来て、今は独立して従業員を何人か採用してもいるけど、今が幸せかというと分からないな。親のことは嫌すぎて、若い頃は死にたいと思うこともあったけど、何も地元を出るほどじゃなかったんじゃないかって。まあ、遠くにいるからそう思うだけなのかもしれないね。そういえば、あの年の二月に、大企業をやめてまで美容学校に入ろうって考えがなぜ浮かんだか、未だに分からないんだよね。同僚には化け物でも見るような顔をされたなあ。若い子ばかりの中で一から学び直すのは辛かったけど、手に職があって、働けているのは充実感があるよ。本当は、自分の子供が欲しかったなと今でも思うけど……。あの人のことを早々に諦めなければ良かったのかなとか、仕事を優先させすぎなきゃ良かったのかなとか、思ったこともあったよ。まあ私の人生、こういう風にしかならなかったのかもね」

サポートいただけたら飛んで喜びます。本を買ったり講習に参加したりするのに使わせて頂きます。