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愛の才能ないの

 長年仕事をもらっている会社の担当者は、昨年の今頃、私にこう言った。

「愛です、愛」

 私の仕事は学生を指導する類のものなのだけれど、指導方法に迷って相談した時に返されたのがこの言葉だった。私には愛が分からなかった。

 その会社には最低限のマニュアルしかなく、自由ではあったが、スキル向上の実感が持てなかった。先行きのわからない仕事に風穴を開けたくて、同業他社の仕事に応募して合格したのが一年前のこと。新しく仕事を始めたB社は事細かな業務マニュアルが整備されていて、最初の数か月は研修がある徹底ぶりだった。

 最初の頃、B社の担当からの指摘は型にはまりすぎていると感じた。指導例と少しでも異なることを書くと、「ここは分かりにくいです」「ここを直してください」と言われた。最初の会社A社では特に指摘を受けなかった箇所なので、このことで随分悩んだものだ。
 B社の仕事で、他の作業者の仕事ぶりを見る機会があった。指導の文面はマニュアルに沿ったものだったが、どの答案も似たような文言が並んでいて、それぞれの学生の声を半ば無視しているように思えたし、事実、学生の提出してきた答案は良くなっているように思えなかった。もちろん、学生の指導内容についての理解力があるかも、答案の改善における大きな要因ではあるけれど……。私がA社で続けてきた仕事も愛をもってできているという自信はなかったが、B社の仕事も愛だとは思えなかった。私に愛の才能はないと思った。

 そうやって何か月か意に沿わない仕事を続けて、しばらくぶりにA社の仕事を引き受けた。自分でも分かるほどはっきり、うまく指導文を書けている実感があった。A社は私の仕事ぶりに関して基本的に文句も称賛もしてこないスタイルなのだが、今年、A社からの仕事がめっきり増えたのは、私の実感が私だけの感覚ではないことを示唆している。私が嫌々やっていたB社の型通りの仕事は、愛のかたちを知るには必要な経験だったのである。

 きっと恋愛もそうなのだろう。ただ闇雲に、自分がこうであると思うような愛のかたちを表明しているだけでは、本人には愛している実感があるのだろうが、これが本当に愛なのか確証は持てないだろうし、愛し方が下手くそで、相手は愛だと感じにくいのではないか。愛の定石を身に付けた上で行動すれば、一定以上の愛が伝わる。定石をさらに発展させて、自分の個性を出せれば言うことはないのだろう。

 しかし、たとえば多くの恋愛経験を経たり、恋愛工学なるものを身に付けたりして、相手に「自分は愛されている」と実感させるスキルに長けていったとして、その本人に相手を愛している実感はあるのだろうか。スキルが高くなればなるほど、(私がB社の仕事で感じたように)愛する手順は画一的、機械的になっていくだろうし、それによって簡単に相手から好意を引き出せてしまったら、自分は本当にこの人を愛せているのか分からなくなるのではないかと思う。人は当たり前にできてしまうことに価値を感じにくい生き物だから。単に持てるテクニックを駆使することと、本当に自分が相手を好きだから気遣うことは区別しにくいから、目の前の人をかけがえのない存在だと思うことも難しくなりそうだ。上手く愛せるようにはなった。恋人も愛されていると感じている。しかしそれは愛と言えるのだろうか、といったことになりそうである。おそらく愛というのはそんな程度のものなのだろうけれど、釈然としない。
 私は愛のかたちを教えてくれたB社の仕事よりも、B社の仕事を経てしているA社の仕事の方が、相対する学生のことを愛せているという感じがする。やっぱり私には愛の才能はなくて、今も勉強中で、多分一生身に付かない。

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